マニラのeそよ風

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第436号 2017/08/22 聖母の汚れなき御心の祝日


アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 今日は、聖母の汚れなき御心の大祝日、日本の主要な守護の聖人の祝日です。兄弟姉妹の皆様におかれてはいかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 今年はファチマ百周年です。日本では、5月にはシュテーリン神父様のご指導の下で恒例の秋田への巡礼があり、ファチマの三人の牧童の霊性を黙想しました。7月16日の海の日は、「産み」の日と言葉をかけて、東京でマーチフォーライフがありました(今年で4回目)。ファチマの聖母も一緒に歩かれ、私たちも参加しました。

 8月11日から15日までは、聖母小黙想会がありました。8月15日の聖母被昇天は、10時半からの歌ミサと、聖母に平和を求めて聖母行列がありました。この日は、聖母の汚れなき御心に対する日本の奉献の更新で締めくくられました。

 ファチマ百周年を機会に、私たちは、聖歌「ファチマのアヴェ・マリア」の歌詞を39番まで(13番ずつ3回に分けて歌うとちょうど良い)作りました。無原罪の聖母創立百周年記念の「無原罪の聖母の騎士会の歌」も「御母マリア」の替え歌で作りました。

 フィリピンでは、昨年の10月からミンダナオのコロナダル(マーベル)というところを初めとして、ファチマの聖母の御像をお持ちして、フィリピン中の聖伝のミサの聖堂や教会を通って、北のバギオというところまで歩き通しました。ファチマの聖母は、復活祭のころはセブを通過し、5月13日にはパナイ島にあるサンタ・バルバラの修練院に来られました。6月にはルソン島に到達して、7月にはマニラの私たちの教会におられました。

 ファチマ百周年の一環として、聖ピオ十世会国際巡礼に私たちも参加しました。日本からは18名+5名がこの機会にファチマに参りました(このうち18名がローマ巡礼も行います)。韓国からは2名でした。フィリピンからは、45+5名以上が、シンガポールからは20名+5名が、ニュージーランドからも20余名が参加しました。全世界からは約1万名があつまったようです。

 前号の「マニラの eそよ風」でご紹介しましたとおり、ファチマのメッセージの核心は、「天主が聖母の汚れなき御心への信心を望んでいる」にあります。この信心は、罪の償い(天主に対する愛)と、罪人の回心(隣人愛)とのために、聖母の汚れなき御心を通して祈りと犠牲を捧げると言うことにあります。特に、私たちが聖母の汚れなき御心に(聖母の御旨を果たすために)自分自身を奉献するという【奉献】と、聖母の汚れなき御心に対しておかされる罪を償うために聖体拝領をするという【聖体拝領】とがあります。

 ファチマ国際巡礼での8月20日の主日のミサのなかで、フェレー司教様はファチマで聖母が罪の結果をはっきりとおっしゃったこと、つまり、煉獄、地獄、戦争のことを離されたことをお説教で言われました。人々の生活の仕方、国家の法律などが、天主の掟に背いているがための結果が、戦争や、飢饉や、国々の消滅です。しかし、ファチマ以後、世界の国々が回心したかといえば、私たちは将来私たちに襲いかかる恐るべきことを危惧しなければなりません。ファチマの聖母の言うこととは反対のことがまかり通っているからです。しかし、地獄は空っぽではありません。私たちにはこの、救いに役立つ「恐れ」「危惧」が必要です。

 ファチマでは聖母はそれらの悪を避けるための最高の手段を教えてくれました。償いの精神で、天主を慰め、罪人の回心のために祈り犠牲を払うことです。ロザリオの祈り、聖母の汚れなき御心への信心、特に聖母の汚れなき御心への奉献をすることです。聖母の汚れなき御心は、私たちの最も安全な避難所だからです。

 それでは、聖ピオ十世会の総長フェレー司教様が書かれた、友人と恩人との皆様への手紙 第87号を、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。総長は、このお手紙で、ルターの自由解釈は、超自然の権威の必要性を否定し、真理における一致を不可能にしていることを指摘しています。

 本当はもっと早く翻訳してご紹介すべきだったのですが、それができずに兄弟姉妹の皆様にお知らせするのが遅れてしまったことをご容赦願います。(日本からポルトガルに飛ぶ飛行機の中で翻訳を終えました。)

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



友人と恩人の皆さまへの手紙 第87号
2017年4月16日

日本語以外のページへ Letter to Friends and Benefactors #87
日本語以外のページへ Avr. 2017 - Lettre aux amis et bienfaiteurs n° 87

