マニラのeそよ風

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第401号 2008/01/02 イエズス・キリストの至聖なる聖名の祝日

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの主の御降誕のお祝いを申し上げます。

 私は例年の如く、昨年2007年の私たちの主イエズス・キリストの御降誕祭はソウル(韓国)で過ごしました。12月23日には、主日のミサの後で、ソウルに在住のフランス人家族の第6番目の子ども、生まれたばかりのマドレーヌ・マリーちゃんに洗礼を授ける恵みをいただきました。

 マドレーヌ・マリーちゃんは、まだ両の手におさまってしまいそうな程、ちっちゃな赤ちゃんで肌の色も生まれたてで赤く、大切にしないと大変なことになりそうな赤子です。

 この嬰児を見ながら思いました、天主御父は、どれほど私たちに対する大きな愛を持って、天主御子をこの世にお送りになったか、ということを。大切な御子を人類に与えるために、今から2007年前に、御托身の玄義を実現されたことを。

 天主様の愛は、ここに現れました。私たちの主イエズス・キリストの御降誕にまず現されました。私たちに、最初の巨大なクリスマス・プレゼントを与えて下さったことに。私たちに本当の光を与えて下さったことに。天主の恩寵はあらわれたのです。天主の目に見えない愛は、目に見えるようになりました。

 使徒聖ヨハネはこう書いています。

 「愛する者よ、たがいに愛せよ。愛は天主よりのものである。愛する者は天主から生まれ、天主を知るが、愛しない者は天主を知らない。天主は愛だからである。私たちに対する天主の愛はここにあらわれた。すなわち、天主はそのおんひとり子を世につかわされた。それは私たちをかれによって生かすためである。そして、私たちが天主を愛したのではなく、天主が先に私たちを愛し、み子を私たちの罪のあがないのためにつかわされたこと、ここに愛がある。愛する者よ、天主がこれほどに愛されたのなら、私たちもまたたがいに愛さなければならない。だれも天主をみたものはないが、私たちがたがいに愛するなら、天主は私たちの中に住まわれ、その愛も私たちの中に完成される。」

 聖パウロはこう言います。

 「すべての人間の救いのもととして、天主の恩寵はあらわれた。それは、幸福な希望と、偉大な天主であり、救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれを待ちつつ、この世において、思慮と正義と敬虔とをもって生きるために、不敬虔と世俗の欲望をすてよと私たちに教える。」

 使徒聖ヨハネもこう続けます。

 「イエズスが天主のみ子であると宣言する者には、天主がその中にとどまられ、かれは天主にとどまる。私たちは、天主の私たちへの愛を知り、それを信じた。天主は愛である。愛をもつ者は天主にとどまり、天主はかれにとどまられる。」

 「私たちが愛するのは、天主が先に愛してくださったからである。私は天主を愛するといいながら兄弟を憎むものは、いつわり者である。目で見ている兄弟を愛さない者には、見えない天主を愛することができない。天主を愛する者は、自分の兄弟も愛せよ。これは私たちが天主から受けた掟である。」

 愛する兄弟姉妹の皆様、御降誕の神秘の中に深く入り込みましょう。聖アルフォンソ・デ・リグオリは、有名な Novena del Santo Natale(聖なる御降誕のノヴェナ)の DISCORSI(訓話)の中で、私たちにこう言います。私はこの地上に火をつけるために来た。Ignem veni mittere in terram, et quid volo nisi ut accendatur? (Luc. XII, 49). 旧約の時代には、バビロンから戻った後に、ヘネミアがいけにえを捧げたときの火を記念して、「火の日」(dies ignis)と呼ばれる日があった、ところで、主の御降誕祭こそまさに「火の日」である。何故なら、天主は幼子としてこの世に火をつけるために来たり給うたからだ、と。

 聖アルフォンソは、聖トマス・アクィナス(に誤って帰せられた文章)を引用して、こう言います。

 「天主は人間を、あたかも人間が天主の天主であったかのように愛した、あたかも人間なしには幸福ではあり得なかったかのように」と。(Similiter notabile est quod etiam omnes angelos convocat ad congratulandum, non drachmae, non homini, sed sibi, quasi homo Dei deus esset, et tota salus divina in ipsius inventione dependeret, et quasi sine ipso beatus esse non posset.) Opuscula S. Thomae Aquinatis, Opusculum 63, De beatitudine, cap. 7
外国語サイト リンク CORPUS THOMISTICUM / Ignoti Auctoris De beatitudine

 そしてナツィアンズの聖グレゴリオを引用し、天主が人間に対して持つ愛のために、「我を忘れた」と敢えて言っているのです。Audemus dicere quod Deus prae magnitudine amoris extra se sit (Epist. VIII).

