マニラのeそよ風

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第396号 2007/08/07 聖カイェタノの祝日

聖カイェタノ(彫像 1738)

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?
 福者ドン・コルンバ・マルミオンの『修道者の理想なるキリスト(Le Christ Ideal du Moine)』は、天主を愛する霊魂は「天主の家の光栄を思う熱心」について語ります。これを「奮発心」と言います。修道院長は、奮発心に燃えなければなりません。

 私たちは自分と隣人の救霊について熱心でなければなりませんが、「おなじ隣人といってもピンからキリまであり、私たちの隣人とは、誰よりも先ず、私たちと同じ屋根の下で、共通の召し出しと修道に生きる修友たち」である、といいます。

 ドン・マルミオンはこの奮発心について、二つの種類があることを言います。「よい聖なる奮発心」と「苦々しい奮発心」です。「苦々しい奮発心」は、「人生の経験に乏しい証拠」であり、初心者の持ついわば若葉マークのような奮発心であり、霊的生活の欠如のしるしです。

 そこでドン・マルミオンは、よき奮発心を持つためにまず悪い奮発心を捨てなければならない、修道院長は、悪い奮発心を持ってはいけないと警告しています。私は、これをまず、自分のために警告として、読んでいますが、極めて示唆に富んでいるので、兄弟姉妹の皆様にも紹介したいと思います。


====引用開始====

 聖ベネディクトは先ず「人を地獄に引きずり込む悪い奮発心」があることを、私たちに警告しています。これこそ悪魔とその共謀者たちが、あらゆる手段を使ってキリストの御手からその御血を持って贖われた霊魂を強奪しようとする奮発心なのです。

 この憎むべき熱心こそは、悪い奮発心の最大です。悪魔はその息吹をもってこの悪い奮発心を人々の心に吹き込みます。そのために聖ベネディクトは、この奮発心が人を地獄に落とすと言っているのです。

 悪い奮発心の一種に、善の仮面を付けたのがあります。これが例えば、律法の厳格な遵守を自負していたファリザイ人の奮発心なのです。聖ベネディクトは、この種の奮発心を「苦い」奮発心と呼んでいます。

 天主と隣人への愛から出る代わりに、自分の傲慢心から出るからです。この奮発心にとりつかれている人は、自分の聖徳を鼻にかけ、とんだ虚栄心に落ち込んでいます。自分の理想以外に、正しい理想はないと決め込んでいます。自分と歩調を合わせないものがあれば、どしどしこれを非難攻撃します。皆は自分の主張とやり方に譲歩すべきだと考えています。

 そこから紛争や軋轢が生じるのです。所詮この奮発心は、激しい憎悪に終わるのです。ファリザイ人がその見事な標本です。彼らはよくイエズスに、胸に一物或る質問を連発し、落とし罠と謀略を巡らして、これを追跡します。真理を知ろうと努める代わりにイエズスのあらを探します。

 姦婦の処刑を強要する場面を思い出して頂きたい。「先生、この女は姦淫の現場で捕まえられたのです。モイゼは律法の中で、こう言う女を石殺しにせよと命じています。ところであなたは何と言われますか。」

 イエズスが安息日に病人を癒されると、ファリザイ人はつぶやきます。イエズスが安息日に麦畑をお通りになった時、空腹を抱えていた弟子達が麦の穂を摘んで食べると、またイエズスに向かって苦情を言います。イエズスが罪人や税吏たちと食卓を共にされると、またまた躓きます。これらは何れも、「苦い奮発心」の現れであり、その中にはしばしば偽善が潜んでいます。

 次に、「行き過ぎた奮発心」があります。いつも緊張しきった、いつもせかせかして落ち着きのない、騒々しい、動揺している奮発心がそれです。この奮発心に駆られている人は、自分の見るもの、聞くもののうち、一つとして完全なものはないと思っています。

 聖ベネディクトは修道院長に、この奮発心を戒めています。「修道院長は、粗暴であってはならず、くよくよ心配しすぎてもならず、過激に出ないように、頑迷にも陥らないように、また怨恨や猜疑の念を抱かないように注意しなければなりません。」

