マニラのeそよ風

 トップ  >  「マニラのeそよ風」一覧

第374号 2006/02/02 聖母の御潔めの祝日

アヴェ・マリア! 

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?

 聖母の御潔(きよ)めの祝日、おめでとうございます。

 あっという間に時間が過ぎてしまっていると感じるこの頃ですね。

 ところで、リアグル神父様の「小さきものよわれに来たれ」のあと、最近の黙想としてマルタン著「愛と喜びと **** テレジアにならって****」(ドンボスコ社1970年)を使っています。

 私たちの主イエズス・キリストはこんなことを言っています。

 「まことに、私は言う。あなたたちが子供の状態に立ち返らないなら、天の国には入れないだろう。」(マテオ18:3)

 「子供達を私のところに来させなさい。止めてはいけない。天主の国を受けるのはこのような者たちである。」(マルコ10:14)

 「あなたたち皆のうちで、最も小さい人、それが偉大な人だからだ」(ルカ9:48)

 天主は私たちが主に対して、大きな子供ではなく、全く子供のように小さくなることをお望みになっておられます。幼子のように。これは少しでも福音を読んだことがある方ならすぐに気づかれることでしょう。

 洗礼によって私たちが再び生まれ、私たちが天主の命を受け、天主の子供となるという真理は、最も慰めに満ちた偉大な教えです。だから使徒聖ヨハネがこう叫ぶのです。「考えても見よ、私たちは天主の子と称されるほど、聖父からはかりがたい愛を受けた。」

 天主が私たちにそうであるように望まれる「幼子」とはどのようなことでしょうか? 幼児を特徴付けるものは、その小ささ、弱さ、貧しさ、単純さです。貧しく、小さいが故に、幼児は、両親に絶対的な信頼、心配も恐れもない一切の委託をしています。幼児のできることはただ一つ、「愛すること」だけです。そして幼きイエズスの聖テレジアは、まさに愛と信頼に満ちるこの「小さき道」を歩んだのでした。

St.Therese「私の弱さこそ、私の力の全てです」と幼きイエズスの聖テレジアは言うのを好んでいました。彼女は聖書のこの言葉に慰めを得たのでした。「いたって小さき者あらば我に来たれよ。」

 そうです! 私たちの主イエズス・キリストは、小さき者を招いておられるのです。聖テレジアは言います。「私は大きくなる必要はございません。いいえ!かえって、ますます小さくならなければなりません。」「私のうちにすべてをして下さいましたのは、イエズス様でございます。私は小さく弱い者であること以外に、何もいたしませんでした。」

 貧しく弱いことを自覚していた聖テレジアは全てを天主から求めていました。天主こそが聖女の強さ、富であり、全てを天主から、しかも、その日その日、その瞬間その瞬間ごと、期待していたのでした。「明日のためには何も心配せず、ただ今日のみ」だったのです。


Mon Chant d'Aujourd'hui.

3 Que m'importe, Seigneur, si l'avenir est sombre ?
Te prier pour demain, oh non, je ne le puis !...
Conserve mon coeur pur, couvre-moi de ton ombre
Rien que pour aujourd'hui.

外国語サイト リンク http://www.jesusmarie.com/therese_de_lisieux_poesies.html

 主よ、未来は暗くとも何かあらん、
 明日のために主に祈り奉る・・・
 ああ、そはわれにはなし得ざるところ、
 わが心を清く保ちませ、
 なんじが御影もてわれを包みませ
 ただ今日のみ、ただ今日のみ。


Mon Ciel a Moi !...

St.Therese 5 Mon Ciel, je l'ai trouve dans la Trinite Sainte
Qui reside en mon coeur, prisonniere d'amour
La, contemplant mon Dieu, je lui redis sans crainte
Que je veux le servir et l'aimer sans retour.
Mon Ciel est de sourire a ce Dieu que j'adore
Lorsqu'Il veut se cacher pour eprouver ma foi
Souffrir en attendant qu'Il me regarde encore
Voila mon Ciel a moi !...

