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第157号 2003/06/30 聖パウロの祝日

聖パウロ
聖パウロ


やぎと子牛の血を用いず、自分自身の血を持って、ただ一度だけで
永久に至聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた。(ヘブ9:12)
Cor Iesu, tabernaculum Altissimi, miserere nobis !
いと高き御者の住居(すまい)なるイエズスの聖心、我らを憐れみ給え。

アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、

 今日は、ルフェーブル大司教様が1988年の司教聖別をなさって15周年の日です。

 ルフェーブル大司教は、多くの人から、この聖別によってのみ裁かれ断罪されていますが、これは、ルフェーブル大司教の人生の内では、たまたま起こったことではなく、ローマでの神学生時代から、アフリカでの教皇大使の時代、聖霊修道院総長、第2バチカン公会議の中央準備委員、公会議の教父、聖ピオ十世会創立者として自分の生涯の信仰を守るという一大事の続きとしてであり、とくに、ローマからの祝福を受けて1970年に創立した聖ピオ十世会という信仰を守るための戦いの最終手段としてとった最後の究極の行動でした。これはローマと断絶するためでもなく、別の教会をつくるためでもなく、ただ「世界中に私たちの主イエズス・キリストを宣教し、十字架、ミサ聖祭、聖寵の必要性を宣教すること、私たちの主イエズス・キリストご自身がなさった宣教を続けてすることが出来るような司祭を教会に与え続けること、良き、真実の、健全な、聖なるカトリック教義を宣教すること、全人類の罪の償いのためとしてミサ聖祭を捧げることのため」(ルフェーブル大司教の言葉)に、この聖別を行ったのです。

 この司教聖別と聖ピオ十世会の存在理由を理解するためには、ルフェーブル大司教が第2バチカン公会議に一体どのように実際に参加したのかを理解する必要があります。何故、ルフェーブル大司教は、第2バチカン公会議で戦わなければならなかったのか、その深い理由を理解する必要があります。何故なら、第2バチカン公会議は、ルフェーブル大司教や公会議に実際に出席した人々にとって過去との断絶であると思われたからです。過去の教会との、話し方の断絶、言い方の断絶、説教のしかたの断絶、行動のしかたの断絶であり、この断絶が、教会において緊急状態を生み出した根源にあるものなのです。

 そこで、今回は、第2バチカン公会議を少し振り返りたいと思います。何故なら、私たちが第2バチカン公会議は「こうあるべきだ、だからこうだ」式の思い込みの理論ではなく、第2バチカン公会議を準備し、これに参加し、現実を見たルフェーブル大司教を理解するためにも、第2バチカン公会議をありのままの見つめ直す必要があると思うからです。


公会議に参加した教父たちは、
  公会議が革新であったと主張する

 第2バチカン公会議以後、カトリック教会が大きく変わったと言われています。かつて無かった新しいこと、革新が導入され、ある意味で第2バチカン公会議前後には「断絶」があるようです。「『断絶』があるようだ、ではなく、まさしく『断絶』があった」と言っている人々は多くいます。

 例えば、第2バチカン公会議の時に神学顧問として招待されて活躍し、第2バチカン公会議においてなした功績のために後にヨハネ・パウロ2世教皇様によって枢機卿の位に上げられたイヴ・コンガール枢機卿がそうです。

 コンガール枢機卿は、第2バチカン公会議によってなされた過去との断絶を告白している、というか、過去との断絶が第2バチカン公会議の「勝利」であると高らかに謳歌しています。特に、第2バチカン公会議がもたらした成果である3つの革新を強調しています。

 つまり、
(1)司教団主義、
(2)エキュメニカル運動へと開かれた新しい教会の概念、
(3)信教の自由、です。

 例えば、司教団主義について、コンガール枢機卿はこう言っています。

 「教会は平和的に10月革命を行った。」【Yves Congar, le Concile au jour le jour, 2e session, le Cerf, 1964, p. 115.】

 教会については、こう言っています。

 「『教会憲章』は、カトリック教会だけが排他的に唯一の教会であるという説を放棄した。」【Yves Congar, Essais oecumeniques, le Centurion 1984, p. 216.】

 つまり、教会は或る一つの「説」を放棄した、と言うのです。この「説」は、キリストの教会が唯一であるという教会にとって最も本質的なことに関わることがらで、つまり、目に見えるカトリック教会だけしか真の教会は存在せず、救われるためにはこの真の教会であるカトリック教会に所属しなければならない、ということを放棄した、と言うことなのです。