 さらに「配下の修道者の過失をため直すに際しても、慎重な態度で臨み、過激に走ることなく、さびを削り落とそうとするあまり、肝心な器をこぼつことがあってはなりません。始終自分の弱さを眼前に見据えて、砕けた葦を折らないように注意すべきです。」・・・

 よく修道者の中には何かあればすぐに批判するものがいます。自分こそは熱性に満ち、奮発心に燃えている、と信じ込んでいます。なるほどそれに違いないでしょう。彼は実際に燃えているのですから。

 だがしかし、それは平和を乱す熱誠であり、悪い奮発心なのです。「苦い奮発心」なのです。性急で、無分別で、冷静を欠いているからです。

 毒麦の譬えの中で、イエズスがお語りになったのは、まさにこの種の奮発心なのです。敵が蒔いた毒麦を引き抜くために、畑に行かせて下さい、としもべたちに願い出させたのは、この奮発心です。

 イエズスを受け入れなかったサマリア人の町を使徒達が怒って「主よ、私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」とイエズスに願わせたのも、この「苦い奮発心」だったのです。

 イエズスのお答えはどうだったでしょうか。

 「しかし、イエズスは振り向いて、彼らをおしかりになり、そして言われました。あなたたちは自分たちがどのような霊的状態にあるのかを知らない、人の子が来たのは、命を滅ぼすためではなく、それを救うためである、と。」


 よい奮発心には、過激なところがありません。よい奮発心は、完徳についての自分独自の見解を、無理に他人に押しつけようとする熱意、義務遂行への快感、または無反省な粗暴な感情から生まれるものでもありません。それは清純で、柔和と謙遜と静けさに満ちた、天主の愛から生まれ出るものです。

 聖ベネディクトは、修友たちに対するよい奮発心を、三つに集約しています。尊敬、忍耐、迅速な奉仕、がこれです。

【1】 聖ベネディクトが何よりも先に要求するのは、尊敬です。「兄弟達は先を争って互いに尊敬し合わなければなりません。」・・・

【2】「よい奮発心」の第二の現れは、修友たちの相互の忍耐です。「他人の心身上の弱さを、このうえない忍耐を持って我慢すること」です。

 欠点のない者、完全無欠な者は世の中に一人もいません。真実に天主を探し求めている霊魂でも、天主にたいそう近づいている霊魂でも、また天主から特別のご寵愛を忝のうしている霊魂でさえも、それぞれ欠点があり、不完全があるのです。

 「天主が彼らにこれらの惨めさを残しておかれたのは、彼らをいつも謙遜の意識に浸しておくためなのです」と大聖グレゴリオは言っています。

 他人の欠点に直面してこれを不可解に思うのは、まだ人生の経験に乏しい証拠なのです。修友の弱さに心を乱すのは、徳の道にまだ不完全だとのしるしなのです。  聖者だけが、人生の悲惨を完全に知り尽くすことができます。聖者だけが、人間の悲惨に同情する心を持っているのです。

 私たちの悲惨は、その上、教育の不十分、また悪い習慣によってますます倍加され、年と共に身に付きまとってくる様々な病気によって、一層深刻さを増すばかりです。それはまた生まれつきの性格の相違から来ることもあります。・・・

 これら全ての不愉快なものをベールで覆い隠してくれるものは何でしょうか。・・・兄弟愛の激しい火なのです。・・・

 私たちがまだ天主の敵であり、「怒りの子」だった時に、既に私たちにお示しになった天主の慈悲深い忍耐が、どれ程偉大であったか考えてみるべきです。・・・

 天主の感嘆すべき卑下と忍耐の反映を私たちは聖ベネディクトのうちに見いだします。完全な聖徳に達し、こうまで天主に近づいている彼の偉大な霊魂こそは、寛容と同情の泉です。聖ベネディクトがとりわけ修道院長に模範とすべきお手本として提供する理想は「よき牧者」のそれなのです。・・・

