マニラのeそよ風

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第418号
2011/10/11 聖母マリアの母性(天主の聖母であること)の祝日

聖母子


アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 今日は聖母マリアが天主の聖母であるということをエフェゾ公会議(431年)が発表して1500周年を記念して、ピオ十一世教皇様が1931年に制定した祝日です。エフェゾ公会議から、今年で1580年になるのですね!

 今年の3月11日に起こった東日本の大震災から7ヶ月がたちました。この大地震ことが頭から離れません。多くの方が未だに苦しまれていることに思いを馳せます。多くの愛する兄弟姉妹の皆様と共に心を合わせて、至聖なるイエズスの聖心の憐れみと聖母の汚れなき御心の御取り次ぎをお祈り申し上げます。

 今月の27日には、25年前のアシジでのスキャンダルがもう一度繰り返されようとしています。シスター・ルチアが、フエンテス神父に語っていた言葉を思い出します。何故なら、ローマから教皇様から全世界のためにイエズス・キリストを信じるように罪を忌み憎むように改悛への呼びかけがある代わりに、カトリック信仰に改宗するようにとの呼びかけの代わりに、教皇様から、偽りの諸宗教の代表者たちに「自らの宗教的信条」をより深く生きるようにと、招いているのですから。教皇様が、偽りの諸宗教の代表者たちを、諸宗教の代表者の資格で、「彼らの宗教的信条」に従って個人的に祈るように招き、そうすることによって、天主に対する大きな冒涜の機会をつくり、世界中の人々にとっては躓きの機会を作ろうとしているからです。

アシジの集会

 シスター・ルチアは言います。

 「ローマから教皇様から全世界のために改悛への呼びかけがくると期待しないようにしましょう。その呼びかけが司教区の司教様がたから、あるいは修道会からくると期待しないようにしましょう。今は私たち一人一人が自分で自分の霊的改革を始めなければなりません。一人一人は自分の霊魂を救わなければならないばかりか、その道に天主様が置かれ給うたすべての霊魂をも救わなければなりません。」

 この世の光であるべきカトリック教会が光を放たなくなったら、地の塩であるカトリック教会が塩の味を失ったら、それは何という恐ろしい天罰でしょうか!

 シスター・ルチアは言います。

 「神父様、私を信じてください、天主は世界を罰しようとしておられます。そしてこの天罰は恐るべき仕方で為されるでしょう。天からの懲罰は間近に迫っています。」

 「神父様、聖母マリア様は、私のいとこであるフランシスコとジャシンタ、そして私自身に、多くの国々が地の面から消え去るだろうと告げられたということを、皆に告げてください。聖母はもし私たちが前もってロシアの回心を勝ち取らないならば、あの哀れな国(ロシア)が世界を罰するために天によって選ばれた天罰の道具となるだろうと言われました。」

 「多くの国々が地の面から消え去るだろう」とは、大変厳しい言葉です。この「国々」とはスペイン語によれば naciones ですから、「民族たち」とも訳すことが出来ます。地の面から、多くの多くの国々が消えてなくなってしまうとは、どれほど恐ろしいことでしょうか! muchas naciones de la tierra desaparecerán sobre la faz de la misma! 地上の多くの国々は、地の面それ自体から消えてなくなってしまうでしょう!

 秋田の聖母マリア様が、シスター笹川に1973年10月13日に言われた言葉は次のようでした。

 「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。」

 秋田の聖母マリア様は、「人類の多くの人々が死ぬ・・・生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難がある」と言われます。一体何が私たちを待ち受けているのでしょうか?

 しかし、心配しないで下さい。私たちには救いの手段があります。解決策があります。聖なるロザリオの祈りです。

 シスター・ルチアは言います。

 「聖母がいとこたち並びに私自身に、天主は世界に二つの最後の救済策をお与えになっていると言われたからです。これらの救済策とは、聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心に対する信心です。これらは他の救済策はないだろうということを意味する最後の二つの救済策です。」

 「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」

 シスター・ルチアはこう言いました。

 「聖なるロザリオに関しては、神父様、ご覧ください。私達の生きるこの最後のときに当たって聖母はロザリオを唱えることに新しい効果を与えてくださいました。たとえそれがどんなに難しくとも、この世的なあるいは、特に霊的な問題、私たち一人一人の個人的な生活上の問題、家族の問題、この世のすべての家族の問題、修道会の問題、民族の問題、国家の問題などなど私たちがこの聖なるロザリオの祈りによって解決できない問題などありません。もう一度言います。それがどれほど困難であろうとも、私たちが聖なるロザリオの祈りによって解決し得ない問題はありません。ロザリオを唱えることによって私たちは自分を救い、聖化し、我らの主を慰め、多くの霊魂の救いを勝ち取るのです。ですから私たちのいとも聖なる母、マリア様の汚れ無き聖心への信心をもたなければなりません。そして聖母を仁慈・善良さ・赦しの座であると考え、天国への確かな門であると考えなければなりません。」

