マニラのeそよ風

 トップ  >  「マニラのeそよ風」一覧

2014/09/23 教皇殉教者聖リノの祝日

2014年9月 長崎
左から:小野田神父、シュテーリン神父、レネー神父(2014年9月)


アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 聖ピオ十世会アジア管区の新しい管区長であるカール・シュテーリン神父様は9月12日の夜に日本に到着され、アジア管区長としての9月13日には大阪で、9月14日には東京で、初めてミサ聖祭を捧げました。時を同じくして、9月14日にはレネー神父様が大阪で主日の午後に聖伝のミサを捧げてくださいました。

 こうして、天主様の御摂理によって、今年の9月14日の十字架の賞賛の主日には、3名の聖ピオ十世会司祭らがそれぞれ東京と大阪とで聖伝のミサを捧げることになりました。

 シュテーリン神父様は、すでに12年前の2002年10月に日本に来られて、東欧管区の管区長として、東京、大阪、長崎を訪問されたことがあります。ところで、まだ私がエコンの神学生であったころ、日本には時折オーストラリアから聖ピオ十世会司祭が訪問しミサ聖祭を捧げてくださっていました。私たちのレネー神父様も、オーストラリア管区長として、すでに22年以上も前にオーストラリア管区の司祭らの活動の視察のために、日本および韓国を訪問されています。

 しかも、天主様の御計らいによって、9月15日の聖母の七つの御悲しみの祝日には、シュテーリン神父様、レネー神父様というベテラン司祭をお供して、愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは長崎に巡礼に参りました。

 新管区長様は、9月13日大阪で、9月14日には東京で、ミサ聖祭の終わった後に、聖ピオ十世会の日本、韓国、そしてアジア管区を、聖母の汚れなき御心に奉献しました。しかも、9月15日には、長崎の長崎市本河内(ほんごうち)にある聖母の騎士修道院のルルドで、3回目として、これを繰り返して、日本、韓国、アジア管区を奉献しました。

 コルベ神父様の無原罪の園のルルドでは、コルベ神父様の作ったインマクラータへの奉献の祈りを三人でラテン語で唱えました。
日本語サイト リンク http://www.immaculata.jp/mag2006/manila347.html

(その後、シュテーリン神父様は同じ祈りをポーランド語で、私は日本語で唱えました。)
日本語サイト リンク http://www.immaculata.jp/mag2013/manila426.html

 「御身が入り給うところはどこであれ、そこで御身は回心と成聖の聖寵を祈り求め給うなり。そは、御身のみ手を通してイエズスの至聖なる聖心から、全ての聖寵は、我らにたどり着く故なり」と唱えつつ、シュテーリン神父様が書いていた言葉を思い出しました。インマクラータこそが「唯一の、避難所であり、私たちをして天主へと導く道である」、「その時始めて、改心と聖化の聖寵が、イエズス・キリストの聖心から、インマクラータを通して流れ出る」という言葉を。

 シュテーリン神父様の指導の下で、私たち司祭が全てインマクラータの旗の下に結集することが出来るのは、聖母の汚れなき御心と共にイエズス・キリストの十字架の足下に留まることが出来るのは、大変大きなお恵みであり、本当に慶びです。

 シュテーリン神父様は聖コルベに「狂って」いて、コルベ神父様のことになるとついポーランド語が口をついて出てきます。シュテーリン神父様はインマクラータについての本を今までに三冊書きましたが、そのうちの最初の二冊はドイツ語でした。しかし、最後には、聖コルベの全著作集(Opera Omnia)で、聖コルベが単なるメモしか書くことが出来なかったその断片から、コルベ神父様の言わんとしていたことが解るようになっていたので、第三冊目はポーランド語で書かざるを得なかった、とのことです。

 シュテーリン神父様には、昨年8月15日、チェンストホーバへの巡礼が終わってから、ポーランドのワルシャワにあるニエポカラノフに連れて行ってもらいました。今度は、長崎の無原罪の園に一緒に巡礼をしました。神父様は、無原罪の園の聖コルベ記念館で、セルギウス・ペシェク修士の手書きのノートを見つけて、その内容を読んでくれました。ポーランド語を読んでそれをフランス語に翻訳してくれました。それをかい摘まんで言うと、コルベ神父様が2月11日のルルドの祝日まであと一ヶ月だから、無原罪の聖母に祈って祝日の準備をしよう、という内容でした。