 そこから生じたのがエキュメニカル運動の新しい概念です。しかも既に教会によって排斥された概念なのです。コンガール枢機卿は、そのことを認めています。

 「第2バチカン公会議の公文書である『エキュメニズムに関する教令』が、数世紀にもわたって教会が理解してきた意味においての『教会の外に救いなし』という格言とは別のことをいろいろ言っていると言うことは、明らかであり、隠すのも虚しい」【Yves Congar, Essais oecumeniques, le Centurion 1984, p. 85.】

 ですから、コンガール枢機卿は、「エキュメニズムに関する教令」がピオ11世教皇の「モルタリウム・アニモス」と明らかに矛盾している、と言うことを告白しているのです。【Yves Congar, Essais oecumeniques, le Centurion 1984, p. 85. ピオ11世教皇は、「モルタリウム・アニモス」のなかで、エキュメニズムに関する教令で定義しているエキュメニカル運動を排斥しています。】

 信教の自由については、コンガール枢機卿は何と言っているでしょうか?

 「信教の自由に関する宣言は、1864年のシラブスとは内容的に別のことを、ほとんど正反対のことを言っていると言うことを私たちは否定することが出来ない。」【Yves Congar, La crise de l’Eglise et Mgr Lefebvre, le Cerf, 1977 p. 54. ピオ9世教皇は、「シラブス」という誤謬の命題の一覧を発表して、それらの誤謬を排斥しています。】

 コンガール枢機卿は、エリック・ヴァトレ氏の本の中で、こう告白しています。

 「教皇様の要求に従って、私は『信教の自由に関する宣言』の最後の数段落を書くのを手伝いました。私の仕事は、信教の自由というテーマが既に聖書の中に現れていたということを証明することでしたが、実は聖書の中にはそのようなものはありません。」【Eric Vitré, A la droite du Père, Edition de Maismie, 1994, p. 118.】

 ですから、コンガール枢機卿は、第2バチカン公会議が定義した「信教の自由」に関する説にはいかなる根拠がないと、公にはっきりと肯定しているのです。

 これについて、ロランタン神父はこうコメントをしています。

 「第2バチカン公会議の信教の自由に関する宣言は、その限界と不完全さを持つにもかかわらず、一歩の前進であった。この宣言は、シラブスによって象徴される過去の概念との断絶であり、また同時に、教会の現実主義的な断言であり教会が現代世界において受け入れられることの出来る唯一の場所の証言である。」【Abbé Laurentin, Bilan du Concile, le Seuil, 1967, p. 207 et 213.】

 一言で言うと、つまり断絶があったと言うことです。

 最後にコンガール枢機卿の次の言葉も引用してみます。

 「第2バチカン公会議の教会は、『信教の自由に関する宣言』と、教会および現代世界に関する『現代世界憲章』とによって、過去において偉大であったことを否定せず、明らかに今日の多元的世界の中に自らを置き、中世から脈々と繋がりを持ち得たその絆を断ち切った。教会は歴史の一時代に留まっていることは出来ない。」

 「教会は第2バチカン公会議によって脈々と繋がってきた過去との絆を断ち切った」

 これが、ヨハネ・パウロ2世教皇様が、第2バチカン公会議で無双の働きをなしたが故に、枢機卿の地位を授けたコンガール枢機卿の告白なのです。


 私たちは、第2バチカン公会議に参加した有名な神学者たちが同じ事を言っているのを知っていますが、ここでは、スーネンス枢機卿の言葉を引用することにします。

 「第2バチカン公会議の以前にはローマで『唯一真実である』として教えられていた学説であるが、しかし公会議の教父たちによって否定された多くの説が数多くある。私たちは、それらの学説の目を見張るばかりの大きなリストを作ることが出来る。」【Cardinal Suenens, Informations Catholiques Internationales, du 15 mai, 1969.】

 ですからこそ、ピオ12世の元では排斥されてきたド・リュバック師は、第2バチカン公会議後に枢機卿となり、第2バチカン公会議を「小さな革命」と呼ぶのをためらわなかったのです。【Cardinal de Lubac, « Entretiens autour de Vatican II », le Cerf, 1985, p. 20.】

 そこからハンス・キュンクの次のような言葉が生じています。

 「ルフェーブルには、信教の自由に関する公会議の宣言を疑問視する正統な権利がある。何故なら、いかなる説明もなしに第2バチカン公会議は、第1バチカン公会議の立場を正反対にしたからである。」【Hans Küng, National Catholic Reporter, October 21, 1977.】