 シスター笹川には聖母マリア様はこう言われました。

 「その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。」・・・「ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう。」

 シスター・ルチアの言葉は、1957年12月26日にメキシコ人の司祭フエンテス神父(Padre Augustin Fuentes)が、コインブラのカルメル会修道院にいたシスター・ルチアを訪問した時、シスターがフエンテス神父に言った言葉です。フエンテス神父とシスター・ルチアとの預言的インタビューのスペイン語は次にあります。
外国語サイト リンク http://www.statveritas.com.ar/Varios/Fatima-01.htm

 ロザリオの祈りの大切さについては、日本語サイト リンク 「マニラの eそよ風」400号もご覧下さい。

 だから、私たちは、誤謬を捨て罪を捨てなければなりません。私たち自身の霊的改革を始めなければなりません。私たちは自分の霊魂を救わなければなりません。そして、愛する兄弟姉妹のすべての霊魂をも救わなければなりません。

 「全ての心と、霊と、力を尽くしてあなたの天主なる聖主を愛し、あなたの隣人を自分自身の様に愛せよ。」

 これが、私たちに与えられた愛の掟、愛の義務です。

 天主を愛するがために、だから、私たちはどうしても黙っていることが出来ません。天主を愛するがために、愛する兄弟姉妹たちに真理を伝えなければなりません。天主への愛のために、隣人に迫る大きな躓きについて警告の声を発しなければなりません。

 聖ピオ十世教皇様は私たちに教えてくれています。「キリスト教的愛徳の外に真の兄弟愛など存在しない」と。真の天主イエズス・キリストへの愛に基づかないなら、その愛は本当の愛徳ではない、と。

 そこで、愛する兄弟姉妹の皆様に聖ピオ十世会フランス管区長レジス・ド・カクレ神父著『アシジに於ける躓きの繰り返し』をお読み下さるようにお招きいたします。この文章は、聖ピオ十世会総長フェレー司教様の認可を受けて発表されたものです。

 天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように! 

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.



アシジの集会



聖ピオ十世会フランス管区長レジス・ド・カクレ神父著
『アシジに於ける躓きの繰り返し』

Errare humanum est, perseverare diabolicum.
(間違う事は人間的である、それに留まる事は悪魔的である)

Fr. Régis de Cacqueray, Superior of the Society of St. Pius X's district of France


 2011年10月27日には、一体何が行われるのでしょうか?善意ある人々による単純に友好的な集いなのでしょうか?それとも、キリストとその教会の神性についての取り留めのない討論なのでしょうか?いいえ、そうではありません、それは在位中の教皇ベネディクト十六世による、先任者教皇ヨハネ・パウロ二世が1986年10月27日に犯した前例のない躓きの繰り返しなのです。

 何が2011年10月27日に起るのでしょう?カトリック信仰に改宗するようにとの呼びかけでしょうか?教皇による幾つもの宣言が、この日が何であるかを明確に理解させてくれます。それは、平和祈願の為に(1)全ての人が招かれる考察の日に、教皇自身によって呼びかけられた、偽りの諸宗教の代表者たちによる集会です。

 確かに、第一回目のアシジ集会とは違い、そこでの祈りは、たとえ前面に押し出されてはいますが、無言のままでなければならないようです。しかしこれら偽りの諸宗教の代表者たちは、沈黙のうちにどんな神に祈るのでしょうか? 教皇は彼らに「自らの宗教的信条」(2)をより深く生きるようにと明白に招いているのですから、彼らは偽りの神以外のどんな神に祈るのでしょうか?イスラム教徒たちは、モハメッドの神以外の誰に向かって祈るのでしょうか?精霊信仰者たちは、自分たちの偶像以外の誰に対して祈りを向けるのでしょうか?従って、教皇が偽りの諸宗教の代表者たちを、諸宗教の代表者の資格で、個人的祈りの日に参加するよう招く事を我々はどうやって理解したらいいのでしょうか? 教皇によるこの行為は、その事実それ自体により、天主に対する凄まじい冒涜となり、更には、世界中の人々にとっては躓きの機会となるのです。


三位一体にして御託身された天主に対する侮辱

 「我は汝の主なり。我を唯一の天主として礼拝すべし」(3) と命じる第一戒に著しく背くこの諸宗教の見本市を、他にどうやって形容したらいいでしょうか?

 御自分の御子を十字架に架けて、三位一体の天主を否定する祖先たちに忠実なユダヤ教徒たちの祈りに天主が喜ぶとどう想像するのでしょうか?