 修道院長は自らは聖性の高い境地にいつも踏みとどまっていなければなりませんが、完徳への歩みの遅い霊魂に対しては、そのそばまで我が身をかがめ、自分の模範と激励と親切を持って彼を支えてあげなければなりません。

 戒律の違反者に対する聖ベネディクトの慈悲深い謙遜な態度は、まことに涙ぐましいまでに優しいものがあります。彼は違反者に対して決して腹を立てません。情け深い医師のように、違反者を治療するために、あらゆる手を尽くします。

 「心が乱れ、精神が動揺している違反者があれば、これを慰撫し、悲しみに彼が沈まないように配慮しなければなりません。」・・・

 だれもこれ以上の寛容さと忍耐を想像することが出来ないでしょう。さらにか弱い児童や病弱な老修道者達に対する彼の思いやり、その慈父のような心遣いにいたっては、けだし感涙を禁じ得ないでしょう。どれ程の愛を持って病人をいたわり、看護するようにと彼は命じていることでしょう。・・・

 「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞くものない。彼は痛んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない。」聖ベネディクトは、この句を修道院長に適応しています。

 くすぶる灯心を消すことがない。そうです。忍耐して恩寵の時を待たなければなりません。時が来ると、くすぶっている灯心も、純潔な愛の美しい炎を発して赤々と燃え上がるでしょう。マリア・マグダレナがそうでした。その他どれ程多くの人がそうだったでしょう。

 イエズスは人間のあらゆる種類の悲惨に対してどれ程謙虚さに満ちた優しさを示されたことでしょう。とりわけ彼の御目に最も憎むべきものと映じた罪の悲惨さに対してまでも!・・・

 このイエズスのようにいつも霊魂に眼差しを注いでいましょう。そうしたら私たちもイエズスのお手本に倣って「こころ柔和で謙遜なもの」となるでしょう。

 隣人の欠点に躓かないばかりか、修友一人一人のうちに天主から戴いた全ての善いもの、全ての高貴なものを見るようになり、従って、こころから「大いなる忍耐をもって」修友のうちに見いだされる性格上の欠陥や身体上の弱点を我慢することができるでしょう。・・・

 人は謙遜である時、自分一人だけが完全だとは決して思いません。他人に無理な要求をしたり、悪意から、または何の容赦もなく、他人の欠点を非難するためにこれを人前で暴いたり、大げさに言いふらしたりすることはありません。自己の優越感から生まれてたやすく内心の王者となる、「苦い奮発心」を持たないからです。・・・

【3】尊敬と忍耐に聖ベネディクトは、修友相互の迅速な奉仕を付け加えます。・・・ 隣人の悩みを軽減してあげることは、とりもなおさずイエズス・キリストご自身の悩みを軽減することなのです。・・・


 よい奮発心は、修道院内の修友たちにばかりでなく、私たち一人一人がその成員である修道会自身にも及ばねばなりません。・・・私たちは自分の修道院を激しい愛を持って愛さなければなりません。この愛があれば、自分の修道院の名誉を損なうことを、誰にも赦しません。修道院も人間の社会である以上、それに付き物のボロがあります。ことさらにそれを世間の人に知らせて自分の修道院に傷を付けるようなことを断じてしてはなりません。誰でも自分の家族の悪口を言っているものがあれば、彼に対して憤慨しないでは折られまいものです。善良な修道者も、自分の修道院について面白くないものを言うものがあれば、自然に耳が痛いのです。・・・

 あらゆる奮発心の火は、それが内面に燃えさかる時、自ずから外面にもあふれ出るものです。修道者の奮発心は、修道院の囲いを超えて世俗の人々にまで及ばねばなりません。それは様々な形式のもとに発揮され、かつ修道会の貴重な伝統の一つをなしています。・・・

 時代の経過と共にとりわけ聖ベネディクトの修道会が聖職者修道会に格上げされた結果、知的労働が手仕事に取って代わるようになったのです。そのため聖なる学問の研究に、異端邪説の粉砕に、霊魂の指導に、傑出した幾多の人材が修道者達の中から輩出するようになりました。・・・

