マニラのeそよ風

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第370号 2006/11/22 聖チェチリアの祝日

聖チェチリアと天使
聖チェチリアと天使 (1610) / カルロ・サラチェーニ

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?

 昨日は、聖母マリア様がエルサレムの神殿に奉献されたということの祝日でした。

 私たちも聖母マリア様のように、全て、身も心も天主に奉献されなければなりません。何故なら、私たちは主に創られたものだからです。天主は、創造の主であるからです。

 Quis ut Deus? 誰が天主と如くものあるぞ? Mi cha el? 天主ご自身がそのモーゼにその答えをされました。脱出の書の9章14節には、全地に置いて私のようなものは誰もない」とあります。イザヤの預言の43章にもこの言葉は繰り返されます。「私だけが主である!」と。

 イザヤ46章には「覚えよ、私が主であることを。私以外に天主がないことを。私のようなものは他にないことを。」と天主が語られます。Tu solus Dominus, Tu solus altissimus! 天主のみがありてあるもの、ご自分でまします方。その他は、天主によってあるものにすぎません。

 それと同時に、聖書には「私はいと高き者のようになろう!私は天に上がり、天主の星々の上に私の玉座を高揚しよう!」(イザヤ14章)と叫んだルチフェルの叫びが書かれています。ルチフェルは、天主に対して反乱し、革命の旗を最初に振りかざしたのでした。

 大聖グレゴリオは「サタンは最高の天使的霊であり、彼が全ての天使達の大軍の上に立つように創られた」(Mor. IV, 13)と言います。聖イエロニモは「サタンは自分の支配下に、天使達の9つの階級があり、それは忠実であった天使達と、堕天使立ち全てを含み、その上に立っていた」と言います。ルチフェルは、いわば天主の代理者、総代天使、いわば地上の教皇様に対応する天上の最高指導者だったのです。ルチフェル、即ち、光を運ぶもの、天界の星々の中で最も輝くあかつきの星、特別な恵みと才能と賜物を存分に受けた存在でした。だからこそ、多くの天使達を巻き込み道連れにするだけの影響力を及ぼすことができたのでした。ルチフェルは、自分に与えられたものが絶大であったために傲慢になってしまったのでした。全く自由に天主に対して反逆することを選んだのでした。罪ない状態で創られ、自分のやり方で天主の如くなることを望み、天主に対して「No!」を突きつけたのでした。私たちの主イエズス・キリストは、ルチフェルの首位権を証言して「サタンと彼の天使達」(マテオ25:24)といいます。

 ルチフェルは、全人類を自分の革命に巻き込もうとしました。エワとアダムとが「天主のごとくになるだろう」と誘い込んだのでした。エワは、自分のやり方によって天主の如くなることができると思ってしまったのでした。サタンは、草の根からではなくトップからの革命を指導したのでした。サタンは上に立つものを裏切り者に誘うのです。魚は頭から腐る、と言いますが、頭から腐らせようとしたのです。

 サタンは支配するために創られました。しかしサタンは天主に従うことを拒否したのです。自分が天主のように頂点に立たなければならない、そうして当然だ、そうあるべきだ!と思ったのです。

 「地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならない!」(現代世界憲章 12)は、まさにルチフェルの誘いを思い出させます。

 Quis ut Deus? 誰が天主と如くものあるぞ? 大天使聖ミカエルは、ルチフェルよりも更に上にある唯一の権威に訴えたのでした。自分たちの正当な統治者の命令に逆らっても、その上の天主に従順であることこそが、本当の従順だ! とミカエルは叫んだのでした。天主三位一体の栄光と、人間となる御言葉の名誉のため、龍に抵抗したのでした。

 私たちは言いましょう。「全てをキリストにおいて復興させる」こと。イエズス・キリストこそすべてのものの、目に見えるもの、目に見えないもの、全ての頂点に立つし、立たなければならない、それこそが私たちに本当の平和を与える秩序である、と。Non nobis, non nobis, Domine, sed nomini tuo da gloriam! 主よ、我らではなく御身の聖名に栄光が与えられよかし! Tu solus Dominus, Tu solus altissimus, Jesu Christe!