 聖アルフォンソは、アレクサンダー大王がペルシア人民の愛情を勝ち取るためにペルシアの服を着た例を取り、天主が人間の愛を勝ち取るために、天主は人間の姿を取った、と言います。「すべての人間の救いのもととして、天主の恩寵はあらわれた。」「永遠の愛で、私はおまえを愛した、そして私はおまえを憐れんでおまえを引き寄せる In caritate perpetua dilexi te, ideo attraxi te miserans tui (Ier. XXXI, 3).」

 私たちの功徳ではない、私たちが受けるに値しない天主の愛を、恩寵として無償で与えられました。

 聖アルフォンソは聖ベルナルドを引用して続けます。天主が愛したのは、愛されるためだった、Cum amat Deus, non aliud vult quam amari (Serm. 83, in Cant.) と。天主を愛を見て、水でさえも火をつけ、最も冷たく凍ったような人間の心さえも、天主の愛の火をつけようとした、Aquae arderent igni, ah, che a questa fiamma che voi accendereste ne' cuori umani, l'anime più gelate arderebbero del vostro amore と。

 しかし、聖アルフォンソは、涙ながらに言います。全てが天主イエズス・キリストの偉大なる愛に応えたのだろうか? Han tutti cercato di corrispondere a questo grande amore di Gesù Cristo? 残念ながら、人類の大部分は忘恩を持ってそれに応えた、Oh Dio che la maggior parte poi l'han pagato e lo pagano d'ingratitudine! と。

 聖アルフォンソは言葉を続けます。「私の兄弟よ、私に言って下さい、あなたは天主があなたのために持つその愛に、今までどれ程のお返しをしてきたのですか?常に感謝をしてきましたか?天主が人間となって、あなたのために死に給うた、というこの言葉の持つ意味を真剣に考えたことがありますか? E tu, fratello mio, dimmi, come hai riconosciuto l'amore che ti ha portato il tuo Dio? L'hai ringraziato sempre? Hai considerato che cosa viene a dire un Dio farsi uomo per te, e per te morire? 」と。

 聖アルフォンソは叫びます。「おぉ、キリスト教徒よ、私に言ってくれ。あなたの愛を勝ち取るために、イエズス・キリストは他にもっと何をしなければならなかったのか?もしも、あなたのしもべがあなたを愛するあまり、自分の命と血を与えたなら、彼に対してあなたの心は動かされ、少なくとも感謝のために、彼を愛せざるを得なくなるのではないか?それなら、イエズス・キリストが御自分の命をあなたのために与え尽くしたのにもかかわらず、一体何故、私たちの主はあなたの愛を勝ち取ることが出来ずにいるのか? Dimmi, cristiano, che avea da fare più Gesù Cristo per farsi amare da te? ... Se un servo tuo per tuo amore avesse dato tutto il sangue e la vita, non ti avrebbe già incatenato il cuore, ed obbligato almeno per gratitudine ad amarlo? E perché Gesù Cristo poi, giungendo a dare sino la vita per te, non ha potuto sinora giungere ad acquistarsi il tuo amore? 」と。

訓話I - 天主の永遠の御言葉は人となった(Il Verbo Eterno da Dio s'è fatt'uomo)
外国語サイト リンク Il Verbo Eterno da Dio s'è fatt'uomo)より。

 「私はこの地上に火をつけるために来た。」

 そうです、私たちの主イエズス・キリストは、私たちの心に愛の火をつけるためにお生まれになりました。


 さてお知らせですが、ソウルでの聖ピオ十世会の聖堂は、よい機会が生じましたので、来年2008年の1月を最後に、現在の場所から、ソウル中心部の東大門のより広い場所に聖堂を移動することになりました。引っ越しのためのいろいろな仕事が予想されておりますが、兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

 それでは、今回は、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の中に掲載されている「御降誕」のお説教の(一)と(二)をご紹介します。浦川司教様は、聖アルフォンソの著作の内容そのままを御説教なさっています。


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

御降誕

御降誕


(一)神の御子は人となり給へり

「我地上に火を放たんとて来たれり」(ルカ十二ノ四九)

(1)-イエズス様は人々の心に愛の火を燃やさんが為、現世(このよ)に降り、嬰児(おさなご)となってお生まれになったのであります。それまでと云うものは何処に天主様を心から愛するものが居ましたでしょう。僅か世界の片隅のユデアに於いて識られ給うばかり、其のユデアですら、天主様を心から愛するものは極少数でした。況して他の国々では、日を拝み、月を拝み、犬や猫や狐(こ)狸(り)や木石や、拙(つま)らない、卑しい、汚らはしいものを神に祭り上げ、之を拝んで居ると云う塩梅でございました。然るに一たびイエズス様が御降誕になりますと、世の中の姿はがらりと一変しまして、到る処に真の神を識り、之を拝み、之を愛する者が日を追って多くなり、人の心は忽ち天主様の愛に燃え立って参りました。僅か数十年経つか経たぬ間に、世の始めより幾千年の間に愛され給うた以上に愛するに至りました。欧米諸国では、御降誕の際に信者は各々自分の家に馬屋を作って、御降誕の有様を偲ぶそうでありますが、必ずしも然(そ)うする必要はありません。むしろ我々の心にイエズス様が御降誕になり、御安(おや)息(す)み下さいますよう準備を急ぎましょう。さすれば、イエズス様の御降誕と共に、充分その愛の火に燃え立づことが出来、現世(このよ)では至極安心して月日を送り、後、天国に於いては、窮(きわ)まりなき幸福(さいわい)を楽しむことも出来るでございましょう。で、今席は先づ、神の御子が人となりて生まれ給うたのは何の為であるか、と云うことをお話し致す考へであります。

