マニラのeそよ風

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第389号 2007/06/15 イエズスの至聖なる聖心の祝日

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?

 聖女マルガリタ・マリアはこう言っていました。

 「イエズスへの愛の無い人生は、最も悲惨なみじめさだ。」

 今日は、私たちの主イエズス・キリストの至聖なる聖心の祝日です。いつも長いメッセージを兄弟姉妹の皆様に送りつけてしまっているのですが、今回は、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の中に掲載されている「イエズスの聖心」のお説教をご紹介したいと思います。

 至聖なるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え!


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

イエズスの聖心

(一)聖心にたいする信心

 聖心とは何であるか、何を要求し給うか、何を与え給うか、この三つを考えてみます。

(1) -聖心とは何であるかー我々に礼拝崇敬せよ、と云われるのは、申すまでもなく、神の御子の御心臓である。我々の心臓の如く肉より成った御心臓、主の御胸に高鳴りした御心臓、その地上生活の重要機関、御死去後、ローマ兵に刺し通され給うたその御心臓であります。然しこの御心臓を特に礼拝するのは、そが神なるペルソナに合体され、神人(しんじん)の一部をなして居るからではない。主としてその我々にたいし給う熱愛、その熱愛の明るい、燃ゆるが如き表(しん)徴(ぼる)だからであります。人は心が第一で、心即ち人であります。その人物の如何を正しく判断するには、どうしてもその心を知らなければなりません。イエズス様に就いても同じく然(そ)うで、その如何なる御方なるかを判断するには、聖心(みこころ)を知らなければならぬ。イエズス様が己が聖心を我々に示して、「この心を御覧なさい、人を如何に愛したものですか」と仰有ったのは之が為であります。然うです。一目イエズス様の聖心を眺めますると、我々を如何に愛し給うか、「神は愛にて在(ましま)す」と曰(い)った聖ヨハネの言(ことば)が如何に真実なるかを、容易に悟ることが出来るでありましょう。

(2) -聖心(みこころ)は何を要求し給うかー愛の要求する所はただ一つ、愛されること、心の為に心、愛の代わりに愛、ただそればかりであります。

イエズス様は嘗(かつ)て曰(のたま)うたことがある、「我は地上に火を放たんとて来たれり、その燃ゆる外には何をか望まん」(ルカ三ノ四十九)と・・・。聖女マルガリタ マリアには、一層明らかに「我は渇く、愛されたい望みに燃えて居る、私は人々を私の愛に改心せしめたい」と仰せられました。イエズス様がその聖心を示して、御要求になる所、それを我々は是非とも叶えて上げなければならぬ。聖心が我々を愛する、と仰(おっ)有(しゃ)って下さるのを聴く時、我々の心は甚(ひど)く動きます、その驚くべき御情に感じ、その代わりに我々もこの心を主に献げなければならぬと云うことを、しみじみと覚って来るのであります。聖パウロは感動の余りに、「彼は我を愛して我為に己を付し給えり」(ガラチア二ノ十)と繰りかえして居る・・・・・斯くまで愛し給うた聖心を、何うして愛せずに居られましょう。

「人もし我主イエズス・キリストを愛せずば排斥せられよ」(コリント前十六ノ二十)と聖パウロは叫ばれたが、二千年以来、すべての偉大なる聖人等は何れも、「主は私を愛し給うた・・・私も主を愛します」と答えて居るのであります。

(3)-何を与え給うかー我々の愛の代わりに、その愛に酬いるが為、如何ほど立派なお約束をして下さいましたか。お聴きなさい、「我はその家庭を平和ならしめん、艱難に際して之を慰めん、その為す所に豊かなる祝福を濺がん、一生涯、殊に臨終の際、安全なる避難所たるべし」・・・我々は義理上から言っても、大いに主の聖心を愛し奉らねばならぬのに、是ほど立派なお約束まで賜った以上は、いよいよ聖心にたいする敬虔を盛んにし、この敬虔を以って我々が全生涯の中軸となさなければならぬ・・・イエズス様の御要求になる所を残らず献げましたら、イエズス様もまたその約束し給うた所を残らずお与え下さるに相違ありません・・・