 キリスト教徒たちを絶えず迫害する弟子たちのアラーへの祈りを、天主がどうして聞き入れるというのでしょうか?

 御子の開かれた脇腹より誕生した御自分の教会を否んだ、全ての異端者、離教者、さらに棄教者たちの祈りを、天主はどうやって快諾してくださるのでしょうか?

 ありとあらゆる精霊信仰者たちや汎神論者、そしてその他の偶像崇拝者たちがその偶像に捧げる崇拝によって、天主はどう称えられるのでしょうか?

 「私によらずには、だれ一人父のみもとにはいけない」(4)という正反対の真実を御子が私たちに明示されたのですが、如何にして天主は以上の祈りを聞かれるというのでしょうか?

 誠実な霊魂たちが、異端、あるいは不信仰のうちに天主に祈るという事は、別のことです。天主は彼らの祈りを認め、彼らを唯一の真の教会へとお導きになることでしょう。しかしこのような人々を、偽りの諸宗教の代表者としての資格で「彼らの宗教的信条」に従って祈るように招く事は、つまり、彼らが信奉する偽りの宗教の精神とやり方に従った祈りをするように彼らを招く事ではないでしょうか。

 それでは、このアシジの集会において、三度(みたび)聖なる<至聖三位一体の>天主の御顔に投げつけられた最高の侮辱を認めずにいることがどうして出来るというのでしょうか?このような躓きを目にして、深く憤慨しないでいられるというのでしょうか?共犯であることなしに、どうして沈黙を守ることが出来るでしょうか?


変質したキリストの平和

 この重大な罪は、同時にイエズス・キリストの平和をも著しく傷つけます。教皇は平和のために祈るように招いています。

 しかし教皇が求めているこの平和とは一体何でありましょうか?世界を血で染める紛争の停止でしょうか?

 しかし、偽りの神々に対する祈りが、天罰ではなしに、全く人間的な平和という福利を得させてくれる功徳のあるものであると本気で信じているのでしょうか?旧約の時代にあったノアの大洪水を忘れてしまったのでしょうか?不信仰な霊魂たちの不信仰の罪よりは軽かったソドムとゴモラの破壊の記憶を失ってしまったのでしょうか? (5) 天主の民が犯した罪の値であるエルサレムの惨(むご)たらしい破壊を、福音と歴史から消し去ってしまったのでしょうか?

 そもそも自分の霊魂を失ってしまうなら、束の間の平和を買う事が一体私たちにとって何の役に立つのでしょうか?「体を殺しても、そののち、それ以上なにもできない人々をおそれるな。(...)殺したのち、ゲヘンナに投げいれる権力あるお方をおそれよ。」(6) 他方で、この平和を求める祈りの中に、世俗の平和に対して全人類が抱く正当な熱望から、おそらく無意識ではあっても邪悪な、エキュメニズムを意図した方向転換をどうして認めないことができるでしょうか?

 いいえ、違います。キリストによりもたらされる平和は、この世の平和、つまり良心の自由により封印されたフリーメーソンの平和ではあり得ないのです。

 と言いますのも、現実に、現在の教皇によってその到来が祈願されている平和とは、単なる現世的平和のことではないからです。それは特に、歴代の諸教皇により何度も排斥された、信教の自由(7)や良心の自由のことであるからです(8)。これが、教皇の示した祈りの意向であり、教皇によって祈願されている平和なのです。即ち、良心の自由により獲得される現世的平和であります。

 そこにはイエズス・キリストの平和があるでしょうか?御自分の天主であることを断言するために十字架の上で死去された方の平和があるのでしょうか?キリストの平和とは、全く別です。愛徳と「博愛」とが違っているように、キリストの平和はフリーメーソンの平和とは全く別物です。キリストの平和とは、天主との平和であり、天主の御子の御血により霊魂が贖われ、人間が罪を放棄することの実りです。キリストによって市民社会に伝えられた平和とは、カトリック信仰と愛徳とに満たされたキリスト教的文明の実りに他なりません。


公教会に対する耐え難い辱め

 しかしながら、もし仮に三位一体の天主とキリストの人性がこの罪への招きによって酷く傷つけられるとすれば、キリストの汚れ無き淨配つまりキリストの唯一のカトリック教会は、公衆の面前で辱められています。