 では、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の死せる信者の記念の日、すなわち十一月二日の(一)「煉獄の霊魂の記念」をどうぞ黙想下さい。


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

十 一 月 二 日

(一) 煉 獄 の 霊 魂 の 記 念

(1)煉獄に苦しめる霊魂の憫(あわれ)むべき状態を思いなさい。彼等は善を尽し、美を尽し給う天主を一時も早く仰ぎ視(み)、心を傾けて尊び愛したいと遣(や)る瀬なき思いに焦がれて居る。彼等は実に遠島せられた罪人が、故郷の天を恋い慕う以上に、真っ暗な牢屋に繋がれて居る囚人が、晴天白日を冀(こいねが)う以上に、最愛の母に別れた孤児(みなしご)が其の母にあこがれる以上に主を懐(おも)い焦がれ、その御国にあこがれて居るのであるが、然し些(すこし)の汚点でも残って居る間は、何うすることも出来ない、苦しんで苦しんで、其の汚点を磨き落すより外はない。猶、彼等は自分の犯した罪、等閑(なおざり)にして顧みなかった過失を悔しがり、良心の鞭に甚(ひど)く責められて居るのであります。終に煉獄には火の苦しみもあると一般に信じられる、その火が如何なる性質のものであるか、如何にして無形の霊魂を苦しめるか、それは明白でありませんが、兎に角、天主の御計(おはか)らいにより、霊魂の汚点を取り去って、之を純の純なるものたらしめる為のものですから、決して生易しいものではないのです。


(2)-我々は煉獄の苦罰を思う毎に、此処に繋がれて居る霊魂に同情の涙を濺(そそ)がずに居られません。彼の霊魂の中には、我々の父母もありましょう、兄弟姉妹もありましょう、我々が手を携えて共に遊び、膝を交えて親しく語り合った朋友や恩人も居ないでしょうか。我々は父母、兄弟、朋友が火に焦げ、水に溺れるのを見たらば、たとえ手足を濡らし、毛髪を焦がしても、時には生命を抛(なげう)ってすら之を救おうとするじゃありませんか。然るに今や彼の霊魂等を救うのは、そんなに六(むず)ケ(か)しいものではない、高く雲井を攀(よ)じ登り、神の御前に出て憐れを請うの必要があるのではない、深く煉獄の底に降り、手足を焦がして彼等を引き上げる必要もあるのではない。時間を多く失い、金銭を多く費やすにもおよびません。貴賎、貧富、老若,男女の別なく、ただ之が為にミサを捧げ、祈祷をなし、苦行や施与(ほどこし)をおこない、贖宥(しょくゆう)を回向(えこう)すればそれで事足るのです、世に是より容易い事がありますでしょうか。抑も祈祷と云うものは「願へ、然らば受けん」と云う主の御約束により、願う所を乞い受ける力を有する、だから我々が「煉獄の霊魂を救い給え」と祈りますならば、天主は御約束に従い、我々の願いを聴き容れ、彼等に御憐れみを垂れ給うのである。「祈願は上(のぼ)り、哀憐は下(くだ)る」と聖アウグスチヌスは曰(い)って居られます。なお我々が朝夕称える祈祷文には、百日とか二百日とかの分(ぶん)贖宥(しょくゆう)を附けてあります。中にも十字架の道行きの如きは一個の全贖宥を施してありますから、煉獄の霊魂を救うには誂(あつらえ)向の勤めである。聖レオナルドは曰いました「十字架の道を辿る時、若し天の光に照らされたならば、一留毎行煉獄の霊魂が多く前に立ち塞がり、手を合わせて、我を憐れみてよ、我を憐れみてよ、せめて吾友汝等は!と叫ぶのを見るであろう」と。

 十字架の道行きにも優って尊く有難いのはミサ聖祭である。ミサは天主の御独子の犠牲とならせ給う御祭であるから、其の功徳には限りがない。随って彼の霊魂等に取ってミサは暗(やみ)を照らす太陽である、萎(しお)れた花を活かす甘露である、焔(ほのお)を消す為の水、牢屋の門を開く鍵、囚人の解放,死者の甦りとも謂(い)うべきものであります。