(2)-人(じん)祖(そ)アダムは罪を犯しました。天主様の御恵みを数知れず戴いて居ながら、その御恵みに背き、御誡(おんいまし)めを破り、禁断の樹果(きのみ)を食べました。為に楽園より逐(お)い出され、自分を始め、子々孫々に至るまで、現世(このよ)に暫く生存(いきながら)へた後、永遠窮まりなく楽しむべきであった天国、その天国へ這入ることが出来なくなってしまいました。斯くの如くして、生きては色々と艱難苦労を嘗(な)め、揚句の端(はて)は天国へも這入れないと云う哀れな身の上となったのであります。然し天主様は其の儘にして人類を捨て置くに忍び給はず、何とかしてアダムを救い上げねばならぬと思召されました。

 御哀憐(おんあわれみ)限りなき天主様ですから、アダムにして救いを蒙らないとあっては、その御哀憐(おんあわれみ)が見(あら)はれないので、何うしても放ったらかして置かれません。然し一方がらはまた正義限りなき御方で、罪のあるアダムを罰しなくては正義の徳が立たなくなる。そこで正義にも哀(あわ)憐(れみ)にも傷を付けないで、アダムを救い上げなければならないが、其の為には罪一つなきものが、罪ある人間に代わって、謝罪をするより外はございません。

 然るに地上を眺めても、罪一つないものと云うは誰とて見当たらない。人間は皆罪に汚れて居る。随って天主様の正義を宥(なだ)め得るものと云うは人間の中に居よう筈がない。どうせ誰かが天から下って人類を贖(あがな)はねばならぬ。然し天使にせよ、大天使にせよ、ケルビン、セラフィンにせよ、皆造られたみの、有限物である以上、その献げる謝罪は皆限りある謝罪である、限りある謝罪を献(ささ)げても、限りなき罪に当るには足りない。そこで天主の第二位が自分でその大事業を引き受けよう、と云いだしなさいました。被造物は、天使にせよ、大天使にせよ、到底充分の謝罪を献げることは出来ない。たとへ天主様が彼等の献げる不充分な謝罪に満足して、之をお受け取り下さるにしても、それでは人間がその有難さを悟らない。然(そ)うでしょう。今日まで人間は幾(ど) れほどの恩恵(おんめぐ)みを施されても、幾(ど)れほど沢山な福(さい)楽(わい)を約束されても、幾(ど)れほど恐ろしい罰を威嚇(おどか)されても、それで天主様を愛する気になりませんでした。それと云うのは、天主様が如何ほど自分等を愛し給うかと云うことを、善く悟らない為である。

 然し天主様が御自ら人類救贖(あがない)の大事業を引き受け、下界に降って人となり、彼等の罪に代わって御死去遊ばすようなことになると、天主様の正義にも十分の償いが払われるし、人間も亦、天主様の測り知れぬ愛の程を悟ることが出来る訳になるので、そう決心しよう、と御子は云い出しなさったのであります。

 固(もと)よりそうする日になると、牛馬の住む汚い小屋に生まれ、生まれると間もなく、その救い上げようと云う人々から生命を取られるような目に遭って、遠い外国へ逃げなければならぬ。故郷へ帰ってからも、三十年と云う長い間、貧乏な職人の徒弟となり、極めて賎しく困難な生活をなし、いよいよ公に世の中へ出て、教を説き拡めようとしても、弟子となって心からその教えに耳を傾けるものは極めて少なく、多くは之を軽んじ、欺瞞者(たばかりもの)だ、魔法遣いだ、狂人だ、サマリア人だと嘲(あざけ)り、その揚句は捕らへて十字架に磔け、ありとあらゆる軽侮(あなどり)陵辱(はずかしめ)を浴びせて、殺すであろうとは飽くまで承知しながら、なおこの大事業をお引受け下さったのであります。

(3)-斯うして天主の御子がこの世に降り、人間を救い上げ下さることになりましたから、ガブリエル大天使はマリア様の許へ遣わされ、マリア様の方でも、天主の御母となることを御承諾になり、御子は終にその御胎にやどりて、人となり給うた。して聖パウロも曰(い)って居る如く、御やどりのその始めより、主は深く深く謙遜して一身を御父に献げ、「主よ、犠牲(いけにえ)と献物(そなえもの)とを否(いな)みて肉体を我に備へ給へり・・・看給(みたま)へ、我は御旨を行はん為に来たれり」(ヘプレア)十ノ七)と宣(のたま)うたのであります。実に天主様が人とおなり下さいましたのは、我々人間の為、この卑しい人間を贖 (あがな)わんが為でした。故に聖会は「我等人間の為に,我等を救わんが為に天より降りて人となり給へり」(ユケヤ信経)といって居ます。

 而もそんなにして人を救い上げ、以て人に愛されたいと思召させ給うたのであります。アレキサンデル大王はペルシア王ダリウスを打ち破って、ペルシア全国を征服した時、ペルシア人を懐(なつ)けて其の人気を博するが為め、ペルシア風の服装をしたと云うことであります。天主様も我々の心を懐(なつ)けんが為め、同じ様に致しなさいました。

 即ち我々同様の姿になり、我々のような肉を着(つけ)て世に生まれ出で、何処まで我々を愛して居るかと云うことをお表わしになりました・・・天主様は無形であり、霊にて在(ましま)すから、肉眼で見ることは出来ない、如何ほど愛すべく在(ましま)すか、我々には善(よ)く悟れません。よって目に見え、耳に聴き、手に触れ、共に親しく言葉を交(か)わすことも出来る様な人間に生まれて、御自分の愛を表(あら)わし、我々にも愛されたいものと思召しになったのであります。