Bishop Bernard Fellay


親愛なる友人と恩人と皆様、

五百年前、マルチン・ルターは教会に反乱し、ヨーロッパの3分の1を自分の後に引き連れました。1054年の東方の離教以後、カトリック教会の歴史の中で被った、おそらく最大の喪失でした。ルターはこうして、救いに必要な手段を数百万の霊魂から奪ってしまい、その他いろいろある宗教団体の一つから彼らを遠ざけたのではなく、正に私たちの主イエズス・キリストによって創立された唯一の教会から遠ざけたのです。何故なら、ルターは主の教会の超自然的な現実を否定し、この同じ教会が救いのために必要であることを否定したからです。ルターは、信仰を別のものにしてしまいました。彼はミサ聖祭、御聖体における主の現存、司祭職、教皇職、聖寵、義化という基本的なドグマを投げ捨てたからです。

彼の考えの基礎には、これは今日でもまだ、その全体においてプロテスタント主義の考え方ですが、自由解釈があります。この原理は、個々人の判断に強制力を持ちうる超自然で不可謬の権威が必要であることを否定する結果になります。天国への道を指導する使命がある人々の間の義論に決着を付ける権威を否定します。明らかに自分のものと要求されたこの原理は、超自然の信仰という行為を不可能にさせます。何故なら、超自然の信仰とは、知性と意志とが、天主によって啓示され・教会によって権威を持って教えられた真理に服従することにあるからです。

「自由解釈」が原理として立てられ、救いへの道である超自然の信仰(「信じない人は亡ぼされる。」(マルコ16:6)が手の届かないところになったばかりでなく【注:人間の理性が納得するから信じるのは自然のレベルでのことだから。天主の権威を信じるが故に、理性が把握しきれないことも信じるのが超自然の信仰だから。】、自由解釈は、真理における一致を不可能にさえしました。そのために、原理として、プロテスタントの人々が永遠の救いと、真理における一致とを得ることを不可能にしてしまいました。事実、プロテスタントのセクトは16世紀以降増え続けるばかりです。

このように悲しい有り様を見て、キリストの本当の教会によって母の心を持ってなされた、失われた羊たちを探し求める努力を一体誰が理解しないことでしょうか?永遠の救いに近づくことを不可能にする間違った原理に綴じ込まれているかくも多くの霊魂たちを解放するために、教会は多くの使徒的試みをなしました。

数世紀にかけて、真の信仰の一致と真の教会の一致へと戻らせるこの心遣いです。これは決して新しいことではありません。例えば聖金曜日の荘厳な祈りを考えてください。

「異端者たちと離教者たちとのためにわれら祈らん。そはわれらの天主にして主が彼らを全ての誤りから引き抜き出し、彼らをわれらの聖なる母、使徒的カトリック教会へと連れ戻さんがためなり。」

「全能にして永遠なる天主よ、御身は全ての人々を救い、彼らが一人として滅びることを望み給わず。悪魔の罠によって騙されし霊魂たちを見給え。謬る者たちの心が、異端的な全ての邪悪を取り除き、改悛し、御身の真理の一致へと再び戻らんことを。われらの主イエズス・キリストによりて。」

聖伝によるこの言葉遣いは、現代、偽りのエキュメニズムの名前においてあまりにも広く喧伝されている混乱に、如何なる場所も残していません。いくつかの教皇文書 --- その内でも最も大切なのはピオ十一世の回勅『モルタリウム・アニモス』(1928年)ですが --- の後に出された、1949年の倹邪聖省のいくつかの警告は、その後、死文化しているようです。しかしながら、このエキュメニカルな平和主義の危険は、ピオ十二世が回勅『フマニ・ジェネリス』において告発しましたが、計り知れないほど大きく、極めて重大です。何故ならこれはカトリックの信仰への回心を引き留めようとするからです。ルターの宗教改革の「豊かさ」と「真の伝統」を賞賛するのを見て、一体どんなプロテスタントの人が回心する必要を感じるでしょうか? 他方で、「回心」という言葉自体が、カトリック以外のキリスト教に関する限り、公式のカトリックの用語から追放されています。

更には、この新しい態度は、プロテスタント主義の讃美とカトリックの悔い改めとから成り立ち、数え切れないほどのカトリック信徒において信仰の喪失を引き起こして -- これは観察されている -- います。カトリック信徒の信仰に関するアンケートの調査によれば、プロテスタントへの嘆かわしい歩み寄りにより生じた大きな被害を受けていることが分かります。第二バチカン公会議まで常にカトリック教会が「宗教無差別主義」という名前で排斥していた誤りを、21世紀においてどれほど多くのカトリック信徒が受け入れてしまっていることでしょうか!人の宗教が何であれ誰でも救われる、という忌まわしい誤謬。私たちの主の教えと、主に従う全教会の教えとに全く逆らう誤謬。しかしながら、二千年のカトリックの信仰に反するこの誤謬を告発すると、直ぐさま、狂信だとか危険な極端だとされます。