 シュテーリン神父様と一緒に3人でロザリオも良く唱えましたが、ファティマの祈りの後に必ずポーランド語で「オー・マリオ、云々かんぬん」と唱えるので、ついに何の祈りですか、と聞くと、これは無原罪の聖母の騎士たちが唱える祈りで、「汚れなく宿り給いし聖マリアよ、御身により頼み奉る我らのため、また、全て御身により頼まぬもののため、とくに秘密結社の回心のために、祈り給え。」という意味だそうです。

 あぁ、そうそうと思い出しました。
日本語サイト リンク http://www.immaculata.jp/mag2013/manila426.html
【コルベ神父様のこの祈りについては、司祭になり立ての頃、記事を書いたこともあります。 日本語サイト リンク 聖マキシミリアノ・コルベ神父の初ミサ

 長崎について荷物を置いて、私たちが最初に行ったところは、浦上の天主堂と無原罪の園でしたが、その後、西坂の二十六聖人記念館にも行きました。そして聖なる日本の殉教者たちに祈りを求めました。

 翌日9月16日には、永井博士の如己堂と長崎市永井隆記念館を見学しました。永井博士の言葉を思い出し、目頭が熱くなりました。

「浦上を愛し給うが故に浦上に苦しみを与え給い、永遠の生命に入らしめんが為に此世に於て短きを与え給い、しかも絶えず御恵みの雨をこの教会の上にそそぎ給う天主に心からの感謝を献ぐるものでごさいます。」

 信徒発見の大浦天主堂に行き、そのすぐ近くの聖コルベが最初に一年間だけ借りた家に行き、また、西坂に戻り祈りを捧げた後、稲佐山展望台に上りました。

 永井博士の「信仰の自由なき日本に於いて迫害の下四百年殉教に血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ、神の祭壇に捧げられるべき唯一の清き羔ではなかったでしょうか。この羔の犠牲によって、今後更に戦禍を被る筈であった幾千万の人々が救われたのであります」という言葉を思い出しつつ、殉教の地で人間の苦しみについて黙想しながら、午後5時半の飛行機で長崎を発ちました。

「病気や災いは天主から遠ざかっているしるしだとか、天主が私たちをお見捨てになった証拠だとかではないのです。・・・ 私たちは、愛する者たちを試みたり、気まぐれに人をもてあそんだりする天主を信じているのではありません。天主はそのような方ではありません。もっと心の広い大きな存在です。」(「長崎の歌」337ページ)

 今年の5月に秋田巡礼をしたジョン・ヴェナリさんもその後長崎に巡礼して、そのことをカトリック・ファミリー・ニュースに記事にして、最後に Catholic Encyclopedia の Japanese Martyrs の項から引用して、こう言っています。

日本語以外のページへ New Advent : Catholic Encyclopedia > Japanese Martyrs
"There is not in the whole history of the Church a single people who can offer to the admiration of Christian world annals as glorious, and a martyrology as lengthy, as those of people of Japan."
(キリスト教世界を感嘆させるべき栄光ある記録と長い殉教録とを提供することの出来る一民族は、日本民族以外に、教会の全歴史において存在していない。)

 フィリピンでは、昨年、様々な災害がありました。10月15日にはセブ島やボホル島での大地震があり、11月8日には台風30号(国際名:ハイヤン、現地名:ヨランダ)がレイテ島のタクロバンを中心にサマール島なども襲いました。

 何故、天主はこのような試練があるのを許すのでしょうか? 天主の永遠の智恵と御摂理に私たちは信頼する私たちには、天主が私たちの何らかのより大きな益を望んでおられるから、としか言うことができません。

 何故、この世に苦しみがあるのでしょうか? それは私たちがアダムの子孫であるからです。原罪を負って生まれてきた私たちには、そして罪人である私たちにはどうしても避けることができないものとなってしまっているからです。

 旧約のヨブのような義人でさえ、また私たちの主イエズス・キリストでさえ、苦しみを耐え忍びました。しかし、イエズス・キリストによって、試練は、私たちにとって、聖化の手段であることが教えられました。

 自然の秩序について見てみると、私たちは、全てを天主から受けました。生命も、健康も、才能も、境遇も。Manus tuae, Domine, fecerunt me totum in circuitu. (ヨブ 10:8) 主よ、御身の御手が私の全てを作り給うた! 私たちは、天主において生き、動き、存在します。In Ipso vivimus, movemur et sumus. (使徒行録17:28)もしも天主が私たちたちを存在させ続けなければ、もしも天主がその御手を引き給うならば、私たちは無と化してしまうでしょう。Omnis caro faenum, exsiccatum est faenum, et cecidit flos. (イザヤ 11:7) 全ての人間が藁で、枯れ果てた藁だ、花は落ちた。私たちが持っているものは全て天主からのものです。