 使徒や教皇たち、教父や諸聖人、殉教者たち、さらにカトリック君主並びに英雄たちは愚弄され、「異郷の国の神々はみな悪魔である」(9) という彼(か)の詩篇作者ダビドの教えは愚弄され、また異端者たちに挨拶なすべからず(10)という聖ヨハネの厳格な命令は無視され、良心の自由とは「狂気(deliramentum)」だとするグレゴリオ十六世又はピオ九世による教え(11)も無視され、教皇レオ十三世(12)及びピオ十一世(13)による諸宗教間での集会の開催、もしくはそれへの参加に対する厳禁も無視され、偶像への燔祭を拒絶する聖ポリュエウクト(St. Polyeuctus)の殉教は愚弄され、プロテスタント異端の改宗を目的として『論争』を著したサレジオの聖フランスシスコの模範は踏み躙(にじ)られ、異教徒たちの霊魂を救わんが為に全てを放棄した無数の宣教師たちは無視され、イスラム軍をポワチエ(Poitiers)にて阻止したシャルル・マルテル(Charles Martel)や、槍と剣を以って実力でエルサレムに入城したゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godefroy de Bouillon)という方々の英雄的行為は無視され、天主冒涜を罰する聖ルイ王の栄誉は踏み躙られるのです。

 アシジの精神で一杯になったカトリック教徒は、「公教会の外に救いなし」という教義にどうやってまだ賛同出来るのというのでしょうか?どうやってカトリック教会において、唯一無二の救いの箱舟を見るというのでしょうか? 更にひどいことには、あたかもこのような集会の深刻さだけではまだ足りないかのように、地上に於ける最高の宗教権威者から、つまり、イエズス・キリストの代理者自身から、この躓きが由来しているのです。

 それは教皇をして、この集会の司会に、つまりカトリック教会の頭ではなく、国際連合の「教会」の頭に、あらゆる宗教を統合する一宗教つまり宇宙の偉大なる建築家のフリーメーソン的崇拝と本質的には何ら変わらない宗教に属する primus inter pares (同輩たちの中の第一者)に、してしまうのではないでしょうか?それこそペトロに託された使命の悪魔的腐敗ではないのでしょうか?キリストはペトロに向かい「兄弟たちを信仰に於いて固めよ」と命じ、御自分の羊たちを牧するように荘厳に命じましたが、ペトロの後継者は、宗教無関心主義と相対主義おいて自分の兄弟たちを固めに行くのですから。


計り知れない躓き

 さらに恐ろしい冒涜を超えて、教皇のこの個人的決定はカトリック教徒並びに非カトリックたちの霊魂に計り知れない躓きを引起すことになります。全ての偽りの宗教の代表者たちを一つにまとめる教皇の映像を前に、大部分の方々の反応とは、真理と宗教をもう少し更に相対化する事でしょう。

 教皇ともあろう方が、良心の自由の為に祈るようにと非カトリックたちを招くのを見る時、この非カトリックの方々の永遠の救いは大丈夫だ、と安心するように誘惑に駆られない人がどこにいるでしょうか。カトリック教会の頭たる方が諸宗教をパンテオン<万神殿>に一つに集めるのを知る時、どんな非カトリックが、他の全ての宗教を除外してカトリック宗教だけが唯一の真の宗教であると認めるというのでしょうか?教皇による相対主義には譲歩しないようにとの勧告(14)を、真理においてあるというよりは誠実である事こそが重要なのだと考える事による以外に、人はどのように解釈するのでしょうか?

 その反対に、出来るだけ自分の宗教を実践するようにとの教皇聖下によるこの明瞭な招きを、どうやったら相対主義的意味合いにおいて解釈しないでいられるのでしょうか?「...来る10月にわたしは聖フランシスコの町に巡礼を行います。そして、この巡礼に、諸教派のキリスト教の兄弟の皆様、世界のさまざまな宗教伝統の代表者の皆様、そして精神的な意味ですべての善意の人が参加してくださるよう招きます。それは、(...) あらゆる宗教の信者が自分の宗教的信仰を平和のための奉仕として実践するという約束を荘厳なしかたで更新するためです。」(15)

 1986年に、あるジャーナリストは次の意味深い結論を発表しています。「教皇が諸宗教の国際連合を招集してその司会を務める。永遠を信じる人々、八百万の神々を信じる人々、はっきりとした神は何も信じない人々を集めて。何という驚くべき唖然とする光景でしょう!ヨハネ・パウロ二世は、キリスト教信仰は他に存在する諸宗教中の一つでしかないという、信仰の相対性を目を見張るようなやり方で認めたのだ。」(16) この見解が、2011年10月27日の夜、多くの人々によって共有されないなどという事をどう想像するのでしょうか?