新しい典礼が発明されたのは、この新しいエキュメニズムの名前においてでもあります。新しい典礼はプロテスタントの晩餐式と緊密な関係を持ち、多くのプロテスタントの神学者たちがプロテスタント牧師らがカトリックの新しいミサ典書を使うことができると断言したほどです。例えばテゼのマックス・チュリアンがそうです。時を同じくして、カトリック教会の子らはと言えば、天主を讃美し聖寵を受ける最も美しい宝(聖伝の典礼)を奪われていました。天主に感謝、ベネディクト十六世は勇気を持って、十数世紀に亘る典礼が決して廃止されたことは決してなかったと宣言しました。しかし、40年以上、世界中で、公会議後の典礼改革は、信徒たちを教会から遠ざけてしまいました。何故なら、彼らはカトリック教会に期待していたものを見いだすことがもはやできなくなってしまったからです。

そのことを見ると、キリスト者らの一致を促進するはずのこのエキュメニズムがほとんど進展していないのは何も驚くことではありません。

マルセル・ルフェーブル大司教は、公会議が始まるやいなや、エキュメニズムの名前によってなされていた、プロテスタントらと共に行うこの新しいやり方を告発しました。事実、エキュメニズムというどのようにでも理解される用語は、第二バチカン公会議からカトリック教会に導入された、ものの見方とやり方とを表しています。つまり、これは全ての人間に対して大きく張り出された好意であり、誤謬をもはや排斥しないという固い意志であり、私たちを離すものよりはむしろ「私たちを一つにするもの」を四方八方に探すことです。「好意を得る」(captatio benevolentiæ)ためだけの、一致へと向かう最初の一歩でしかないはずのものが、急速のうちに、それだけのために望まれた探求に変化し、その固有の目的になってしまいました。つまり、或る不特定の真理を求める絶え間ない探求です。こうしてエキュメニズムは、教会の一致を失った人々がその一致に戻るという、客観的な目的から離れてしまいました。こうしてエキュメニズムという言葉の意味は変えられ、一致の概念に変更が加えられ、それに到達する手段も謬ったものとなりました。

自分が唯一の真の教会であると知っている教会、声高く力強くそれを公言する教会、この教会の聖伝による明確な教えに代わって、新しい不確かな教え -- 後悔した自己否定とポスト・モダンの相対主義が混じったもの、たとえば「私たちは全ての真理を持っていない」 -- がやって来ました。そのためにカトリックの大多数は、救いの唯一の道しかないことを、イエズス・キリストご自身のおっしゃった「私は道、真理、命である」(ヨハネ14:6)という真理を、もはや肯定することを放棄してしまっています。

「教会の外に救いなし」というドグマの意味も、混乱した概念によって、密かのうちに変えられてしまいました。そのためにキリストの教会とカトリック教会との同一性を肯定することさえも変えられました。ヴァルター・カスパー枢機卿は、キリスト者の一致促進のための評議会議長であったとき、教会の新しい定義(subsistit in)において、第二バチカン公会議以後促進されたエキュメニズムを可能にする全てを見ていました。このような高位聖職者からの発言は、重大な告白であり、軽々しく考えることはできません!

以上簡単に述べましたが、これが私たちがプロテスタントの宗教改革の五百周年を喜びのうちに祝うことがどうしてもできない理由です。その反対です。私たちはこの痛々しい引き裂きを歎きます。私たちの主の御跡に従って、私たちは羊たちが、自分たちを確かに救いへと導くその道、つまり聖なるローマ・カトリック教会の道をもう一度見いだすように、祈り働きます。

私たちは、この幻想的な平和主義が早く捨てられるようにも祈りましょう。またその代わりに、特に英語圏の諸国において第二バチカン公会議以前にあったような、回心の本当の運動がもう一度生まれるように、祈りましょう。

最後に、聖母がファチマの三人の牧童に御出現になった百周年において、私たちは童貞なる聖マリアの呼びかけが聞き入れられるようにも祈りましょう。聖母は、教皇様が明示的にロシアをご自分の汚れなき御心に奉献するとき、この国の回心を約束して下さいました。天主の聖母の約束が、遅からず実現するように、私たちの祈りと犠牲を倍増させましょう。

願わくは、聖母が、ご自分の天主なる御一人子をもって cum prole pia、この復活節において、皆様を祝福して下さり、私たちを全て永遠の至福に導いてくださいますように。

2017年 復活の主日
+ベルナール・フェレー