 「窮(きわ)まりなき愛もて汝を愛せり」、実に天主様の人を愛し給う愛は窮(きわ)まりないのですが、然し是迄は充分にそれが表(あらわ)れて居ません。ただ御子が人となって馬屋に生まれ、少しの藁の上に寝かされ給うに至って、其の愛が始めて明白(あきらか)になりました。天主様は無より天地を造って、其の全能を表(あらわ)し、見事に万物を支配して、其の全知を表(あらわ)しなさいましたが、人と生まれ給うて、始めてその御慈愛(おんいつくしみ) の限りも涯(はて)しもないことをお証(あか)しになったのであります。されば御子が御托身なさらない間は、人は天主様の御慈愛(おんいつくしみ)のほどを充分に悟ること出来ないのでしたが、然し今や人と生まれて、その感ずべく驚くべき愛をお証(あか)しになったのですから、もう露(つゆ)ばかりも疑いを挟(はさ)むこと出来ないのであります。抑(そもそ)も人は天主様を侮(あなど)り軽んじて、之に突(とっ)離(ぱな)れてしまったのでした。そして一旦突(つっ)離(ぱな)れてからは、自分の力で天主様の方へ立ち戻ることが出来ない。よって天主様は御自ら人間を探して、この世にお降りになりました。謂 (い)わば罪悪の大病に罹(かか)って、自分からは医師を頼みに行くことも出来なくなったから、医師の方から病人をお捜し下さった様なものであります。

(4)-人間と云うものは愛に引かれたがるものである。何人(だれ)かが自分を愛してくれると分かれば、心は愛情の綱にでも縛られたかの様、何うしても其の人を愛せずに居られなくなります。況(ま)して天地万物の御主にて在(ましま)す神の御子が、自分の為に人間とまでお成り下さったかと思っては、何(ど)うして其の深い深い愛情に心を縛られずに居られましょう。昔、聖フランシスコ会の修道士にフランシスコと云う熱心な司祭が居ました。幼きイエズス様がそれはそれは綺麗な姿をして幾度もお顕(あらわ)れになりますけれども、自分の傍(そば)へお引き留め申そうとすれば、直ぐ逃げ出してしまいなさるので、司祭はそれを甚く遺憾に思って居ました。

 所で或る日イエズス様は手に金の綱を持ってお顕(あら)われになり、是で司祭を縛り附けよう、又、司祭にも縛り付けられて、互いに離れまいと云う意(こころ)をお示しになりました。よって司祭は其の綱を取ってイエズス様の両足に廻し、自分の胸の邊(あたり)にしっかり括(くく)り附けました。其の時からと云うものは、イエズス様を胸に抱いている様にばかり覚えた、と云うことであります。イエズス様はこのフランシスコ司祭に対して為(な)し給うたことを、御托身の折には我々に対して致しなさいました。即ち御托身によって、我々の捕虜(とりこ)となり、我々の心に?(つな)ぎ留められると共に、又、我々の心をも、愛の綱もて御自分に縛り付けようとして下さったのであります。

 「聖霊によってやどり」といって、御托身を聖霊の働きとするのは何(ど)うした訳でしょうか。天主様が外界に対して致しなさる御業(みわざ)は三位とも共同で致しなさるので、御父なり、御子なり、聖霊なりだけに当るという訳ではない。それにも拘わらず御托身を聖霊の働きとなすのはどうした訳でしょうか。外ではない、聖霊は御父と御子との愛に在(ましま)すので、愛の御業はすべて聖霊の働きとするからであります。所で御子が世を救わんがために人となり給うたというのは、愛の業の中にも特にすぐれて大いなる愛の業ですから、之を聖霊に当てるのは尤もな次第でございましょう。実に天主様が人とお生まれになりました時ほど、その愛が著しく顕(あら)われたことはなかったのであります。殊に驚くべきは、人が天主様の前を逃げつ隠れつしている時に、御子が人となって之をお捜し下さったことであります。御子は人となって、この恩知らぬ人間の後を追い廻し、「人よ、なぜ逃げるのです。私が幾(どれ)ほど其方(そち)を愛して居るかを見なさい。私はただ其方(そち)を捜し出すが為にこそ世に降ったのです。逃げないで、私を愛しなさい。其方(そち)を斯くまで愛する私を愛しなさい。」と叫んで下さるのであります。

 天主様は人を愛し、之を御自分に擬(なぞら)へてお造りになりました。けれども其の人を贖(あがな)う時には、御自ら人の姿となり、我々同様の人間とお成り下さいました。我々のようにアダムの子となり、我々のように肉体を着(つ)け、我々の様に苦しむことも死ぬことも出来る身の上となられました。天使の姿となることも叶い給うたでしょうが、然(そ)うは致しなさらぬで、我々と同じくアダムより伝わった肉体をお纏(まと)いになったのであります。