 ラッチンガー枢機卿も同じ分析をしています。ラッチンガー枢機卿は「カトリック神学の原理」という本の中で、「現代世界憲章」についてこう認めています。

 「この文書の全体的評価を求めるなら、信教の自由に関する文章と世界における諸宗教に関する文章との関連において、この文書はピオ9世の『シラブス』の修正であり、ある意味で『反シラブス』であると言うことが出来るだろう。・・・この文書は、教会が、フランス革命以降このようになった世界と公式に和解しようと試みている意味において、シラブスの反対の役を果たしている。」【Cardinal Ratzinger, Principes de Théologie catholique, Téqui 1985, p. 426-427.】

 ラッチンガー枢機卿の最近の著作は、第2バチカン公会議を支配していた精神状態をもっとよく説明しています。

 「私は、教会の中が、そして神学者たちのあいだで、雰囲気がますます激高していたのを見ていた。私たちは教会の中では安定したものが何もない、全ては見直さなければならない、という印象をますます強く受けていった。公会議は、ますます、自分の思い通り全てを変更し作り直すことが出来る教会の議会のように見えてきていた。公会議の議論は、近代議会政治システムに固有のやり方で進められるべきであると主張していた人々の思い道理に、ますます進められていった。・・・しかし、更にもっと深いやり方が進められていた。もしローマの司教たちが教会を、すなわち信仰を、変えることが出来たとしたら(これが彼らが与えていた印象だ)、本当のことを言えば、何故、彼らだけがそれをすることが出来るのか? ひょっとしたら、今まで考えてきたこととは全く反対に、信仰を変更することが出来るのかもしれない。信仰は人間の決定に左右されないということはもはやなくなり、人間が信仰を新しく定義できるかのように見えていた。・・・信仰宣言は不可謬ではないようであり、専門家の言うがままになっているかのようであった。もし私が第2バチカン公会議の第1総会が終わった時に支配していた喜ばしい革新の感情に浮かされて祖国に帰ったとしても、私は教会の中にますます顕著になっていく雰囲気の変化に不安を覚えていた。」【Cardinal Ratzinger, Ma vie mes souvenirs, Fayard 1998, p. 115-118.】

 第2バチカン公会議には、このような過去と断絶した革新があることをヨハネ・パウロ2世教皇様も認めておられます。

 ルフェーブル大司教を非難しながら、ヨハネ・パウロ2世教皇様は自発教令 Ecclesia Dei Adflictta の中で、第2バチカン公会議の文書の中には革新が存在していたと言うことをはっきりと証言しています。ルフェーブル大司教の「誤り」を述べた後に、「公会議と聖伝との継続性に光を当てるように、特に、もしかしたらその革新のために教会の一部においてまだよく理解されていなかった、公会議の教えの幾つかの点に光を当てるように」【Ecclesia Dei Adflicta, D.C. no. 1967 du 7 aout 1988, p. 789.】と神学者たちの注意を引いています。

 つまり、何のことかと言うと、聖なる天主の教会であるカトリック教会において、まだ決して理解されたことのない新しい考えがあること、全カトリック教会において、まだ決して承認されたことのない革新、新説、新しい思潮が存在していると言うことを証明しているのです。

 1965年12月7日第2バチカン公会議閉会の訓話で教皇パウロ6世はこう言っています。「教会は特別の教導権によって特定の教義を決定しませんでしたが…」なぜなら「私は離れた兄弟たちとの論争の種を、私たちの信仰としたくないのです。・・・事実、公会議を開催した教会は、…人間についても考察したのであります。すなわち、現代に生きる人間、自分のことだけに専心している人間、また自分がすべてのものの中心であると考え、自分がすべてのことの原理であり目的であると考える人間について考察したのであります。…」

 「世俗の天主なき人間主義(l'humanisme laïque et profane)がついに恐るべき巨大さをもって現れ、言わば公会議に挑戦して来たのであります。人となった天主を礼拝する宗教は、自らを天主となす人間の宗教------なぜならそれも一つの宗教ですから------とが出会ったのです。」