 従って、2011年のアシジ集会は1986年のものとは違うなどという理屈で、このような罪について教皇を免罪しようと望む事は、私たちにはまったく奇怪に思えます。

 集会の性質:平和の為に考察し祈るために、一緒に集まるようにと、偽りの諸宗教の代表者たちを招くこと。

 動機:国連により推進される世俗的平和。1986年に既に、ヨハネ・パウロ二世は「国連から平和年として選ばれたこの1986年に、アシジの町に於いて平和を祈る特別集会を促進する為」(17) 全ての宗教を招いた。2011年1月1日の平和に向けたメッセージの際、この日は2011年10月27日の<第三回目のアシジ>集会の告示の日となったのですが、ベネディクト十六世は、次の真理をあらわにするような数行に署名しました。

 「 [偉大なる諸宗教による] この初めの経験がなかったなら、諸々の社会を普遍的倫理の原理へと向かわせる事が骨の折れることなのは明瞭でありますし、 1948年の世界人権宣言がその目標 --- 残念ながら依然として無視と反対を受けていますが ---- とするように、基本的権利と自由が十分に認められ、実地に適用され得る国家的かつ国際的な諸条例を制定するのは困難となります。(...) 今申し上げた事の全ては不可欠であり、人格の尊厳及び価値に対する尊重、つまり1945年の国連憲章において地上の諸民族により保障されている尊重と一致しているのです。」 (18)

 1999年開催のアシジの二回目の躓きの際、フェレー司教はヨハネ・パウロ二世に宛ててこう書いたように、「これらの会合が持つ人間中心主義的・現世的・自然主義的なテーマは、カトリック教会をして、永遠かつ超自然である全く神的な使命から、唯一の平和の君である私たちの聖主イエズス・キリストを除いた世界平和というフリーメーソン思想の水準にまで失墜させています。」(19)

 日付:ベネディクト十六世は、アシジの催しから25年目のちょうど同じ日に、この<集会の>音頭を取っています。「2011年は(...)1986年にアッシジで開催した世界平和祈祷集会の25周年となります。この経験の記憶は、全ての信じる者たちが、正義と平和を作り出すものであるとその身に感じて効果的にそうなっていく、未来への希望の根拠となるのです。」(20) それこそ継続性の鮮明な明白な印ではないでしょうか?

 (アシジの)聖ペトロ教会内聖櫃上に置かれた仏像による躓きや、聖クララ教会の祭壇上で神々に生贄にされた若鶏たち、ダライ・ラマとKGB支配下のロシア正教会大主教に両側を挟まれて並んでいるキリストの代理者の悲しい思い出を私たちの記憶に蘇らせるやり方ではないでしょうか?

 もしそれとはっきり一線を画したければ、催しの記念日を荘厳に祝うしかないのでしょうか? 何を理由に Ubi et Orbi <ローマと全世界への教皇メッセージ> で「この経験の記憶は、希望の根拠となる」などと宣言するのでしょうか? よく考える人々の裏切りだけが、自分の正体をこのように隠すことが出来るのです。(21)

 あたかも、考えられる曖昧な表現全てを追い払い、第一回アシジの精神に対する忠誠を聞きたがっている人々誰にでも思い起こさせようとしているかのように、 先任者<ヨハネ・パウロ二世>を回想してこう言っています。「今年2011年が尊者ヨハネ・パウロ二世が1986年にアッシジで開催した世界平和祈祷集会の25周年であることを思い起こしました。」(22)

 教皇を擁護しようとする人々までが、正当化し得ないものを正当化しようと試みる目的で同じ説明を用いるのではありません。かつて人々は「祈る為に一緒になる事」と「一緒に祈る事」とを微妙に区別しながら、アシジを擁護していました。今日、共同の祈りではなく、祈りの共同の日なのだ、と言うのでしょうか? さらに沈黙のうちの祈りが同時にあることを拒否することができず、各自は、自分の宗教に従って別々に祈る、というのでしょうか?恰もこれらのもっともらしい区別は、そのための必要を満たすために自分の都合の良いようにでっち上げられなかったかのようです。まるでこれらの微妙な区別は、人々からそろって即座に認められたかのようであります。ただし、彼らには次のことだけしか頭に残らないでしょう。「全啓示を除外した、各自の神に祈るための全ての宗教の集まり、ということです。

 結局は、そして先任者と比べた場合、現教皇による大部分の行為がそうであるように、アシジ2011の躓きは実質的には同じではあっても、アシジ1986ほどの派手さはないでしょう。また、以上の強い言葉故に私たちには愛徳が欠如していると、もう一度非難するだろう人々に対しては、キリストの御言葉を想起させる事にします。「全ての心と、霊と、力を尽くしてあなたの天主なる聖主を愛し、あなたの隣人を自分自身の様に愛しなさい。」冒涜を告発をしないことや、冒涜によって傷ついた人々を非難することが、熱烈な愛でキリストを愛することになるのでしょうか??隣人に迫る大きな躓きについて警告しない事が、この隣人を愛する事になるのでしょうか?そこにキリストから求められる愛があるのでしょうか?