(5)-天主様が人となられたとは、実に実に何と云う驚くべき謙遜でしょう。地上のすべての帝王、天に在(ましま)す諸々の天使、聖人、聖母マリア迄が一莖(ほん)の草、一抹(つまみ)の土塊(つちくれ)となられたと云うよりは、未だ未だ驚くべき謙遜ではありませんか。草にせよ、土塊(つちくれ)にせよ、帝王でも、天使聖人でも、同じ被造物であるが、天主様から被造物へと云う段になると、実に限りなき隔たりが出て参ります。実際そうであったと、信徳によっておしへられないならば、全能全智の天主様が、この賎しい人間の為に、かくまで身を謙(へりくだ)り給うたと、誰が信ずること出来ますでしょうか。

 今、道を歩いて居る中に、不図(ふと)そこにのたくり廻って居る一匹の芋虫を踏み殺した人があったと致しなさい、可哀相に!と後ふりかへって眺めて居ると、其処を通りかゝった人があって、「この芋虫を復活さしたいと思いますならば、貴方が先ず芋虫となり、貴方の血を絞り、それで血の風呂を拵(こしら) へ、この芋虫を入れなさい、そうすれば必ず復活しますよ」と云ったら、其の人は何と返答しますでしょう、「馬鹿馬鹿しい、我が身が芋虫となり、我が命を捨てゝまで、この芋虫を復活さしてやる必要が何処にある?

 この芋虫が復活しようと復活しまいと、何の関(かかわ)りがあるだろう」と云うに相違ありますまい。今芋虫の代わりに自分に害ばかりして居る蝮(まむし)であったとするならば、救ってやっても、其の恩を忘れ、却(かえ)って救った其の人に咬み付くと云う蝮(まむし)であったらば、況(ま)してそんな甚 (ひど)い目に遭ってまで、之を救う訳もなければ、之を救ったからとて何の益もないでございましょう。それにも拘わらず、もし其の人が、この恩知らぬ蝮 (まむし)を然(そ)うして救い、之を復活さしたとするならば、人は何と申しますでしょうか。もしその救われた蝮(まむし)に智慧、分別がありますならば、其の救い主に対して如何なる感謝を献げたいと思いますでしょうか。然るにイエズス様が我々に対して恰度,然(そ)うして下さいました。それに持って来て、我々は恩に報いるに仇を以てし、幾度となくこの恩愛、極まりなき救い主を殺そうとしたのじゃありませんか。

 もしイエズス様が今でも死するを得(え)給(たま)うとするならば、大罪を犯す毎に、畏(おそ)れ多くも之を十字架に釘づけて殺し奉るのであります。我々の身を天主様に比べた日には、人間を一匹の芋虫や蝮(まむし)に比べる位のものでしょうか。もっともっと限りなく卑しいものではありませんか。我々が復活して天国へ昇ろうと、罪悪に溺れたまゝ地獄に終りなく罰されようと、天主様が何の痛さ痒さを感じなさいますでしょう。それにも拘わらず、天主様は我々を愛して愛して、是非とも地獄の罰を遁(のが)して、天国の終りなき福(さい)楽(わい)を得させたいと思召され、我々と等しい人間、我々の如く浅ましい人間となり、御血を残らずしため尽くして、我々をお救い上げ下さったのであります。

(6)-斯様(かよう)な訳ですから、聖トマス博士は御托身の玄義を「奇蹟中の一大奇蹟」と呼ばれました。是こそ実に我々の想像を遥かに超越した一大奇蹟で、之には天主様も其の愛の力を極度に表し給うた訳であります。全能の神の貴きを持ちながら、我々を愛して人となり、造り主が被造物となり、無上の御主が賎しい奴隷となられた、苦しむこと出来ない御方が、あらゆる苦しみを忍び、死んでしまわれたと云うのは、実に何と云う驚くべき愛の奇蹟でございましょうか。

 愛するのは愛される為に愛するのであります。天主様が我々を斯くまで愛し給うたのは、ただ我々に愛されたいと云う思し召しからでした。されば何人(だれ)にしても、天主様が自分を非常に愛して、自分のために態々(わざわざ)、人となり、あらゆる艱難苦労を堪え忍んで御死去あそばしたのだと思いましたならば、自分の方でも、何とかして聊(いささ)かの愛なりとも天主様に証拠立てるべく、努めねばならぬじゃありませんでしょうか。

 天主様が我々と等しい肉を着(つ)け、辛い辛い生活を営み、惨酷(むご)たらしい刑罰にかゝって御死去になったのを見ては、何人(だれ)しも天主様を愛して、愛の火に燃えたゝざるを得ない筈でございましょう。実際御托身後には、多くの人の心に愛の火が熾(さかん)に燃え上がりました。年若い前途有望の身を以て、高い家柄、古い門閥(もんばつ)、時には帝王の貴い身を以て、其の富を顧みず、其の位を振り棄て、其の快楽を抛(なげう)って野山に隠れ、修道者となり、貧しい、辛い不自由な生活をしてまで、主に其の愛を表そうと努めた方々は幾程(どれほど)あるでございましょうか。恐ろしい責め苦の中に其の命を果すのを何よりの幸福(さいわい)と喜ばれた殉教者等は幾程(どれほど)あるでございましょうか。自分の為に人となり、死んで下さった天主様に聊(いささ)かなりとも、その偽りなき愛を表したいと思い、花も盛りの身を持ちながら、浮世の快楽(たのしみ)にすっかり暇を告げて、身も心も潔く主に献げた処女等も幾程(いくほど)あるでございましょうか。