「あなたのもっているもので、もらわなかったものがあるか?もらったのなら、なぜ、もらわなかったもののように誇るのか?」(コリント前 4:7)

 超自然の秩序についても、同様です。私たちは天主の養子となりました。私たちの主イエズス・キリストの兄弟となりました。しかし、それは天主の恵みによってです。

「私たちも、前には、愚かで、不従順で、迷ったものであり、さまざまの欲と快楽との奴隷であり、悪意と妬みとをもって生活した厭うべきものであり、またたがいに憎みあっていた。しかし、救い主なる天主のいつくしみと人間への愛とがあらわれたとき、かれは、私たちがおこなった正義の業をかえりみず、ただおんあわれみにより、再生の洗いと聖霊の一新とによって、私たちを救われた。天主はそれを、救い主イエズス・キリストによって、豊かに私たちの上に注がれた。それは、かれの恩寵によって、私たちを義とし、希望にしたがって永遠の命の世嗣ぎとするためである。」(ティト 3:4-6)

 しかも、私たちは天主の子女となった後も、天主の御助けなしには、永遠の生命を得るための功徳を積むような善行を行うことができません。

 イエズス・キリストがいなければ、私たちは何もできません(ヨハネ15:5)。聖パウロも言います。「自分自身から出たもののように、何事かを自分に帰する資格を、私たちはもっていない。いや、私たちに資格を与えたのは天主である」(コリント後 3:5)と。さらに、聖霊によらなければ、私たちにはイエズスの聖名を超自然的に呼ぶことさえもできません。「聖霊によらなければ、だれも「イエズスは主である」ということができない」(コリント前 12:3)のです。全ての善は、私たちの不足にもかかわらず、私たちはそれを受けるに足りないものであるにもかかわらず、天主の憐れみによって、私たちに与えられています。全ての善は、天主から来ています。私たちが善行をすることができるのも、天主が、私たちが功徳を積むことを許されるからです。

 聖ベネディクトは、その戒律の第四章にこう書いています。

[42] 自分に見いだす何らかの善があれば、それを自分ではなく天主に帰すること。Bonum aliquid in se cum viderit, Deo applicet, non sibi;

[43] しかし悪は常に自分がなしたと言うことを知り、自分に責任を帰すること。malum vero semper a se factum sciat et sibi reputet.

 アダムとエワの時から、天主は、たとえ人類を罰しなければならない立場にあり、そのようにし給うたとしても、それでも同時に天主は私たちを憐れみ給います。アダムとエワが罪を犯したその直後でさえ、憐れみ深い天主は救い主を約束し、ご自分が決して人類を忘れないという印に彼らに服を与えました。

 罪人である私たちは、ちょうど聖金曜日に私たちの主イエズス・キリストと共に十字架につけられたあの二人の盗賊のようです。罪ある私たちは、どうしても苦しみや試練を避けることができないからです。ただし、私たちが試練にであったとき、私たちの態度には二つがあります(ルカ23章)。

 一つは、悪しき盗賊の取った態度です。十字架につけられた悪人の一人は、イエズスに「あなたはキリストではないか。では、自分とわれわれを救ってくれ」といって悪口をあびせました。これは、自分を天主よりも上に置く態度です。

 もう一つは、良き盗賊の取った態度です。彼は、悪しき盗賊を押し止めて、「あなたは同じ刑罰をうけながら、まだ天主をおそれないのか。われわれは行なったことのむくいをうけたのだから当然だ。」そして「イエズス、あなたが、王位をもってお帰りになるとき、私を思い出してください」と言うのです。苦しみと試練を、罪の償いとして、謙遜に受け入れる態度です。

 私は、フィリピンの被災地には直接行く機会がありませんでした。何故なら、他の二名の司祭たちがレイテ島に直接行って救護活動をしているからです。私はマニラの教会で、日常の生活をしながらお祈りをしていました。しかし、レイテ島やサマール島での被害があまりにも甚大で、復旧に時間が掛かるので、多くの被災者の方々が空軍によってマニラに運ばれてきました。そこで、空軍基地に行って手伝うように要請を受けた私たちは、昨年の11月16日、17日、19日、21日、22日とフィリピン軍の基地に行ってボランティアとして働きました。多くのボランティアの方々が基地に来ていました。多くのシスター達も来ていました。食料も古着などもどんどん到着していました。