 違います、暗澹(あんたん)とした時代にいた聖ピオ十世は次のように私たちに思い起こさせてくれています。

 「カトリック教義は、愛徳の第一の義務は、間違っている信条---それが如何に誠実であれ---を黙認するすることでもなければ、私たちの兄弟たちが誤謬や悪徳にどっぷりと浸かっているのを見ながら理論的あるいは実際的な無関心を保つことでもなく、彼らの物質的福祉を求めつつ同時に、知的かつ道徳的な向上に対する熱意を持つことにある、と私たちに教えています。この同じ教義は、隣人に対する愛徳の源が、共通の父にして全人類家族の共通の目的である天主に対する愛と、イエズス・キリストに対する愛の内にあるとも教えています。そうです、尊敬すべき兄弟の皆様、キリスト教的愛徳の外に真の兄弟愛など存在しません。」 (23)

 それでは、私たちはどちらの教会に属しているのでしょうか?

 異端者マルキオン(Marcion)からマルキオンを認めるかと尋ねられて、彼に対して「その通り、私はおまえを悪魔の長男として認める」と答えたスミルナの聖ポリカルポの教会に属しているのでしょうか?

 私たちの田舎にあった偶像や神木を打ち砕いていた聖マルティーノの教会に私たちは属しているのでしょうか?

 私たちの祖先たちに十字軍を説いていた聖ベルナルドの教会に私たちは属しているのでしょうか?

 ロザリオを祈るだけに留まらず、イスラム教徒たちに対して強力に戦闘をするようにキリスト教君主たちを召集した聖ピオ五世の教会に私たちは属しているのでしょうか?

 私たちは、聖人と殉教者たちを生んだこの教会に属しているのでしょうか、それとも、ピラトの教会、(聖ジャンヌ・ダルクに火刑を宣告したボヴェ市の司教)ピエール・コションの教会、(公教会と国家の分離を通して成人期に達した人類は公教会の守護から開放されるべきであると説いた自由主義者)ラムネ(Felicite de Lamennais 1782-1854)の教会、(物質は霊となり、自然は超自然となり、人類はキリストになるという説を以って進化論的単一主義を主張した)テイヤール・ド・シャルダンの教会、世にへつらう事と、キリストとその弟子たちを、誹謗者たちに引渡す事とに於いては常に素早い教会に、私たちは属しているのでしょうか?

 私たちは、アシジを信仰の目で、歴代の教皇たちと殉教者達の目で判断するのでしょうか?それとも世俗の目で、リベラルの目、近代主義者の目で判断するのでしょうか?

 それ故に、私たちには黙り込む事が出来ませんし、また、教皇がその教皇職中の最も深刻な行為の一つをするために準備をしている間、私たちの憤慨を力強くも公然と絶叫致します。それは、入念に準備されているこのアシジ集会という不幸が行われないよう希望しつつ天に懇願をしながらのことです。

 最後に、1999年の教皇宛ての手紙の中でフェレー司教により想起されたルフェーブル大司教の次の言葉をどうすれば思い出さないでいられましょう。 「ルフェーブル大司教は、アシジでの不吉な出来事の内に、聖下による同意のない司教聖別を合法的に行う事を許し、『率直な協力の時は依然として来ていない』と聖下に書き送る事を許している『時の印』を認めました。」(24)それどころか、この躓きを償い、犠牲を捧げる時が到来しました。邪悪の奥義が進展するにも拘らず、『地獄の門は公教会に決して勝てないだろう』との断固たる希望を心に保ちながら。

1683年9月12日、ウィーンに於ける武装したキリスト教徒たちのイスラム軍に対する勝利の記念日である
2011年9月12日、聖マリアの御名の祝日に。
レジス・ド・カクレ(Regis de Cacqueray)神父

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(1) :当日の進行及び聖座の公式発表は、この行事にある宗教的次元に関して如何なる疑いも残していない:「教皇聖下は来る10月27日に、世界の平和と正義を求める考察と対話とさらに祈りの日を召集するつもりである。(...)各代表者による祈りと考察のために、ひと時の沈黙が続くことになる。午後になると、アシジに居合わせる全ての人々は聖フランシスコ大聖堂に向かい蛇行する事になる道行きに参列する予定である。これは最終段階として各代表が参加する巡礼となるだろう。このようにして、真理に対する熱心なる探求と、正義及び平和の積極的な構築を目指す人間一人ひとりの道行きを象徴しようとしている。この道行きは、個人的な祈りと黙想とに余地を残しながら、沈黙の内に行われるだろう。」 2011年4月2日の聖座の報道公式発表:『世界平和と正義を求める考察、対話、祈りの日 ---「真理の巡礼者たち、平和の巡礼者たち」(2011年10月27日アシジ)』
外国語サイト リンク 英語
Vatican Information Service: Monday, April 4, 2011
DAY OF REFLECTION, DIALOGUE AND PRAYER IN ASSISI