 然し一方から考えると、如何にも悲嘆の情に堪えないところがありませんか。すべての人がそんな心になってくれると結構ですが、なかなか然うは参りません。多くは感謝する所が、かへって恩に報いるに仇を以てして居る。天主様が人となって私の為に死んで下さったよ、と云うことすら思いもしない位であります。

 でも善く善く考えて御覧なさい。イエズス様と雖(いえど)も、是以上に何を何(ど)うすること叶い給うたでしょうか。御父を救はねばならぬと云っても、人間と生まれて己が命を抛棄(なげす)てる以上のことを為し得給うたでしょうか。これほどまで尽くして戴きながら、未だイエズス様を愛しないと云うならば、もう何とも致し方はないじゃございませんか。

(7)-然らば我々はこの待降節中にイエズス様の愛の限りも涯しもないことを想いまして、大いにイエズス様を愛しましょう。イエズス様を愛するならば、イエズス様のお嫌いになることを為てはならぬ。殊にこの待降節には一つの大罪でも犯さないように務めると共に、既に犯した罪は之を痛悔(つうくわい)して赦しを求め,併せてイエズス様のお望みになることは毎日少し宛(づつ)でも行うよう、イエズス様を愛する証拠として、病人はその病を善く耐えへるよう、悲しみに沈める人はその悲しみをよく堪え忍ぶ様、お喋りをしたい人は、日に一口なりとも慎む、御酒を飲みたい人も、之を幾分でも差し控える、予(かね)て懶(なま) け勝ちの人は、せっせと立ち働いて、その労働の辛さをイエズス様に献げる、その他、熱心に祈る、平生よりも屡ミサを拝聴する、平生(へいぜい)よりも屡 (しばしば)聖体も拝領すると云う様にして、少しなりともイエズス様を愛すると云う赤心(まごころ)を表さなければなりません。

 或る修道士が御降誕の夜、馬に乗りて深山の中を通過していると、オギャオギャと云う赤ン坊の啼き声が聞こえました。この夜中に何うしたのだろうと思い、声を辿って行って見ると、生まれたばかりの赤ン坊が雪の中に棄てられて、寒さに?(ふる)へて泣いているではありませんか。可哀相にと思い、馬から下りて赤ン坊の傍(そば)に立ち寄り、「マア可哀相に!誰がお前を雪の中に棄てたのかナ」と独(ひと)言(りご)ちますと、不思議にも、その赤ン坊が口を利いて、「何うして泣かずに居られますか、誰からも彼からも見棄てられて、一人でも私を引き受けてくれる人もなければ、可哀相にと思ってくれる人さへないのですもの」といって、フッと消え失せました。其の赤ン坊こそイエズス様であったのです。自分は人間の為に馬屋にまで生まれたのに、人間は一向自分を愛してくれない、思ってもくれない、寒さに凍えようと、啼(な)きに啼(な)いて居ようと、同情すら寄せてくれない、忘恩(おんしらず)も亦(また)甚だしい、と云うことをお諭(さと)し下さったのじゃありませんでしたろうか。


(二) 無限に大なるものが最(い)と小(ちいさ)きものとなり給へり

「嬰児(おさなご)我等の為に生まれたり、
一人の児我等に与えられたり」(イザヤ九ノ六)

(1)-「愛は愛を引く」とプラトンはいいました。磁石が鉄を引くが如く、愛は必ず愛を引くものである。愛されたいと想わば、先ず自ら愛せねばならぬ。人の心を確かに自分の方へ引き附けて、愛せずに居れなくなすには、先ず自ら其の人を愛して、之に自分の愛情を表すのが一番の捷徑(ちかみち)であると云うことは、洋の東西を問わず、時の古今を論ぜず、誰あって否定すること出来ない真理であります。然るにただイエズス様に対してのみそれが行われて居ない。人は誰にでも恩を受けては恩を報い、愛されては愛して返しているが、独りイエズス様に対してのみ除外例を設けている。イエズス様は人を愛して、之に己が偽りなき愛情を表すがために、殆んどその限りなき御力、窮りなき御智(おんちえ)を絞り尽し給うた程であるのに果たして幾何(いくばく)の人がイエズス様を愛して居ますか。ただに愛しないのみならず。愛したいと云う心にすらなり得ない、却って之に背いて居る、却って之を侮(あなど)って居る、却って之を辱(はずかし)めているのであります。せめて我々なりとも、こう云う忘恩者の列に加わりたくないものである。イエズス様は慈愛深く、親切な、愛すべき天主様、測ることも、極めることも出来ないと云うほど大きな天主様にて在(ましま)しながら、我々に愛されたいばかりに、小さな赤ン坊とさえなって下さったじゃありませんか。

(2)-天主様が人を愛して人にお生まれ下さった、而(しか)も小さな赤ン坊にお生まれ下さったとは、何と云う驚くべき愛でございましょうか。それを悟るが為には、先づ天主様の偉大さ、その測り知れぬ偉大さを考えて見なければならぬ・・・然し人間にせよ、天使にせよ、天主様の偉大さを悟ることが出来ますでしょうか。天主様が天よりも広い、地上のすべての帝王よりも大きい、すべての天使聖人等よりも勝れさせ給うと云うのは、それこそ我々人間が、一本の草よりも、一匹の蚊よりも大きいと云うのも同様で、むしろ失礼に亘(わた)る言葉ではないでしょうか。どんなに大きなもの。長いもの、広い、深いものでも、天主様の大きさに比べては、限りもなく小さい、有っても無きが如きものではありますまいか。