 そうして、着のみ着のままで飛行機に乗ってマニラに着た家族や子供たちと会いました。タクロバンから、サマールのギアンから、オルモックから、またその他の場所から来た方々で、家やその他全てを失った方々、身内を失った方々、あるいは家族をまだ残してマニラに来た方々に会いました。そういう方々と出会って、お話を伺いました。カトリック司祭の存在をとても心強く感じられたようです。ロザリオを差し上げたり、スカプラリオの着衣式や、祝福して差し上げました。そんな中で、私が出会った方々は、皆、この試練をとても肯定的に、超自然的に受け止めていたのが印象的でした。他人についてこう語るのは容易ですが、私たちも、試練をいつも肯定的に超自然的に受け入れて捧げる準備ができていますように! 

 願わくは、私たちの主イエズス・キリストがそのように苦しみを受ける方々に、良き盗賊に言った言葉をなし給わんことを。

 「まことに私はいう。今日あなたは、私とともに天国にあるであろう。」


 なにかとりとめも無く長くなってしまいました。さて、今回は、シュテーリン神父様からの、アジアにおられる全ての友人のカトリック司祭たちへのお手紙を日本語でご紹介いたします。このすばらしい日本語訳を作ってくださった方に心から感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


罫線


聖ピオ十世会・アジア管区の司祭たちへの手紙
日本語以外のページへ FIRST LETTER FROM FATHER KARL STEHLIN


Fr Karl Stehlin
カール・シュテーリン神父・2014年9月 長崎訪問


カール・シュテーリン神父よりの最初の手紙

親愛なる神父様!

 この手紙は、第一に、聖ピオ十世会と接触したことのあるすべての司祭の方々に向けて書かれています。長年に渡って私たちのことをご存知の方々もいれば、私たちの発行している出版物を受け取っているだけの方々、あるいは私たちの宣教旅行の一つでお会いしたことのある方々もいます。おそらく複雑な二次的原因を通して、神父様にこの手紙が伝わり、私の言葉をお伝えする光栄を与えてくださった天主のみ摂理に感謝しています。


私たちの一致

 あなたに思い切って手紙を書く理由は、次に述べるこの偉大な真理の故です。すなわち、本質的にすべての司祭たちは、主イエズス・キリストの同じ司祭職を分かち合っているということ、それゆえに、本質的に私たちの源泉に、秘跡的刻印において結ばれており、それは私とあなたを「alter Christus 第二のキリスト」たらしめ──主の永遠の司祭職に参与せしめるのです。しかしながら、私たちが主において一致しているなら、私たち自身の間においても一致があるべきだという論理にならざるを得ません。聖主は「あなたが私の中(うち)においでになり、私があなたの中(うち)にあるように、みなが一つになるように!」(ヨハネ17:21)と永遠のおん父に願った時、彼はどれほどこの霊的一致を、司祭的祈りの中で、熱烈に望んでいたことでしょうか?


私たちの孤立

 しかしながら今日、多くの司祭たちは、肉体的にというより霊的に、ばらばらになっているかのように見えます。司祭たちの間にあるまことの一致は、永遠の大司祭なるキリストへの一致にかかっているのです。そしてキリストに一致しようと互いに励まし合えば合うほど、私たちはこの危険に満ちた世界において互いに助け合えるのです。

 聖なる司祭職に加えられた攻撃を、あなたは私よりもよくご存知のはずです。あらゆる立場から(特に現代の世俗メディア上で)、司祭職が嘲笑され、司祭職が進歩、女性たち、人権、人間の尊厳、自由とは真逆のものであることを非難され、最も卑劣な性的倒錯行為の逃げ込み場所になっているのを、私たちは耳にしています。世俗は私たちをもはや理解しないかのようです。私たちはよそ者で、容疑者の集まりになってしまっています。なぜなら私たちは世俗が理想とするひな形に、どうやら適合しないからです。「Vae soli, 一人きりでいるのは不幸なことだ」と、コヘレットの書[伝道の書](4:10)は言います。なぜなら、このような圧力にいつでもどこでも抵抗することは、ほとんど難題といっていいからです。従って、互いに手を組み、助け合うこと、私たちの司祭職の美しさと偉大さを保ち、再発見すること、アシジの聖フランシスコの「Deus meus et omnia! 我が天主、我がすべてよ!」というモットーに則って、私たちのまなざしを絶えずイエズス・キリスト、私たちの「唯一の、そしてすべてであるお方」にしっかりと向けておくことが必要なのです。