====引用終了====


 くどいようですが、私は修道院長ではありません。しかしドン・マルミオンの描く修道院長は、理想として高く掲げられています。願わくは、天主の御助けによりて「悪しき奮発心」が自分自身から全て取り除かれますように! 願わくは、聖母マリアの御取り次ぎによりて、全ての司祭たちがその理想「よき牧者」なるイエズス・キリストのあとに従って歩みますように! よき奮発心に燃え上がりますように! 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え。

 さて七月十六日は、カルメル山の聖母の記念日です。すでに過ぎてしまいましたが、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の中に掲載されている「カルメル山の聖母の記念」のお説教をご紹介します。


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

七月十六日 カルメル山の聖母の記念


(一)聖母の肩衣(スカプラリオ)の由来

 この祝日は手っ取り早く申しますと、聖母の黒い肩衣(スカプラリオ)の祝日であります。

 抑(そもそ)もカルメル山(ざん)とは、ユデアの西境に位(くらい)せる山で、ここには早くから修道院が設けられ、その修道士等は篤く聖母マリアを尊び敬うのでありました。十字軍(十二世紀、十三世紀)の頃からカルメル修道会は西洋の国々に知られ、移植せられ、大いに発展する様になりました。千二百四十五年、英国生れの聖シモン・ストクが本会の総長に選ばれるや、規律の厳粛を謀(はか)ると共に、聖母にたいする敬(けい)虔(けん)をいよいよ盛んならしめ、終に教皇様に請うて、会則を認可して戴きました。

 聖シモンは聖母がカルメル会を保護し、愛撫して下さると云う明らかな証拠を得たいものと思い、幾年の間も熱心に祈りつづけて居ますと、千二百五十一年の七月十六日、聖母は黒色の肩衣(スカプラリオ)を手にして彼に顕(あらわ)れ、「この肩衣(スカプラリオ)を受けなさい、是(これ)は私の会の表章(しるし)です。あなたの為にも全カルメル会の為にも是は一個の特典、予定されて居ると云うしるし、危険に際しての擁護、平和と永遠の約束の保証であります。この肩衣(スカプラリオ)をつけて死するの幸福を得た人は、地獄の焔(ほのお)に苦しむことはありますまい」とお約束になりました。即ちこの肩衣(スカプラリオ)を着けて居る人の為に、聖母が善き終わりを遂げるの恵みを請い受け、地獄に罰される様な不幸を免れしめると云う約束なのであります ― それから七十年許(ばか)りを経て、聖母は教皇ヨハネ二十二世に顕(あらわ)れ、「信者がこの肩衣(スカプラリオ)を身につけて居るのを大層嬉しく思う、この肩衣(スカプラリオ)をかけながら死んだ人の霊魂は、成るべく早く、殊に死んだ次の土曜日に煉獄から救い上げて遣(つか)わす」とお約束になりました。然し今度の御約束はシモン・ストクへの御約束とは違い、条件附きでありまして、死んだ次の土曜日に煉獄から救い上げられるには、不断信心を以ってこの肩衣(スカプラリオ)をかけて居る上に、各々の身分に応じて貞操を守るべく注意すると共に、毎日聖母の小聖務(しょうせいむ)日祷(にっとう)を誦(とな)えること、それが出来難い人は、責めて聖会に於いて定められたる日に大小斉(だいしょうさい)をなす外(ほか)に、毎週、水曜、土曜の両日に小斉を守らなければなりません。

 是(こ)れだけのことを守りさえすれば、そういう有難い御恵みが戴けるのですから、聖会は信者に勧めて、この肩衣(スカプラリオ)を掛けさせ、之(これ)を掛けて居る人には、沢山の贖宥(しょくゆう)迄も施して居ます。即ち七月十六日を始めとし、聖母の被昇天、御誕生、其の他、大抵の聖母の祝日、又毎週の水曜日に聖体を拝領して教皇様の御意向に従って多少(いくぶん)の祈祷(いのり)を誦えるならば、全贖宥(ぜんしょくゆう)が蒙(こうむ)れるのであります。要するにカルメル山の肩衣(スカプラリオ)は我が身が聖母の僕(しもべ)である、子供であると云う表章(しるし)で、この表章をつけて居る人は、聖母マリアから特別に愛護され、地獄の恐るべき火を遁(のが)れ、煉獄に落ちても、出来るだけ早く救い上げて戴けるのであります。誰しも信心を以って之を掛け、心から聖母の御保護に縋(すが)る様、務めて欲しいものであります。