 ダウイドは天主様の広大なることを想って見たが、とても測り知ること能(あた)はずと悟りまして、「主よ、誰が主に比ぶべき者あらん」(詩篇三四ノ十)と言い、「主は大にて在(ましま)せば最も讃(ほ)むべき哉(かな)、その大なることは限りなし」(詩篇一四四ノ三)と言って居ます。天主様も亦ユデア人に仰せられました。「我は天にも地にも充(み)つるにあらずや」(エレミア二三ノ二四)と。この広大無辺の天主様に比べると、我々人間は何でしょう。地上のすべての人、すべての帝王、天上のすべての聖人、すべての天使を一つに集めても、之を天主様の限りなき大きさに比べたら何でしょう?それこそ一本の塵 (ちり)を全世界に比べたよりも、まだまだ限りなく小さいものではありませんでしょうか。イザヤ預言者がいって居る如く「天主様に比べては諸々の民も壜 (びん)の縁(ふち)にかかれる一雫(しずく)の水・・・すべての島々は小さな埃(ほこり)の如く、諸国民もその御前(みまえ)には無きに等しい」(イザヤ四〇ノ一五)のであります。然るに是れほど大きな天主様が小さな赤ン坊となってお生まれになった。それも誰の為かと言へば、我々の為である。我々を大ならしめんが為め、自ら小さくなられた。我々の縛られて居る罪悪の綱を解かんが為め、自ら布片(ぬのぎれ)に巻かれなさった。我々を天に昇らせるが為め、自ら地上にお降りになったのであります。斯くて無量無辺の天主様が嬰児(おさなご)となられました。天地も容れ能(あた)はぬ御者(おんもの)が粗末な布片 (ぬのぎれ)に包まれ、狭い、あらくれた馬槽(うまぶね)の中に、少しの藁屑の上に寝かされなさいました。万事を叶はせ給う天主様が、身動きすら出来ない程に弱々しくなられました。無限の智(ちえ)を備えさせ給う天主様が,物すら云えない赤ン坊となられました。天地を治め司(つかさど)り給う御身を持ち乍ら、人の腕に抱えられる身の上となられました。

 すべての人、すべての禽獣(とりけもの)を養い給う御身にて在(ましま)しながら、少しの乳を以て養われ給はねばならぬ様になり、悲しむものゝ慰め、天国の喜悦(よろこび)にて在(ましま)しながら、泣いて人の慰めを受けねばならぬような浅間しい人間となられたのであります。

(3)-人に成り給うにしても、アダムの如く初めから強い健(すこ)やかな大人となってお降りになることも出来たのであります。すれに何故小さな嬰児(おさなご) にお生まれなさったかと云へば、人に愛されんが為でした。御存じの通り、嬰児(おさなご)と云うものは可愛らしいものであります。その福よかで、無邪気な顔を一目見たものなら、何人(だれ)だって愛せずには居られません。況(ま)して神の御子で、「人の子等に優りて美しく在(ましま)し給う」(詩篇四四ノ三)と預言者より歌われ給うその幼な姿、それこそ如何に美しくも可愛らしく見えさせ給うたでございましょうか。されば天主様が「己を無きもの」(フイリツボ二ノ四)として現世(このよ)にお降りになったのは、人を救わんが為、又、人に愛されんが為である。その人となり、嬰児(おさなご)と生まれ、下へ下へと降り給うた丈(だ)け、その御憐(おんあわれ)れみはますます明らかに、その御慈愛(おんいつくしみ)はいよいよ著しく顕(あら)われて来たのである。その愛らしい御顔を一見したばかりで、何うしても愛せずに居られなくなって来たのであります。天主様の光眩(まばゆ)き御威光を仰ぎ視ると、何人(だれ) しも恐れ慄(おのの)かざるを得ない。けれども斯う云う愛らしい幼姿を眺めては、如何(どんな)に荒くれた人でも、自づと心が和(やわら)いで来る。岩の如く、頑(かたく)な心でも、彼の美しい御顔を見たばかりで、何時しか溶けて流れずに居られません。実際あの御顔には恐ろしいと云う所が一つでもありますか。ただ美しい所ばかり、愛らしい所ばかりではありませんか。若しイエズス様の現世(このよ)にお降りになった目的が、人に恐れられる、敬われると云うに在(あ)ったならば、元気の張りちぎれんばかりの頑強な躰(からだ)に、王者の威光を輝かしてお出になったに相違ありません。が実は然うではなく、ただ我々の心を引き付けたい、我々に愛されたいと云うのが目的でしたから、可愛い嬰児(おさなご)となってお生まれになりました。誰でも遠慮なく近づかれる為、極く貧困な賎しい嬰児(おさなご)となり、冷たい洞穴(ほらあな)に生まれ、藁の上に寝かされ、寒い風に吹き曝(さら)され、少しの布片(ぬのぎれ)に包まれて、わなわな慄(ふる)ひ上がって居られるのであります。あゝ実に何物がこの御子を、光輝ける天の玉座より、この汚い馬屋に天降らしたのでしょう。我々に対し給う愛ではなかったでしょうか。誰が御父の懐より引き離して、この賎しい馬槽(うまぶね)に伏(ふ)さし申したのでしょう。天の上に統御(しはい)し給う王様を、誰がこの藁の上に伏(ふ)さし申したのでしょう。天使等の中に楽しみ給う御方を、誰が牛馬の仲間に入れ奉ったのでしょう。愛ではありませんか。セラヒンを火の如く燃やし給う神にて在(ましま)しながら、寒さに慄(ふる)へて居られます。天地を支え給う御身にて在(ましま)しながら、人の腕に抱(かか)えられねば動かれない程になられました。生きとし生けるものを養い給う御身が、僅かの乳を以て養はれねばならぬ、天使聖人等の福栄(さいわい)と仰がれ給う御身が、よゝと泣いていらっしゃるのです。誰がこゝに至たらしめ奉ったのでしょう。愛ではありませんか。我々に愛されたいと云う心が、斯くまで主を哀れな境遇に生まれさせ奉ったのじゃありませんか。されば皆さん、この愛すべき御子を誰が愛せずに居られましょう。大なる天主様、限りなく讃 (ほ)められ給うべき天主様が、限りなく愛され給うべき天主様となられました。初めもなく終わりもなく在(ましま)して、其の大きさは極まりなしですから、限りなく讃(ほ)められ、尊ばれ、敬われ給うべきでありますのに、今は斯う云う嬰児(おさなご)となり、身動きもなし得ない、物を言い得ない、寒さに慄(ふる)へ、泣きに泣いて、人に抱かれたい、懐に入れて温められたい、慰められたい、あやされたいとお求めになるのを見ては、何人(だれ)が之を愛せずに居られましょう、「小さな天主様、限りなく愛すべき天主様よ」、と何人(だれ)が叫ばずに居られますでしょうか。