私たちには信仰が必要です

 私たちの司祭職を霊魂のうちに生き生きと保ち、世俗の攻撃を打ち負かす二つの手段があります。聖ヨハネは、素晴らしい明瞭さで最初の手段を教えてくれています。「世に勝つ勝利は、すなわち私たちの信仰である」!(ヨハネ1 5:4) 

 残念なことに、現代世界では、信仰は凋落の一途を辿っています。名誉教皇ベネディクト十六世は、信仰の危機について何度も語りました。過去五十年間、私たちは教会内での完全な方向転換を経験し続けてきたということを理解するのは簡単です。聖職者層からのメッセージは、現在では世俗の方へ、この世界での人間の生活や悲しみ、喜びの方へと向いています。黙想し、教えられるべきテーマの一覧表のトップに、永遠の真理はもう存在せず、この真理の数々は時代遅れだと考えられているのです。多くの事例の中でも、ちょうど二つの例を挙げましょう。過去五十年以上に渡って、教皇様(ベネディクト十六世)は、たった一度だけしか「戦闘の教会」という言葉を使いませんでした。同様に、「四終(novissima)」の教義は、完全に覆い隠されてしまいました──徹底的な沈黙が、審判、地獄、煉獄、大罪の結果、私たちの内に残る原罪の永久的な傷痕などを包み込んでしまっています。

 永遠の真理へと私たちの心を引き挙げようとしないなら、私たちは司祭として生き残ることはできません。真理は私たちを占領し、私たちを惹きつけなければなりません。信仰の炎を輝かせ続けないなら、私たちはもはや自分たちの司祭職を、信仰のひときわ優れた神秘である司祭職を理解しないでしょう。ですからその結果として「この世が私たちを認めないのは、おん父を認めないからである」(ヨハネ1 3:1)となるのです。

 私たちは信仰のうちに強められなければならない、と私が申し上げるなら、これは向こう見ずなことではありません。あなたは司祭職の深刻な危機を間違いなくご存知です。すなわち、非常に大勢の司祭たちが司祭職を放棄し、非常に大勢の司祭たちが、キリスト者の生活が失望させるほどに破綻しているのを目の前にして、絶望と幻滅の状態で生きているのです。

 私たちの信仰が危機にさらされているもう一つの理由は、自然的レベルにおいてさえも、さまざまな物事を目にする危機のただ中にあるからです。「あの人たちは安楽な生活をしていて、そしてキリスト者でいられる。では、なぜ私は孤独なままで軽蔑されていなければならないのだ? あの人たちは正当な楽しみを得て、努力に対する報酬を得ている。では、なぜそれらのことが私には禁じられているのだ?」こうして、一部の司祭たちは、以前は禁じられていた自然的慰めが許可されるよう要求しています。別の司祭たちは、はっきりと禁じられているわけではないさまざまな事柄を使って、不摂生なまでに楽しみに溺れています。アルコール依存症に陥り、インターネットや映画に依存し、金銭や休暇、くつろいだ生活を常に期待しているあまりに多くの同胞たちを見るのは非常な悲しみです……。この結果はたいてい破滅的です。すなわち、二重生活、司祭職の放棄、背教へと至ります。

 聖主によって与えられた永遠の光と真理の高みへと入り込むために、私たちの信仰を堅固なものとすることは非常に重要です! 信仰の、この超自然の「現実」は、私たちの目を開かせ、信仰を蝕み、人々を悪魔の奴隷とさせる、錯覚と偽りのイデオロギーに気づかせる光を与えてくれるでしょう。


私たちには聖性が必要です

 私たちの司祭職を霊魂のうちに生き生きと保ち、世俗の攻撃を打ち負かす二番目の手段は、聖徳です。ヨハネによる聖福音の中で、聖主はおん父に「Sanctifica eos! 彼らを聖別してください!」と乞い願いました。司祭とは奉献された存在です。司祭はその手に、その心に「至聖なるおん者」を抱き、宿すのです。特に司祭に対して、聖主はこのように言っています。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全なものになれ」(マテオ5:48)