(二)聖心にたいする敬虔

(1)- 感謝 ― イエズス様は聖女マルガリタ、マリアにその聖心を指示して「この心を御覧なさい、人を如何に愛したものですか・・・然るに大多数の人々からは軽侮(あなどり)と忘恩しか受けないのです」とお嘆きになりました・・・世に忘恩ほど憎むべきものはない・・・だがイエズス様にだけは、その憎むべき忘恩を加えても差支えないかの如く大概の人は考えて居るのじゃありませんでしょうか・・・

今日までイエズス様に忝(かたじけな)うした御恵みを数え、その中でも、特に御托身、御受難、聖体の三大恩を思って見なさい。

御托身 ― 全能の神様が我々の為に賎(いや)しい人間となって、ベトレヘムの馬屋に生まれ、エジプトに走り、ナザレトに帰って三十年の間も見窄(みすぼ)らしい大工小屋に、難儀な生活をして下さったとは、実に何と云う大きな御恵みでしょうか。

然し御受難は更に驚くべき御恵みで、全能の神様が、我々の為に、我々の罪を御身に引受け、我々に代わって、鞭打たれ、茨を冠られ、ありとあらゆる辱めを浴びせられ、終りには十字架に釘けられて御死去なさいましたことを思いましたら、誰かその愛の限りも涯しもないのに感泣鳴謝せずに居られましょう。主の愛はいよいよ出で、いよいよ感ずべく、茲に聖体の秘蹟までもお定め下さいました。至大至高の神様がパンの形色の下に隠れて、世の終までもこの涙の谷に留まり、毎日毎日己を祭壇上に犠牲となし、且つは我々の食物とまでなって、我々を養い、強め,護りて止み給はぬのであります・・・

是ほどの愛を忝うして居ながら、我々は果たして夫れを認め、それを感謝して居ますでしょうか、かえって聖心に「侮辱と忘恩とを浴びせかけ奉って居る大多数の人々」の一人とはなっていないでしょうか。

(2)- 謝罪 ― 主の聖心が絶えず人々に加えられ給う軽侮(あなどり)、凌辱(はずかしめ)、忘恩の沙汰を数えて御覧なさい・・・主を認めず、礼拝せず、敬愛せず、主の聖体を拝領し奉ろうともしない人が如何に多いかを思いなさい・・・聖心は聖女マルガリタに云ってお嘆きになりましたか・・・せめて我々は、聖心を認め奉って居る我々は、聖心の愛を有難がり、聊(いささ)かなりとも愛に報いるに愛を以ってしたいと心掛けて居る我々は、何とかして是等の侮辱の代わりに、心からなる謝罪を献げて、聖心を慰め奉り、屡(しばしば)聖体を訪問し、熱心に之を拝領し、主の御光栄を揚げ、御国を弘(ひろ)め、なるべく大多数の人々に聖心を知らしめ、尊ばせ、愛させ奉る様、力の限りを尽すべきではないでしょうか。

(3)- 模倣 ― 聖心に我々の偽りなき愛を証するには、出来るだけ之に則り奉るに限る。

 聖心の弟子に相応しき生活を為し、聖心の実行し給うた謙遜、柔和、愛、忍耐、神の思召しえの服従などの徳を実行すべく務めるに限るのであります・・・「我は活(い)くと雖も、既に我に非ず、キリストこそ我に於いて活き給うなれ」と聖パウロと共に言い得るに至りますならば、それこそ真実に聖心を敬愛し奉って居る証拠ではないでしょうか。我々は是非とも、この喜悦、この慰(なぐ)籍(さめ)を聖心に献げ奉りましょう。さすれば聖心の方でも、この世では豊に聖寵を賜い、後世では言い知れぬ光栄に酔わして下さるべきは、疑いを容れない所であります。