(二)肩衣(スカプラリオ)と救霊

 聖母の肩衣が救霊(たすかり)に必要欠くべからざるものであるとか、之(これ)を身に着けないならば罪を免れないとか、この肩衣(スカプラリオ)が予定を忝(かたじけな)うして居ると云う確かな、間違いのない証印(しるし)であるとか、そんなことを私は主張したい積もりではありません。ただ基督信者の義務を果たすのに、この肩衣(スカプラリオ)が随分助けになるものである、と言いたい迄に過ぎないのであります。

(1)- 肩衣(スカプラリオ)は聖寵を湧(わ)かす一個の泉である -

 我々は弱い、浅間しいもの、救霊(たすかり)の途はなかなか険阻(けんそ)で辿(たど)り難い。大いに天主様の御助力(おたすけ)が必要である、この御助力を聖寵と申します。所で肩衣(スカプラリオ)は「天主の聖寵の御母」たる童貞マリアの僕婢(ぼくひ)、愛児たるの微表(しるし)である。随(したが)って聖寵を得るのに極めて有力な手段たることは申す迄もない所でありましょう。

 聖母も聖シモン・ストクに仰せられました、「是は予定の徴表(しるし)、平和と永遠の約束の保証、生命(いのち)の危うきに際して救いの合図である。この肩衣(スカプラリオ)をかけながら死ぬものは誰にしても永遠の苦罰を蒙(こうむ)る様なことがありますまい」と。実に立派な、有難い、慰籍(なぐさめ)に満ちたお約束ではありませんか。

(2)- 肩衣(スカプラリオ)は予定の微章(しるし)である -

 自分は果たして愛を忝(かたじけな)うすべきか、憎しみを浴びせらるべきか、天国に予定されて居るか、地獄に処罰さるべきでないか、それは特別の啓示(おしめし)を蒙(こうむ)らない限り、誰一人知ったものはなく、又知ることも出来ないことは信仰上の真理である。この不確実さ!幾ら恐れても足りないこの不確実さよりして、我々は常に戦々(せんせん)兢々(きょうきょう)として居なければならぬ。然し自分は選(えら)みを受けて居ると云うことを知り得る為のしるし、間違いないと云うほど確実ではないにせよ、多分 然(そ)うだろう位に知り得る為のしるしは全く無いではない。そのしるしの中の一つ、しかも重なるしるしの一つは、カルメル山の肩衣会(スカプラリオかい)に名を列(つら)ねて居ることで、それには二つの理由があります。

 第一は聖母マリアにたいする敬虔(けいけん)は予定の特別のしるしと聖会では常に見做(みな)されてあること、第二は「この肩衣(スカプラリオ)を掛けながら死ぬ人は、永遠の苦罰を蒙る様なことがない」と聖母がお約束になったこと、この二つであります。

 無論この御約束があるからとて、何(ど)んなに不検束(ふしだら)な生活をして居ても救われると云う訳ではない、ただ善良な会員として生活し、且つ死んで行くならば、聖母の御約束によって救霊(たすかり)を全うし得るものと、大いに信頼することが出来ると云う迄に過ぎません・・・。

 でありますから、誰しも思い違いをしない様に注意し、却(かえ)って常に信心を以(も)って之(これ)を身にかけ、脱いだり、掛けたりする時は、恭(うやうや)しく之に接吻し、何時(いつ)でも、何を為すにも、自分は果たして聖母の肩衣(スカプラリオ)に対して恥ずかしい所はないか、聖母の表章(しるし)をつけ、聖母の僕(しもべ)でござるの、愛児でござるのと誇りながら、汚らはしい悪魔の行為(おこない)をしては居ないか、と顧みて見なければなりません。