外国語サイト リンク http://www.jesusmarie.com/therese_de_lisieux_poesies.html

 わが天国・・・そはわが拝し奉る主にほほえむこと・・・
 わが信仰を試みんとして主が御姿を隠し給うことあらば
 再び我をみそなわし給うを待ちほほえむこと・・・
 これぞわが天国。

(小さき霊魂は、天主の御摂理の全てにほほえむ。それは「天主様が私の表情におだまされになって、私の苦しんでいることにお気づきにならないためでございます」と聖女は言う。)


  さて昨年十月にはアンナちゃんが洗礼の恵みを受け天主の子供となり、十二月にはヨゼフくんが、望みに望んでいた初聖体のお恵みを受けました。今年の一月六日には、聖ピオ十世会イタリア管区本部のアルバノの修道院の御聖堂で私たちのマクシミリアノさんとクララさんとが婚姻の秘跡で結ばれました。

 お二人の婚姻の秘跡のために寛大で愛深い援助を下さったイタリア管区長様のパリャラーニ神父様を始め、ヴェレッテリの修道女の方々とイタリアの信徒の方々にはお世話になり、深く感謝致します。

 アンナちゃん、ヨゼフ君、マクシミリアノさんとクララさんのため、兄弟姉妹の皆様の暖かいお祈りをお願いいたします。またイタリア管区長様を始め聖ピオ十世会イタリア管区のためにも熱烈なお祈りをお願いいたします。

 もう既に多くの方はご存じかもしれませんが、昨年十二月十日には日本の鹿児島のカテドラルで私たちの母である聖母マリア様が冒辱され、十二月三十一日夜半にはフランスのルルドの至聖所で「Reve-Party 夢のパーティー」という題目でロック・コンサートが開かれました。私たちはこれらの冒涜と涜聖の償いを続けて捧げたいと思います。そこで二月十一日、ルルドの聖母マリアの御出現の祝日にして私たちの愛する祖国日本の建国記念日には、特別の償いの祈りをお願い申し上げます。またポルトガルでは堕胎の立法化をするかしないかの第二回目の国民投票(レフェレンダム)があります。一九九八年には「反対」票が多く、立法に成功しなかったために、また国民投票が行われることになりました。(エリート政治家には、国民の意思に反しても立法させたいというプログラムがあるのでそれを国民に強制しているわけです。)

 そこで、罪の償いのため、日本、イタリア、フランス、ポルトガルのために、二月三日から二月十一日までのロザリオの祈りによる九日間の祈り(ノベナ)を提案致します。お母さんの胎内という赤ちゃんにとって一番安全なところが、墓場とならないためにも。特に、この間には家族でロザリオの祈りを捧げて下さい。

 兄弟姉妹の皆様のお友達やお知り合いの方々にも、この意向でロザリオの祈りをするように頼んで下さい。

 それでは、間があいてしまいましたが、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の死せる信者の記念の日の(五)煉獄の霊魂の吾人に与ふる教訓、をどうぞ黙想下さい。


罫線


祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

十 一 月 二 日

(五)煉獄の霊魂の吾人に与ふる教訓

(1)-煉獄の苦罰は実に恐ろしい、思ったばかりでも身の毛も森(よ)立(だ)つと云うほどである。然し煉獄は地獄とは違って真(まっ)暗黒(くら)ではない。幾分か希望の光が射し込んで居る。煉獄に苦しんで居る霊魂は、苦しい中にも希望を失って居ない、一度は必ず此処を出て、天国に昇れるものと頼母(たのも)しく思って居るのであります。加之(しかのみならず)、煉獄と現世とは全く縁が切れて居るのでない。我々は祈祷や善業や贖宥(しょくゆう)や、殊にミサ聖祭を以って、彼の霊魂(れいこん)等(たち)を随分と慰めることが出来る、救い上げることも出来る。其の代わりに煉獄の霊魂も亦我々に教えもし、忠告もして呉れることが出来るのであります。

