マニラのeそよ風

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第293号 2005/08/08 証聖者聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネーの祝日

ヨハネ・マリア・ヴィアンネー

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。

 お金は確かに私たちに必要で大切なものです。しかし、私たちの全てがお金のあるなしによって計られるのでは決してありません。現代の日本の社会を不幸にしているのは、実はこれではないでしょうか。全てをお金で計ろうとすること。

 お金が儲かれば何でもしてもよい、お金が儲かる仕事ほど素晴らしい仕事、お金を儲ける人ほど素晴らしい人。だからお金を最大限儲けることが出来るように、私たちは最大限に自由でなければならない。自由に商売をし最大の利益を得る社会がよい社会だ。だから関税や国家など無くなった方がいい、などなど。

 全てがお金で計られるということは、全てが商品化するということです。私たちの持っているもの全てをお金にしようとすることです。私たちの労働が、時間がお金になり、さらには私たちの肉体、良心、誠実ささえもお金に換えようとすることです。すこしのお金のために、自分の子供や家族、祖国をさえ損害を与えて構わない人々もいます。

 私たちの本当の財宝は、お金では計ることが出来ません。私たちにとって最も大切なのは、目に見えないものです。真理への愛、天主への愛、誠実、忠誠、自己犠牲、忍耐、罪の痛悔、悪への嫌悪、天主に基づく隣人愛など。これらはお金で買うことも計ることも出来ません。私たちはこれら全ての善を、天主から戴きました。全ては天主への愛に満ちた従順「仰せのごとく我になれかし」によって計られます。

 愛する兄弟姉妹の皆様、そしてこれから婚姻の秘蹟によって結ばれようと準備をしている兄弟姉妹よ、いつも天主とともに、天主への従順のうちに生きて下さい。

それでは「カトリック家族とその敵について」の続きです。
(5)家族内の権威 をお届けします。ごゆっくりどうぞ。

天主様の祝福が豊かにありますように!

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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カトリック家族とその敵について

----- これから婚姻の秘蹟によって
結ばれようとする兄弟姉妹に -----

(5)家族内の権威

 家庭では夫が家族の長であり、妻の頭である。妻は夫に従い従順でなければならない。しかしそれは下女としてではなく、伴侶としてである。このことは天主の命によって明らかである。「それからおまえは夫の権力の元にあり、夫はおまえを支配するだろう (et sub viri potestate eirs, et ipse dominabitur tui)」(創世3:16)。創世の書によれば、女性は、人間の孤独を解消するため、男性に似合った助け手として、男性から取り出された。従って、創造の順序では女性は男性の次である。女性は男性に従うものであるが、女性は男性を目的として存在するのではない。男性の目的も女性の目的も同じく、永遠の命である。

 現代では「権威」という言葉は暴君のイメージを持たされている。天主が男を家庭においてご自分の代理として立てることを意図されたということは、天主が男を家庭の専制君主として立てたということを意味するのではない。また妻の従順が、奴隷が主人に対する従順や目下の目上への従順、判断力を欠く未成年の成人に対する従順であることを意図したのではない。男の指導は、女から妻、母親、伴侶としての尊厳を取り除くものでは決してない。

 しかし聖アウグスティヌスによると、人間社会は、命令する人々によって奉仕されなければならない、と言っている。

 「家庭内の平和、あるいは、家庭において命令し従順する人々の秩序正しい一致の起源は、これである。他者の世話をする者が命じること、夫が妻に、両親が子供達に、主人がしもべたちに命じること。そして世話を受ける者が従順すること。女が自分の夫に、子供達が自分の両親に、しもべが自分の主人に従うこと、これである。しかし信仰によって生きる擬人の家族は、天の国へと旅する巡礼のようであり、命令する者たちでさえも、命令される人々に奉仕する。何故なら、命じる者は権力を愛するために命じるのではなく、他者にすべき義務感から命じるからである。彼らは権威を自慢するのではなく、憐れみを愛するからである。」(天主の国 19:14)

 夫と妻との関係は、キリストと教会との関係である。夫はキリストを代表し、妻は教会を代表する。「妻よ、主に従うように自分の夫に従え。キリストがその体であり、それを救われた教会の頭であるように、夫は妻の頭である」(エフェゾ5:22-23)。ここからはっきり分かるように、妻の従順は男に対するものではない。妻の従順はキリストに対する従順である。妻は、キリストのために夫に従う。従って、妻はキリストが承認し許すことにおいてのみ夫に従うのは当然である。

 聖パウロの言葉は、家庭の秩序と幸福は、いわゆる「女性解放」と言われているものと互いに相容れないことを意味する。この「解放」が、肉体的解放であろうと、経済的、社会的解放であろうと、どのような意味に取られても、である。

 女性の肉体的解放とは、女性が、妻および母親としての尊厳に伴う重荷から逃れる権利をもつということを意味するが、これはキリスト教が排斥している。

 女性の経済的解放とは、妻が、夫が知らず同意のない全く独立した職業生活を営み、家族の世話を全く顧みない権利を意味するが、このような考えもキリスト教は排斥する。

 女性の社会的解放とは、女性が家庭の義務を無視し、夫と子供との世話をせず、家庭のことよりもむしろ公的なことに身を寄せる権利を意味するが、そのような考えをキリスト教は承認することが出来ない。

 二人の人間が共に生活するとき、一人が指導し、上に立ち、「命令」(とさえ言うことが出来るだろう)しなければならない。この「命令」と従順がない家族は、遅かれ早かれ解消してしまうだろう。

 女性がそのパーソナリティーを表現する自然な場所は家族であり、女性の特別な職務は子供の教育である。女性が家庭から遠く離れて労働することは、修正しなければならない不秩序である。夫の受ける賃金は、母親をして家庭から遠く離れて労働させることのないほどでなければならない。母親が労働しなければならないことは、家庭生活と子供の教育に大きな害があるからである。

 カトリック家族の模範はナザレトの聖家族である。そして聖家族の詳細な全生活が無限の意味を持っている。全能の天主ご自身が、この家族においてその両親に従属する子供であった。天主の御母聖マリアがこの家族の妻であり、夫である聖ヨゼフに従属していた。聖ヨゼフは、聖寵の次元においてはイエズス・キリストと聖母マリアとに劣るものであったにもかかわらず、この両者に対して天主から権威を与えられた。従って、権威とは第一に責任を意味し、優越性とは関係のないものである。権威が圧政や隷属と全く関係のないことは言わずもがなである。

(続く)