外国語サイト リンク フランス語
Vatican Information Service: lundi 4 avril 2011
DIALOGUE ET PRIERE POUR LA PAIX A ASSISE

(2) :教皇より発表された当集会の目的とは、「あらゆる宗教の信者が自分の宗教的信仰を平和のための奉仕として実践するという約束を荘厳なしかたで更新するため」である。
日本語サイト リンク カトリック中央協議会: 2011.1.2
教皇ベネディクト十六世の2011年1月1日の「お告げの祈り」のことば
(サンピエトロ大聖堂にて)

(3):第二6:13;マテ4:10。

(4):ヨ14:6。同様にヨ①2:23:「御子を否む者は誰であれ御父をも持たない」を参照。

(5):「<その家の>人々が貴方たちを受け入れず、貴方たちの言葉を聞きもしない時、この家あるいはこの町を出て足の塵を払いなさい:審判の日、ソドムやゴモラの国はこの町よりも寛大な扱いを受けるだろう。」マテ10:15。

(6):ル12:4-5。

(7) :「世界平和の日、現代が人類に出している大きな挑戦について共に考察するのに良い機会であります。今日、劇的に緊急である挑戦の一つが、信教の自由のそれです。それ故に私は、自分のメッセージを今年このテーマの為に捧げたいと考えました:『平和への道なる信教の自由、(…)「世界平和の日」メッセージ』の中で、わたしはさまざまな大宗教が人類家族の一致と平和のために重要な役割を果たせることを強調しました。そして、このことに関連して、今年2011年が尊者ヨハネ・パウロ二世が1986年にアッシジで開催した世界平和祈祷集会の25周年であることを思い起こしました。そこで、来る10月にわたしは聖フランシスコの町に巡礼を行います。そして、この巡礼に、諸教派のキリスト教の兄弟の皆様、世界のさまざまな宗教伝統の代表者の皆様、そして精神的な意味ですべての善意の人が参加してくださるよう招きます。」ベネディクト十六世、2011年1月1日土曜日のお告げの祈り時、聖ペトロ大聖堂広場にて。

(8):「宗教無差別主義のこの毒を含んだ泉からは「すべての人に対して良心の自由が確立され、保証されるべきだ」という誤りかつ愚かなというよりむしろ狂気の原則が流れ出ます。」グレゴリオ十六世、ミラーリ・ヴォス、1836年公布。

(9) :詩95:5。

(10):「もしこの教えをもたずにあなたたちのところにくる者があれば、その人を家に入れず、挨拶もするな。」ヨ②10-11。

(11) :1864年公布のシラブス排斥命題79、デンツィンガー2979参照:「「あらゆる信教(cultus)に法律上の自由を与え、あらゆる意見や思想を何も隠さず公表する全くの権力をすべての人に与えることは、人民の道徳と人心をより容易く腐敗へと導き宗教無差別主義の疫病を伝播させる」というのはまちがっている。」

(12) :1893年に開かれたシカゴの諸宗教会議の機会に。

(13) :「ある人達は「宗教的感覚を完全に失ってしまった人は極めてまれである」と確信しています。そして、この確信を基礎に、諸民族を、その宗教の違いにもかかわらず、宗教生活の共通の基礎として認められる幾つかの教義を兄弟的に認めあうまでもって行くことが、容易にできるという希望を養っているようです。ですから、彼らはかなり多くの聴衆者が出入りする会合、集会、講演会などを開いています。彼らは全ての人々を区別無く、ありとあらゆる種類の不信者、信者、更に不幸なことにキリストから離れ苦々しくそして頑固にキリストの神性とその使命を否定するものまでもその公演に招待しています。このような骨折りにたいして、カトリック信者はいかなる賛同をも与えてはなりません。何故かというと、彼らの活動が“全ての宗教は、たとえ形は違っていても、全て等しく、私たちを天主に導き、私たちをして天主の力の前に尊敬を持って屈めさせる自然の生まれつきの感情を表している”という意味で“どの様な宗教でも、多かれ少なかれ、良いものであり称賛すべきである”という、間違った考えに基づいているからです。彼らは、ただ単に誤謬のうちに迷い込んでいるだけではありません。この誤りを支持しつつ、彼らは、宗教に関する本当の観念を歪め、同時にそれを拒んでいるのです。そうして彼らは、[どんな宗教でも同じだという]宗教に関する誤った考えを持ち、少しずつ[真の宗教に関する問題よりも、この地上のことを重視する]超自然否定主義(naturalism)そして、[真の宗教も、真の天主もないのだという]無神論へと歩んでいます。ですから、このような誤った教えの賛同者となり宣伝者に合同することは、天主によって啓示された宗教[すなわちカトリック教]を全く打ち捨てることであるということは完全に明らかです。」ピオ十一世、モルタリウム・アニモス(Mortalium animos)、1928年1月6日公布。