(三)聖心を愛しましょう

(1) - 聖心は限りなき愛もて我々をお愛し下さいました。我々は幾ら聖心を愛しましても、愛しましても、十分その愛に報い奉ることは出来ないのであります。

 たとえ浜の砂(まさご)や、海の水滴(みずたま)や、地上の草の葉、木の葉、天に輝く日,月、星や、是等が残らず心になってしまい、そのすべての心がイエズスを愛するの外に思う所なく、望む所なく、目的とする所なきに至りましても、聖心の愛され給わねばならぬだけ愛し、奉ることは到底出来ないのであります。聖心を愛し奉るには、天使等の愛、聖人等の愛、聖母マリアの愛も十分ではない。神の限りなき愛らしさを相応に愛し得るものは、無限の神の外にはないのであります。だから我々は、到底何時になっても払い了(おは)し得ない債務者である。ただ出来るだけ力を傾けて支払いましょう。少なくも支払いたいと云う善意だけは持って居る、忘れては居ないことを表しましょう。

(2)-「神を愛するの程度は、程度なく愛するに在り」と、聖ベルナルドは曰(い)われました。この愛こそが我々の主要なる思い、否、唯一の思い、唯一の努力でありたい。是で沢山であると云うだけ尽くし得ないから、せめては、より善く尽くしたいものであります。

 我々の行為の功徳は、ただ意向の如何に由るのであります。然らば何を為すにも、ますます意向を純潔になしましょう。すべてをイエズス様の為に果たし、人の報いを求めようとか、人々に感謝されようとか、よく思われようとか、よく言われようとか、そんなことは問題にしてはならぬ。人が不義を働いても、我々に何の関係がありますか。我々は人の為に生きて居るのではない、聖心(みこころ)の為に生きて居るのです。聖心(みこころ)が御満足に思召し下さらば、それで沢山ではありませんか。

(3)-聖心をますます愛すべく努めるのは、如何に必要でしょうか、「徳の途に於いて進まざるは退くなり」と霊生(れいせい)教師等は曰(い)って居ます。神の愛については特に然(そ)うで、より熱く愛すると云う努力を緩(ゆる)めるならば、必ず自己愛に取って代られる、微温は機会を伺って居る、動(やや)もすると最初の熱心を冷まし、イエズス様から吐き出されてしまうに至らんにも限りません。

(4)-聖心を益々愛すると、以って失った時日を回復することが出来る。今まで如何に我一生を使い果たしましたか、忝(かたじけな)うした聖寵!それこそ神の御血の価でありますが、その聖寵を如何に利用して居ますか。忠実に天主様に仕えましたか。随分長く,随分屡(しばしば)天主様えの奉仕を怠らなかったでしょうか。それは何の為ですか?愛が足りなかったからでわありませんか・・・今それを悔しく思っては居ませんか・・・然し失った所を是非とも回復したいものと固く決心しないならば、その悔しさも果たして真実と思われますでしょうか。多く等閑(なおざり)にしただけ、一層注意を深くし、多く懶(なま)けただけ、一層勇気を奮い、多く冷淡であっただけ、一層熱心となるべきではありませんか。是から先き何時まで生き存(ながら)えるでしょうか、また幾何(どれだけ)の命が残りますでしょうか。もう後は格別ないのではないでしょうか。さすれば一分間でも無駄に費やしてはならぬじゃありませんか。

(5)-終に聖心を愛し奉らねばならぬ理由が今一つあります。それは毎日の御恵みで、我々は一日として聖寵を蒙らざるなしである。身体の方から申しますと、食べて居る御飯,吸って居る空気,住んで居る家、身を暖める服,天から照らす太陽、下から載せてくれる地球、美しい花、馥郁(ふくいく)たる芳香(ほうこう)是等はすべて主の慈愛の御手より賜る御恵みでわありませんか。