(2)-先ず煉獄の霊魂は小罪の荀(ゆる)且(かせ)にすべからざることを教えます、我々は平生小罪を何とも思って居ない。成聖の聖寵を失う気遣いはなし、地獄え罰される心配はなしと思い、平気で毎日毎日小罪を重ねて居る。祈りの時に心を散らす、声を荒げて人と言い諍(あらそ)う、無駄話をして時間を潰す、癇癪も起す、一寸した嘘も吐く、虚栄に流れる、身を楽します、人(ひと)誹(そしり)りをすると云うように、小罪を数々犯して居ながら、「何に、太したことではないよ。心配するには及ばぬ」と云って居るのであります。然し煉獄の霊魂に尋ねましたら、何と答えますでしょうか、「私も、何に、と云って小罪を犯しました平気で小罪を重ね、構わずに放ったらかして置きました。悛(あらた)めようなんて少しも心配しなかったのです所で天主様の法廷に出頭した時、初めて罪の恐ろしい次第が分かりました。やっと迷妄(まよい)の眼が醒めたのですけれども、早や後の祭、如何することも出来ません。其の為に幾年の久しき間、この恐ろしい煉獄に止らねばならぬことになりました」と。我々は今この霊魂等の訓戒(いましめ)をよくよく心に刻み付けて忘れないようにし、小罪だからとて、馬鹿にしない、平気で犯さないように務めなければならぬ。なるほど小罪を幾ら重ねても、成聖の聖寵を失い、天主と全く縁が切れてしまう訳ではない、然しながら小罪は天主に対する愛熱を冷却す、霊魂は次第に気力を失い、今迄のように悪に抵抗することが出来なくなる、罪と狎(な)れ合って、そんなに恐ろしくない様になる、大罪の淵に落ち込む坂を、ソロソロ下りかけるのであるから、終(つい)には底知れぬ淵に落ち込んでしまう。諺に「千丈の堤も蟻の穴より壊る」とある。イエズス様も、「小事に悪しきものは大事にも悪(あ)しい」と曰(のたま)うたでしょう。そしてその小罪の為に如何に恐ろしい煉獄の苦罰を蒙らなければならないでしょうか。

(3)-赦されたる罪の償いを現世に於いて果たすべきことを諭します。毎日毎日申上げます通り、悔悛の秘蹟によって罪は赦されても、それで罪の償いまでが悉く赦される訳ではない。罪は如何に重くても、多くても、悔悛の秘蹟で立派に赦される、永遠の罰も消されてしまう。然し有限の罰はまだ跡に残り、現世で其の償いを果たし、其の負債を支払って置かなければ、是非とも煉獄に於いて厳しい罰を蒙らなければなりません。煉獄の霊魂等は、現世で償いを果たさなかったことを幾れほど口惜しく思って居ますでしょうか。「なぜ私は熱心に朝夕の祈りを誦えなかったのでしょう。なぜ出来る時に施しをしなかった?なぜ病や災難やを快く堪えなかった?切めては日々の労働を罪の償いに献げて行かなかった?さうして居たら決して煉獄なんかに下り、恐ろしい苦しみに悶え悩む筈ではなかったのに!」と口悔しがりながら、自分等の真似をして煉獄に落ちないようにしなさいと、我々にも注意して呉れるのであります。その注意を無にしないで、出来るだけ今の中から罪の償いを果たす様に務めましょう。

(4)-煉獄を恐れて之を遁れる工夫をして置くよう奨めますー「煉獄にさえ辿り付き得たら」と云う人は世に少なからずあるが、なるほど地獄に比べると煉獄は結構な所です、然し煉獄とてもそう馬鹿にされたものではありません。煉獄は苦罰の場です。霊魂に其の罪の汚点を洗い落させるが為に出来た処ですから、現世の如何なる苦痛を持って行っても、之を煉獄の苦罰に比べたら、足下(あしもと)にも寄り付けないのであります。我々は平生少しの寒さですら、僅かばかりの暑さですら堪え兼ねて、よく愚痴をならべ立てる位じゃありませんか。それに何うして彼(か)の恐ろしい煉獄の苦痛を堪えること出来ますでしょうか。煉獄の苦痛はそう云う恐ろしいものですから、成るべく今の中に之を遁れる工面をして置かなければならぬ。