 私たちを天使たちよりも上に置き、人間も天使もなし得ない奇跡を勝ち取らせる司祭職の途方もない偉大さに気づいているなら、では、私たちは「取り扱うものを模倣する」(Imitamini quod tractatis)【叙階式の時に司式司教が叙階される司祭たちに言う言葉】という果てしない望みを持たなければなりません。至聖なるおん者に触れる手は、聖なる人の手であるべきです。ですから、なによりもまず、私たちは天主との一致という深い熱烈な望みを持たなければならず、祈りの生活を辿って行き、そうして「主の慈しみを見つめ味わう」(詩編33:9)のです。私たちは賛美とともに、聖なる生活を送った司祭なる先人たちに思いを馳せます。かつて、このような司祭たちは一国を回心させ、何百という霊魂たちを永遠の救いへと連れて行きました。彼らから学ぶべき多くのことがあり、私たちが彼らの歩みに続くなら、同様のことを私たちが勝ち得るだろうと聖主は約束して下さっています。


信仰と聖性の源──ミサ聖祭

 さて、信仰と聖徳の二つの最も完全な表現であり、理解に至る手段は、ミサ聖祭です。聖主が聖木曜日に私たちに明かされたように、これこそが、自分たちの司祭職の核となる場所であり、これこそが、私たちの存在理由なのです。聖木曜日に、聖主は私たちに教えて下さったこと「Hoc facite in meam commemorationem 私の記念としてこれをおこなえ」(ルカ22:19)を、正しく完成させるよう、私たちにお命じになったのです。


教会には忠実で聖なる司祭が必要です

 大聖グレゴリオは「教会にとって最大の損害は不忠実な司祭であり、最大の利益は熱烈で聖なる司祭である」と書きました。聖主はご自分の王国に聖職者位階があることを望まれ、主として司祭たちを通して、つまり、聖ペトロによって「forma gregis ex animo 群れの模範」(ペトロ1 5:3) と呼ばれた司祭たちを通して天主の光と恩寵を与えることが、天主の聖なるご意志なのです。すなわち、私たちの群れの霊魂たちは、私たちが与える模範に依存しているのです。

 あなたは聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネの言葉を聞いたことがあるはずです。「聖なる司祭は良い小教区を生み出し、良い司祭は平均的な小教区を生み出し、平均的な司祭は悪い小教区を生み出し、悪い司祭は小教区を無くしてしまう」と。

 教会は、恐らく今まで以上に、堅い信仰を持った聖なる司祭たちを必要としています。教会を慰め、(内部や外部から)教会に負わせられた傷を癒やすために私たち司祭を必要としています。不忠実な司祭たちによって裏切られ続けた自分の子らに勝利を取り戻すために、私たちを必要としています。教会を復興させ、拡大させるために働く私たちを必要としています。


忠実で聖なる司祭たちのおん母

 人々の心を高め、成功を収める使徒職を持つ忠実で聖なる司祭たちを目にする時はいつでも、彼ら一人一人は司祭職のおん母なる聖母、インマクラータ(無原罪の聖母)のおん助けを当てにしているというのは、もう明白でわかりきったことです! 私は、公にそのことを宣言しているたくさんの司祭たちを個人的に知っていますし、聖母なしでは、彼らはすべてを放棄していたかも知れません。ロザリオなどのおかげで恐るべき危機を克服できたと言っている司祭たちもいます。


この手紙を広めて下さい

 あなたの司祭生活の気高さ、美しさ、必要性と基礎を理解して実現させるように司祭たちを助けることによって、私たちの間の絆を強めるため、これこそが、親愛なる同僚である神父様、私があなたに思い切ってこの手紙を送る理由です。この手紙があなたを喜ばせ、あなたの同僚の司祭たちにとって霊的に役に立つと思われるなら、この手紙を読んでいただけるよう回覧し、あるいは、直接コンタクトをとれるよう私に連絡先を送って下さい。できれば、最も簡単で、すぐに、確実に連絡を取れる手段であるEメールを使って、あなたとコンタクトを取りたいと考えています。

 あなたが私のために祈ってくださるよう心からお願いします。私もまたあなたのために祈ると約束します。すべての試練において、聖主があなたを強めて強固にしてくださり、悲しみのうちにあるあなたを慰めてくださるよう、聖主おん自らが恩寵と堅固さを与えてくださるように願います。そして、すべての母たちの中でももっとも優れたお方なる聖母が、救霊のすべての敵どもから、あなたを絶えずお守りくださいますように。


 感謝を込めてあなたの
 カール・シュテーリン神父


2014年9月

2014年9月

2014年9月
2014年9月 東京・大阪・長崎訪問



罫線