 苦行や施与(ほどこし)も大したものである。金口聖ヨハネは、「断食はエリアを天に登らせた」と曰い、聖エフレムも、「断食は天に登るの車だ」といいました。我々は屡(しばしば)断食すること出来ない、随ってエリヤの如く火の車を作り得ないが、然し一個の不可思議な天秤を有って居ます。この天秤の右の皿に、我々の苦労、艱難を盛りて重しとなし、左の皿に煉獄の霊魂を置いたら、重しは下がって彼の霊魂は上がります高い天の上までも上がります・・・我々は冬の寒さを感ずる、然しこの寒さは愛を以って之を堪え忍ぶと、以って煉獄に焼かれつつある霊魂を冷やすべき氷ともなります。

 我々は夏の暑さに苦しみます。然しこの暑さは以って煉獄の火を変じて、涼しい風ともなすことが出来ます、我々は時として面倒臭い命令を受け、窮屈な規則に縛られる。然し之を以って煉獄の中に繋がれて居る彼の霊魂等の綱を解いてやることが出来ます。

 往々身に不快を覚え、頭痛を催し、手足は疾(いた)み、躯(からだ)は疲れ果てる。然し是こそ彼の霊魂等を高く天の上にまでも釣り上ぐべき天秤の重しだと云うことを思わば、其の位の病苦や、疼痛が何でしょう。其の他煉獄の霊魂の為にとて憐れな人を恵み、施与をなしますと、その施与を受けた人が助かるばかりでなく、また煉獄の霊魂もそれに由って慰めを得、苦しみを和げられる、誠に以って一挙両得であると謂(い)わなければなりません。


(3)-煉獄の霊魂を救うべく務めると共に、また自分の為にも、その煉獄の苦罰を軽減くする様、心掛けねばなりません。今、煉獄に苦しんで居る霊魂は、たとえ重大な罪を犯したことがあったにせよ、既に痛悔して、その赦しを蒙って居るのである。中には大徳を数々積み,大功を多く重ねた忠臣義子も少なくはない、然るに軽微な罪を犯した為、僅かに償いが残って居る為に、斯くまで厳しく処罰し給う天主の正義を思わば誰か戦慄を禁じ得ますでしょうか。昔から聖人と尊ばれ、義者と崇(あが)められる人々は、常に小心翼々として、小さな罪までも恐れ慎んだものでした。我々も後日天の大宮を飾るダイヤモンドともなりたいと思わば、小罪たりとも平気で犯してはならぬ、犯した程の罪は、なるべく今の中に償う様に心掛け、艱難苦労に出遭(でくわ)した時は、是こそ我が玉を磨き上ぐべき金剛砂だと思い、喜んで堪え忍ばねばならぬ。聖アウグスチヌスの如きは、「此処で焼いて下さい、此処で切って下さい、永遠にさえお赦し下さらば」と祈られました。実際然(そ)うでしょう。後の世で焼かれるよりか、今焼かれたが得じゃありませんか、後の世で られるよりか、今 られたが優(まし)じゃありませんか。だから皆さん後日切歯(はがみ)して泣き叫ぶよりは、むしろ今の中に身を慎み、小罪をも注意する様に務めましょう。やたらにこの体を撫でさすって、後日魂を焼くべき薪を蓄えるよりは、むしろ艱難を忍び、苦行を喜んで、永遠に楽しまれる様にして置きましょう。


(4)-結び ー それは夫(それ)にしても、今日は特に煉獄の霊魂を救うべく務めなければならぬ。親、兄弟、親戚、朋友の嘗(な)めつつある煉獄の苦罰は彼(あ)んなに恐ろしく、之を救い出す道はさして困難ではないのですから、我々は世の多くの人の如く、平気で高所(たかみ)の見物をして居てはならぬ、今よりは熱心を倍して、祈祷をなし、贖宥(しょくゆう)を儲け、艱難を忍び、貧者に施し,殊にミサ聖祭を献げて、彼等を救い出す様に致しましょう。さすれば救い出された霊魂は、亦、必ず我等の恩を忘れず、天国に昇った上は、必ず我々の為に祈り、熱心に伝達をして下さいます、否、聖人等の御説に由ると、早や煉獄に居る中から、自分の恩人の為に祈ることが出来ると云うことであります。「福(さいわい)なる哉(かな)、慈愛ある人、慈悲を得べければなり」、我々は大いに慈悲を蒙らなければならぬ身の上ですから、自分でも力の及ぶ限り、煉獄の霊魂に慈悲を施すべく務めましょう。

(続く)