(i)-屡、悔悛の秘蹟を授かって、僅かの小罪までも赦して戴くようにする。

(ii)-罪の赦しを蒙った上では償いの業を怠らず勤める。聖会より定められた大齋をよく守るのは勿論日々の苦労艱難、病気、失敗、貧乏の辛さ、人の無理、寒さ、暑さ、饑さ等も小言いはずに、じっと我罪の償いとして堪え忍ぶ。

(iii)-其の他よく祈りを誦え、ミサ聖祭に参与り、聖体を拝領し、慈善を為すと云う様にすれば、ただ夫れによりて功徳を蒙るのみならず、亦罪の償いを赦され、贖宥も蒙れるし、実に一挙両得と云うものであります。

(iv)-聖女マルガリタ、マリアの居られた修道院の一童貞が、死後暫くを経て夢の中にマルガリタ、マリアに顕れて、自分が煉獄に於いて非常に苦しんで居ること、取り分け自分の近い親戚の一人が地獄に落ちて居るのを見せられた時は、実に何とも言えぬ苦しみを感じたことを物語り「私の為に天主様に祈って下さい、貴(あ)姉(なた)の苦をイエズス様のに合わせて献げ、私の苦を慰めて下さい、五月の第一金曜日まで貴姉の為さることを皆私に与えて、私の為に聖体も拝領して下さい」と願いましたから、マルガリタは院長の許可を得てそうしてやりました。

 然かれどもその霊魂の苦痛が自分にも感じられ、何うしても堪えられない。終には我が身までが病の床に打ち臥してしまいました。すると復(また)其(その)霊魂が現れて来て、「貴姉はまあこんなに楽な臥床(ねどこ)に息(やす)んでいらっしゃいますが、私の臥(ね)かされて居る床を見て下さい、もうもう堪ったものではありませんよ」と云うから、見れば、寝台の上にも下にも尖った釘が火になって並んで居る。彼の童貞はその上に臥されて居るのですから、その釘が肉に深く喰い入って如何にも苦しそうである、「是は私が懶(なま)けて規則を守るのを怠った罰であります。

 其の他にも長上に対して心中に不平を鳴らし、その処置を咎(とが)めたりした代わりに、心は切り裂かれる思いがして、堪えるに堪えられないのです。友愛に逆らって人(ひと)誹(そし)りをしたり、沈黙すべき時に物を言ったりした罰に、私の舌は始終虫に喰われて居る、絶えず引き抜かれて居る、ああ天主様に身を献げて居る人々が、私のこの恐ろしい責め苦に遭って居るのを見ましたら・・・己が天職を怠りて居る人の為に如何なる苦罰が煉獄に備えられてあるかを見ましたら、どんなに熱心になり、守るべき所を几帳面に守り、私の嘗(な)めさされて居るような苦しみに遭わないよう、注意するでございましょうか」。

 これを聞き、これを見た、マルガリタは、はらはらと涙を流しますと、その霊魂は猶続いて申します、「修道院の方々が一日だけ立派に沈黙を守って下さったら、私のこの渇きは止まるのです。

 次の日も一日、愛徳を守って下さったら、私の舌の痛みは止まるのです。

 又次の日も小言を云ったり、長上を非難したりしないで下さったら、心の痛みも無くなるのです、だが何人も然うして私を慰めようと考えて下さる御方はないのですよ」と。

 マルガリタは其の霊魂の頼みのままに聖体を拝領して上げますと、その霊魂は再び現れて、「自分の苦痛が余程減ぜられたこと、然し自分はまだ長く煉獄に居て、冷淡な心もて天主様に仕えた人の蒙るべき苦罰を受けねばならぬ」、と言いましたとか。

 是を以って見ても、煉獄の罰が如何に厳烈(げんれつ)であるか、我々が罪でも何でもない位に軽んじて居る小罪の為にすら、如何に烈しい,堪え難い苦罰を忍ばねばならぬかと云うことが、朧(おぼろ)げながら察せられるでございましょう。

 で今からは小罪を恐れ、赦された罪に就いても全く安心してしまわず、出来るだけ、祈祷、苦行、慈善業を為し、贖宥(しょくゆう)を蒙って、之が償いを済まして置く様に務めましょう。

(続く)