 「何が起こったのでしょうか。衝突や紛争や排斥が起こる可能性はありましたが、そんなものは何も起こりませんでした。・・・すなわち、人々に対する限りない愛が公会議全体を侵略したのであります。この公会議は、地上の子らがますます自らを偉大に考えるにつれてそれだけ大きくなる人類の必要を、全力を傾けて考察しました。・・・公会議の全ての富は一つにことしか目標にしていません。それは人間に奉仕すると言うことです。・・・カトリック宗教と人間生命はその契りを再確認します。その両者が共に向かっている唯一の人間という現実で一致します。つまり、カトリックの宗教は人類のためにあるのです。・・・皆さん、少なくとも公会議のこの努力を認めてください。天上のことの超越性を放棄している現代の人間中心主義である皆さん、私たちの新しい人間中心主義を認めることができるようになってください。私たちも、私たちもだれにもまして人間を礼讚するものなのです。(et sachez reconnaître notre nouvel humanisme: nous aussi, nous plus que quiconque, nous avons le culte de l'homme.)…」

 これが、第2バチカン公会議のした「断絶」だったのではないでしょうか。

 第2バチカン公会議の教会は、天主の栄光と霊魂の聖化という超自然の目的から人間への奉仕へと方針を大転換したのではないでしょうか? このパウロ6世教皇様の告白に、第2バチカン公会議の教義的な革新の根本的な根があるのではないでしょうか。


歴代の教皇たちによって排斥されてきた革新

 ルフェーブル大司教の反対したのは、まさしく、この革新の精神であり、そこから生ずる教義上の結果だったのです。この制限のあるお手紙では、聖伝の教えと第2バチカン公会議の革新とがどれほど矛盾対立しているかを詳しく述べることが出来ません。それについては、後ほど、別の時にしたいと思います。私たちはここでは唯、革新の精神それ自体が過去の教導権によって排斥されてきたかということを指摘したいと思います。

 すでに第1バチカン公会議ではこうあります。「(DS3070) 聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは,聖霊の啓示によって,新しい教義を教えるためではない」。そうではなく、聖ピオ10世教皇の表現に依れば、教会の中にある教義上の権威は、第1に、信仰の遺産を伝え守るためにあるのです。

 「主の群を養うという、天主から私に託された職務にキリストによって定め与えられた主要な責務の一つは、涜聖的な新しい言葉づかいと、誤って知識と呼ばれる異議異論とをしりぞけ、最大の注意を払って聖徒らに託された信仰の遺産を守ることです」(聖ピオ10世回勅『Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日)。

 聖ピオ10世は、即位した直後の最初の回勅で警告の叫びを挙げています。「聖職者たちは、真理の仮面をかぶってはいるがイエズス・キリストの香りを匂わせない或る新しい学問の危険な働きかけに騙されないようにするように」(聖ピオ10世『E supreme apostotalus』1903年10月4日)。

 聖ピオ10世教皇は、回勅「パッシェンディ」で、近代主義を詳しく説明し、かつ排斥したのですが、この回勅はあまりにも忘れられています。聖ピオ10世は、この回勅の中で、前任者のグレゴリオ16世の言葉を引用してこう書いています。「彼らが新奇なものへの盲目で歯止めを欠いた情熱にかき立てられている様が見受けられます。彼らは何らかの、真理の強固な基盤を見出すことなどおよそ眼中になく、聖なる使徒伝承の伝統を蔑視して、他のむなしく不毛で不確かな、教会によって認められていない教理を奉じ、その上に真理そのものを打ち立て、保持し得ると、高慢のきわみをもって考えるのです。・・・理性が新奇なものを求める精神に屈するとき、使徒[パウロ]の警告に反して、それが本来知るべきものよりさらに知ろうとするとき、また、自ら[の力]を過信し、真理が誤謬のわずかの陰さえも被らずに見出されるカトリック教会の外に真理を見出すことができると考えるとき、人間の理性の逸脱は見るに堪えない光景を呈します」(グレゴリオ16世回勅『Singulari nos』1834年6月25日)。


過去教会が排斥した革新に対して
  ルフェーブル大司教は戦った

 多くの教皇たちは無数の警告を発し、革新を排斥してきました。しかしそれにもかかわらず、現代の教会の聖職者たちは、アッジョルナメント(現代化)という誘惑に陥ってしまいました。ルフェーブル大司教を初めとしたその他の高位聖職者たちが第2バチカン公会議の際にはっきり目で見て分かったのがそのことでした。

 公会議において、革新の精神に浮かされたものたちがいるのを見て驚き、それに対して抵抗し、戦ったのはルフェーブル大司教一人ではありませんでした。第2バチカン公会議が終わって、躓いて帰国した高位聖職者たちも多くいました。

 例えば、スイスのシオン教区のアダム司教もその一人で、彼は第1総会しか参加せずに、第1総会で躓きこのような公会議には二度と足を運ばないといって、本当にスイスに戻ってきてしまいました。