 心には如何(どうか)かと云うに、家族の情、朋友の親しみ、愉快で,気を慰め、心を引起てる交際、困難に陥り、途方に暮れた時の激励、助言等,是等もつまり聖心より賜る御恵みではありませんか。霊魂には、良き思い、美しき望み,善の励み、立派な手本,善き言、善き勧め、聖人等の保護、守護の天使の護衛、聖母マリアの慈愛,、贖宥(しょくゆう)、赦(しゃ)罪(ざい)、聖体拝領、何れも何れも言語に余るほどの御恵みではありませんか。斯の如く、聖心は、恵みを施し罪を赦し、己を与えて止る所を知り給わぬ。それも毎日、毎時のことである・・・我々は果たしてそうして戴くだけの権利があったのですか・・・それだのに、我々ばかりが聖心を愛し奉るに疲れを感ずるとは何(ど)うしたことでしょう。聖心の御恵みはいよいよ増加する一方ですのに、我々の方では、「もう沢山!更に愛する必要はない」位に考えて居るのじゃありませんか。

 アシジオの聖フランシスコは小鳥を招いて、共に天主様を讃美させました。我々の小さな心は,充分に聖心を愛し奉るに足りませんから、他の援助(たすけ)を求めましょう。

 聖心の為に小さな友を作り、彼等を教え、勧め,励まして、主を愛させ、讃美させ、以って我々の心の足りない所を補うべく務めましょう。

 そう致しますと、聖心には光栄を、兄弟と我が身には救霊を得せしめる訳で、実に一挙両得と云うものではありませんでしょうか。 


(四)聖心に我々の愛を証明する

(1) -イエズス様は或る時、聖ペトロに向い、「この人々に超えて汝我を愛するか」とお尋ねになりました。其の時聖ペトロは「私が主を愛することはご存知の所であります」と謹んで答えました。

今聖心は我々に向っても、同じ問いを発して、「汝我を愛するか」とお尋ねにならないでしょうか。信心の務めを果たす時、朝夕の祈りを誦える時、ロザリオを爪繰る(つまぐ)時、告白をなし、聖体を拝領する時、「汝我を愛するか、もし愛するならば、他の思いを一切遠(とおざ)けよ、我前に身を慎み、思いを静めよ。一心になれ」と仰(おつ)有(しや)らないでしょうか。

(2)-我々が職務を果たす時 ― 主人であろうと、下僕であろうと、資本家であろうと、労働者であろうと、教師であり、生徒であり、親であり、子であり、夫であり、妻であるにせよ、皆夫々(それぞれ)に果たすべき務めがあり、尽すべき責任があるのですが ー その時聖心は我々に向って、「汝我を愛するか」とお尋ねになるのじゃありませんか。

(3)-終に試練に揉まれる時も、同じ問いを発し給うのです。試練!それは辛い、堪え難いものですが、然しまた随分頻繁に我々を訪れて来るのです・・・実にこの世は涙の谷・・・敵はその悪意を以って我々を苦しめる、友人はその無作法、その忘恩を以って我々の心を傷つける、たとえその友愛には渝(かは)る所がないにせよ、然し不完全である、たとえ不完全でないにせよ、早かれ晩(おそ)かれ離別の悲しみをみねばならぬ。その他疾病(しっぺい)に見舞われる、失業に出遭(でっくわ)する、貧困に悩まされると云う様に、試練は到底免れ難い。してその試練も,之を我々に送り給うのは聖心だ、之を送りながら、「汝我を愛するか」と問はせ給うのだと云うことを忘れるならば、いよいよ以って堪え難く覚えられるのであります。

(4)-我々は右の問いにたいして如何に答えねばなりませんでしょうか。先ず聖ペトロの如く謙遜して答えましょう。彼は前の苦い失敗に懲りて、謙遜しました。決して人の上に身を置かないで、「私が主を愛することは御存知の所であります」と謹んで答えました、我々も人より善いもの、我々ほどの天恩を忝(かたじけな)うしなかった人々よりも勝れて居ると思ってはならぬ。そしてペトロは三たび問はれて、三たび同じ様に答えました。我々も問はれる毎に答えましょう、聖心を愛し申して居る、祈祷にも、仕事にも、試練の中にも、聖心を愛して渝(かは)る所がないと答えましょう、死ぬまでも、同じ様に答えましょう。

