マニラのeそよ風

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第369号 2006/11/19 聖霊降臨後第二四主日

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?

 今日は、東京で愛する兄弟姉妹の皆様をお会いでき、大変幸福でした。The Cornell Society for a Good Time, 外国語サイト リンク Sunday, October 29, 2006 それから 外国語サイト リンク Friday, November 03, 2006 で、オックスフォードの Iosephus さんが韓国での王たるキリストの祝日の記事を書いていて下さいましたが、私の不足にもかかわらず、兄弟姉妹の皆様のような多くの良き人々と知り合うことができ、イエズス様の聖心に計り知れない恩義(mesureless debts of gratitude to the Most Sacread Heart of Jesus for giving me so many good people! )を感じます。

 今日は使徒信経の黙想の続きで、ミサ聖祭の説教は天使についてでした。午後は予定通り、待降節のキリアーレの練習をし、主日の第二晩課をグレゴリオ聖歌で歌って主日の聖化を終えました! 天主に感謝!

 では、愛する兄弟姉妹の皆様、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の「諸聖人の祝日」(五)諸聖人の祝日をどうぞ黙想下さい。


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

十 一 月 一 日

(五) 諸 聖 人 の 祝 日

 皆さん暫く浮世を忘れて心を九天の上に馳せ、 (1)天国の楽しみの広大さ、 (2)聖人等の此処に登り給うた道筋、 (3)我々の執るべき決心、に就いて篤と考えて見ることに致しましょう。

(1)-天国の楽しみの広大さ ー 聖ヨハネの黙示録に「誰も数うる事能(あた)はざる大群衆を見しが、白き衣を着け、手に棕櫚の葉を持ちて羔の目前に立てるを見たり」(黙示録七ノ九)とあります。ヨハネは天国の楽しみの如何に大なるかを写し出そうとして写し出すこと能はず、ただ 「羔、即ち神の目前に立てり」と云いました。神の目前に立つ、是れこそ実に天国の最も大なる楽しみであります。神は善を尽くし、美を尽くし給う、否、善その物、美その物、に在(ましま)すが故に,之が前に立ち、之を面(まのあた)りに仰(あおぎ)視(み)、其の光栄を拝し、其の美徳を讃め称えるより楽しいことが又とありますでしょうか。加之、今日天国に楽しめる聖人等は、皆一たびは現世の荒波に揉まれ、百千の艱難苦労を嘗め尽くした方々である。然るに一たび天国の門を潜るや、両眼の涙は悉く拭い去られた、今は餓え渇きの憂いなく、寒さ暑さの気遣いなく、悪魔や世俗や肉慾やに誘はれる心配もなく、ただ何時までも何時までも、形容の辞(ことば)すらない福楽を擅(ほしいまま)にするのみであります。


(2)-聖人等の此処に昇られた道筋 ― 聖ヨハネの見た大群衆は、何れも身には白き衣を着け、手には棕櫚の葉を携えて居ました。白き衣は其の行いの清浄無垢なるを表し、棕櫚の葉はその天晴れな勝利を示したものである。思うに人の一生は戦いであります。聖人とても、生まれながらに聖人であったのではなく、日々私欲と戦い、世俗と戦い、悪魔と戦い、戦い勝ちてこそ始めて聖人となられたのである。

実に天国の路は狭く、且つ険しい、天国に楽しめる聖人等は、皆この狭い路を歩み、険しい坂を攀(よ)じ登って漸く彼の楽土に辿り着かれたのである。されば今日天国に楽しみながらも、必ず思い給うでありましょう殉教者等は思い給うでしょう、我々は富みも位も、生命までも擲(なげう)って、固く天主の御教を守ったればこそ、この福を酬(むく)いられたのであると。修道者等は思い給うでしょう、我々は天主の為に一切を献げた財産を献げ、快楽を献げ、自由さえも献げたればこそ、この楽しみを擅(ほしいまま)にすることが出来るのである童貞者等は、自身等が身も心も汚さずして貞潔の誇りを保つたればこそ、今や童貞の冠を戴き、羔の行き給う所に従い、他の人の歌い得ない賛美歌をも歌うことになったのじゃと云い、その他、如何なる聖人等も、誘惑の辛かったこと、各自の義務の重かったこと、苦労の容易でなかったことを思い出し今日の大なる福楽と引き比べて深く自ら喜び、厚く天主に感謝して居られるのであります。


(3)-我々の執るべき決心 ― 「吾も人なり、彼も人なり、彼之を能くして吾(われ) に獨り能くせざらんや」実際然うでしょう。聖人も人でした、我々の如く不足勝の人でした、情欲の強い、意志の薄弱な、倒れ易い人でした。固より数多き聖人の中には、始より天主の特恩を蒙って、偉大な善業を行い、非常の功績を立てられた方も無いではありませんが、然し尋常の道を踏み、尋常の行いを行って、聖人と為られた方も少なくはありません。

 例えば聖ヨハネ、ベルクマンスの如きは、イエズス会の一学生でした。非常な行いをした人でもありません。

 唯だ日々学校内に起き臥し、祈るべき時には祈り、勉強すべき時には勉強し、運動の時は運動し、外面他の学生と異なる所はなかったのであります。

 然し彼は万事を信徳の眼で以って視、信徳の心で以って行いました。長上は其の人格の如何に拘わらず、之を以って天主の代理者と信じ一たび命を受けるや少しも猶予せず、直ちに、飛び立って之に従いました。彼は己に克たうと努めました己が情欲を殺そうと励みました、斯うして彼は聖人となりました。聖人となるのが に難からんや。

 我之を欲して、斯に聖人たるを得るのです。ベルクマンスは人でした、我も人です、ベルクマンスは聖人となりました、我もまた聖人たることが出来ないでしょうか。我々は今日特に天国の聖人等を尊敬し、其の伝達を乞い、自ら務め励んで、聖人たらんと決心いたしましょう。

(続く)