(14) :これは「自分に固有のアイデンティティを放棄することなく、又は宗教混合主義のいかなる形態へも譲歩することなしに」行われ得るだろう。聖座による2011年4月2日の公式発表:世界の平和と正義に向けた考察と対話、そして祈りの日「真理の巡礼者たち、平和の巡礼者たち」(アシジ、2011年10月27日)

(15) :ベネディクト十六世、2011年1月1日土曜日のお告げの祈り時、聖ペトロ大聖堂広場にて。

(16) :ル・フィガロ誌、1986年10月31日号、p.69。

(17) :オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙、27-28面、1986年10月31日。

(18) :教皇聖下ベネディクト十六世による2011年1月1日、世界平和の日のミサ聖祭中に与えられたメッセージ、no.12。

(19) :ローマで1999年10月28日、アシジの躓きの繰り返しに抗議するフェレー司教様のヨハネ・パウロ二世宛ての書簡。

(20) :教皇聖下ベネディクト十六世による2011年1月1日、世界平和の日のミサ聖祭中に与えられたメッセージ、no.7と11。

(21) :Seule la trahison des bien-pensants peut permettre de se voiler ainsi la face. 「誇りを超えて身を高めることは美しい事です。ともあれ、それに届かなければならないのならば。私には世俗が言うところの名誉について自由に語る資格は御座いませんし、それは私の様に哀れな司祭にとりまして会話の主題ではありませんが、時に人々は名誉を余りにも気安く取り扱っていると思うのです。ああ!私たちは皆、泥の中に横たわって眠る事が出来ますし、泥は疲れ切った心にとって清清しく見えるのです。また不名誉ですが、お分かりでしょうか、それは有触れた睡眠であり、重く圧し掛かる眠りであり、そして夢なき酔いであります。もしも高慢の最後の残りが不幸な者を立ち上がらせなければならないのなら、何故人々は仔細に眺めるのでしょうか?」 ベルナノス(Bernanos)著、田舎主任司祭の日記(Journal d'un cure de campagne)、プロン出版、1936年、p.245。
外国語サイト リンク Georges Bernanos / JOURNAL D’UN CURÉ DE CAMPAGNE
外国語サイト リンク Journal d’un curé de campagne

(22) :ベネディクト十六世、2011年1月1日土曜日のお告げの祈り時、聖ペトロ大聖堂広場にて。同様に聖座による2011年4月2日の公式発表を参照:世界の平和と正義に向けた考察と対話、そして祈りの日‐「真理の巡礼者たち、平和の巡礼者たち」(アシジ、2011年10月27日) 「この巡礼のイメージは、執り行われる予定の行事が有する趣旨を要約し、次の公式発表を遵守させるのです。アシジに於ける最初の集会から2002年1月のそれに至るまでに歩んだ道のりのいろいろな段階を追憶すると同時に、善意ある全ての男女たちと一緒に、急激な変化を遂げる世界にあって、対話と兄弟愛の道行きを歩み続けるという意向と共に、未来に目を向けるつもりです。」 既に2007年には、ナポリの諸宗教の日に当たって、ベネディクト十六世はアシジの第一回目の集会を後悔しているということについてあらゆる幻想を一掃した。ベネディクト十六世によれば、このナポリの集会は「私たちを1986年の精神に連れ戻すのです。この年に、私の尊敬する先任者ヨハネ・パウロ二世が、聖フランシスコの丘に、平和を祈願する為に高位の宗教代表者方を招き、この状況にあって、人類のこの基本的善の為にある鋭い感性と本物の宗教的態度とを結び付ける内属的な絆を強調しつつ、(...) 異なる諸宗教にある違いへの配慮に於いて、私たちは皆、平和の為に働くよう召されています。」ベネディクト十六世、「2007年10月21日、平和国際会議に参列した宗教指導者たちへの演説」DC、n. 2391(2007年12月2日)、p. 1037-1038。

(23) :マテ12:30

(24) :聖ピオ十世、フランスの大司教および司教たちに宛てたシヨン運動に関する教皇聖ピオ10世の回勅 Notre Charge Apostolique 『私の使徒的責務』1910年8月25日付け、聖ピオ十世教皇文書(Documents pontificaux de S. S. Saint Pie X)、第二大冊、クリエ・ド・ローム出版(Publications du Courrier de Rome)、1993年、p.259。



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