(5)-なほ我々は聖ペトロの如く痛悔の人でありたいものです。聖ペトロは主を三たび否んだことを一生涯忘れません、身を終わるまで、その罪を泣き、両眼より絶えず流れ下る涙は、顔に二條の涙の溝を穿(うが)つに至ったと云う伝説さえ残って居る位に悲しみ嘆いて、その罪滅ぼしをしたものであります。我々の人となりが如何でありましょうと、聖心にたいする現在の愛が如何に誠実でありましょうと、また随分罪を犯し、過失を重ねて居ませんか。幾ら悔い悲しんでも足りない程ではありませんか。そして痛悔は愛の証拠ですから何時になりましても、この痛を忘れない、すべての祈祷の中に、盛んに熱心の情が湧き立ちかえる敬虔の中にすら、罪を嘆くことだけは忘れない様にせねばなりません。

(6)-我々の答が完全であるには、言だけでは足りない、行を以ってせねばなりません。

 聖心は我々が祈り始める時、「汝、我を愛するか」と問い給うのですから、必ず忠実に祈り、忠実に告白や聖体を拝領して、答えましょう、時として是(これ)等(ら)、敬虔の務めに何の趣味も感じない時があります。もし自然の欲する所に従うならば、何か一寸した口実でもあると、忽ち之を抛げ出してしまおうとするものですが、決して然うしてはなりません。むしろ其の時こそ我々の偽りなき愛を証明する好機会であります。心が散り乱るれば散り乱れるほど、いよいよ之を集中せしむべく務め、飽くまでその祈祷を、その敬虔の務めを続けなければなりません。

 我々が其の身其の身の義務を果たす時、主は「汝、我を愛するか」とお尋ねになりますから、忠実にそれを全うし、心から主を愛して居るの実をお目に懸けることに致しましょう。

 その義務が自分の趣味に合うのでしたら、愉快を感ずるからでなく、ただ主の思し召しに適うが為に之を果たす様にし、好きでも不好(ふす)きでもない時は、聖心の愛を以って之を聖ならしめる。もしや、苦しい、困難な義務でしたら、其の時こそ虚栄の為、自分一個の利益の為でなく、ただ聖心(みこころ)を喜ばせ奉るが為、聖心が之を命じ給うのだからと思い、喜んで之を果たす様に努めましょう。


 終(つい)に試練 ― その試練の中にこそ聖心は我々を俟(ま)たせ給うのです、その試練の中に於いてこそ、聖心は我々に向って、「汝、我を愛するか」とお尋ねになるのであります。試練!それは随分辛くて苦しいものでありますが、然し聖心より送られたもので、我々を主の御受難に組合させ、大なる功徳を積ましてくれるのだ、一方よりは之によって我々の愛を、心からなる偽りなき愛を証明せしめるのだと云う事を忘れてはならぬ。

 聖母マリアは常に御子を愛し給うたのでしたが、その愛の熱烈さを最もよく証し給うたのは、十字架の下に於いてでした。我々も勇ましく十字架を担ぎ、潔く苦しみを引き受けて以って、我々の愛を聖心に証することが出来る、あらゆる敬虔の務めを以ってよりも、熱心な聖体拝領を以ってよりも、苦しみを快く堪え忍んでこそ、一層誠実に、一層確かに「私は主を愛しまする」と申し上げることが出来る訳であります。

 兎に角、我々は主の問いに応じて、何時(いつ)も何時(いつ)も同じ答を申上げましょう、口も心も行為も、ただこの一事だけを申上げ、斯くて永遠の世界に参りました時、いよいよ喜びに堪えずして之をくりかえすことが出来ます様、務めたいものであります。