(4)- 「牛は牛連れ、馬は馬連れ」とよく云ったもので、幼児(おさなご)は幼児(おさなご)と遊びたがるものです。さればこの嬰児(おさなご)の御気に入りたいと思わば、自分も嬰児(おさなご)とならねばなりません。

 嬰児(おさなご)は腕に抱(かか)えられ、懐に入れられたがるものですから、我々も愛の胸を拡げて、御子を茲に抱き上げましょう。イエズス様はどんなに我々をお愛し下さいましたか、我々を捜(たづ)ねて、わざわざ天からお降りになったのじゃありませんか。その御泣き声は我々を捜し給う御声でありませんか。「抱いて下さい、温めて下さい、愛の熱を以て温めて下さい」、と願い給う御声ではありませんか。犬に魚の骨を投げ与えて御覧なさい。連(しき)りに尾を振って感謝の意を表しませんか。どれほど喜んで我々の命に従い、何処までも附いて来ますか。それに我々ばかり、何(ど)うして忘恩者(おんしらず)となられますでしょう。

 天主様は御身を残らずお与え下さいました。我々を救わんが為、天からこの涙の谷にお降りになりました。我々に愛されんが為、嬰児(おさなご)とまでお成り下さったじゃありませんか。皆さん、愛しましょう大いにイエズス様を愛しましょう。イエズス様を愛して、イエズス様を受け奉るだけの準備を急ぎましょう。

 昔ローマにカタリナと云う不品行な婦(おんな)が居ました。ロザリオに関する聖ドミニコの説教を聴き自分も聖人よりロザリオを受けて之を爪繰(つまぐ) りながら、従来の不品行は一向改めようともしません。そうして居る中にイエズス様のお顕(あら)われを忝(かたじけな)うしました。最初お顕(あら)われになった時は青年の姿でしたが、後では可愛らしい幼児(おさなご)となり、しかも頭には茨の冠を戴き、肩には十字架を担(にな)い、両眼よりははらはらと涙を溢(こぼ)し、全身血塗(ちまみ)れとなられて居ます。そしてカタリナに向かい、「もう沢山よ、カタリナさん、罪を犯しては可(い)けません。もう沢山よ。私を苦しめるのは止(よ)して下さい。御覧なさい、私は貴方の為にどんな豪(えら)い目を見たのですか。実際私は貴方の為に幼い時から苦しんで、死ぬまでも止(や)みなしに苦しんだのですよ」と宣(のたま)うた。カタリナはそれを見、それを聞いて、すっかり改心し、聖ドミニコの所へ馳(は)せゆいて告白をなし、その御指導を乞い、財産を残らず貧民に分配し、自分は独り薄汚い小屋に引籠もりて苦行をなし、聖人でも感嘆されるほど沢山の聖寵を主に蒙り、死ぬ時には聖母マリアの御訪問を受け、安らかに最後の目を瞑(ねむ)ったと云うことであります。

 我々も是までは幼きイエズス様を心より愛せず、屡(しばしば)罪を犯して、その御心を悲しませ、その御身を苦しめ奉ったにせよ、本年よりは全く心を改め、一心に主を愛し、その御誡(おんいまし)めを固く守り、罪とはふっつり手を切って、新しい生活に入り、幼きイエズスの御心を慰め奉るべく務めようではございませんか。