 ブラウン枢機卿のような方は、第2バチカン公会議の数ヶ月後、公会議の為した大激変を憂い、心痛のあまり早くも亡くなってしまいました。第2バチカン公会議の革新は、それ以前に何度も教導職によって排斥され、否定された教えだったからです。

 ルフェーブル大司教が何を考えていたかをよく理解するためには、ルフェーブル大司教の反対したその起源へと立ち戻ることが必要です。第2バチカン公会議当時、多くの聖職者たちが実際に生きたその時代をよく理解することによって、ルフェーブル大司教にとって、それは、典礼の問題というよりも、何よりもまず、教義の問題、信仰の問題だったということが分かるのです。何故なら、このことはちょっと意外かもしれませんが、ルフェーブル大司教は典礼憲章にサインしているからです。何故なら、それは典礼に関する教令で、新しいミサではなく、ルフェーブル大司教も少々の変更は許されると考えていたからです。しかし、ルフェーブル大司教は、教義に関する教令については、特に、2つの全く新しい教令であった「現代世界憲章」と「信教の自由に関する宣言」については、「賛成 Placet」のサインをすることを拒否しました。ルフェーブル大司教が典礼についての戦いを始めたのはその後、4年目のことです。それは1969年に「パウロ6世のミサ」といわれているものが、新しい神学に則って作り上げられたからです。なぜ新しいミサに対して戦ったかというと、それはまさしく、この新しい典礼様式は、公会議の新しい神学を伝える道具であり、新しい神学の表現であるからです。


結 論

 では、聖ピオ十世会は何に対して抵抗をしているのでしょうか? 本質的には、第2バチカン公会議による新しい教会論、つまり、現代のエキュメニカル運動を生み出し信教の自由の宣言を書かせた新しい教会論にこそ私たちに抵抗の核心があります。最終的には、第2バチカン公会議の終わりに、カトリック教会のまさに懐の中に、新しい教会が、つまりベネリ司教(Mgr Benelli)が表現したように「第2バチカン公会議による教会 Eglise conciliaire 」が、カトリック教会の内部に生まれつつあったのではないでしょうか。 この「第2バチカン公会議による教会」というものの範囲と限界を定めるのは難しいのですが、言ってみれば、第2バチカン公会議の新しい考え方、新しい神学説を意識的に故意的に支持することによって、この新しい教会が作られているように思えます。この新しい「第2バチカン公会議による教会」の範囲は特に曖昧で、奇妙な逆説のようです。カトリック聖伝の名前によって第2バチカン公会議の「精神」を疑問視する人々は、この「公会議による教会」の懐から追放され、他方では、第2バチカン公会議の精神の名前によって、この信奉者たちは、カトリック教会が過去何度も排斥してきた異端者たちとは絆をますます深めていくのです。私たちは、この事実、この現実を目の前にしているのです。

 聖ピオ十世会の抵抗は、この「公会議による教会」に対してあるのです。なぜなら、第2バチカン公会議による新しい教会論は、聖伝のカトリックの考え方に対して、よそ者の新しい考え方、歴代の教皇様たちが排斥してきた新しい考え方だからです。私たちは、カトリック教会とはよそ者としての「公会議による教会」に対して抵抗しているのであって、教皇様としての教皇様に反対しているのでは決してありません。私たちの戦いは、典礼の問題だけのことではありません。公会議によって表明された新しい神学とそれの表現でありかつそれを伝える新しい典礼、それに抵抗しているのです。歴代の教皇様たちによって教えられた永遠・普遍の教えに戻ることこれを主張しているのです。

至聖なるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え!
至聖なるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え!
至聖なるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え!

使徒聖ペトロとパウロ、我等のために祈り給え!

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 この文章は、Lettre à nos Frères prêtres, N. 1, Mars 1999の中の記事にある、A la lumiere du concile : Nature du combat de Mgr. Lefebvreの翻訳です。


■ なぞなぞ

 日本語サイト リンク 前号の答えは:「感謝」でした。

 私はイエズス・キリストを見たが、聖母マリアを見たことがない。私は洗者聖ヨハネを見たが使徒聖ヨハネを見たことがない。私は善い盗賊を見たが、悪い盗賊を見たことがない。私は多くの人を見たが、いまでは幼子しか見ていない。私は一体、誰?

 この答えは、日本語サイト リンク 次号に掲載します。お楽しみに!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)