マニラのeそよ風

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第284号 2005/06/30 使徒聖パウロの記念

使徒パウロ, St. Paul's Cathedral in Birmingham

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。

 先日、聖ピオ十世会のフランス管区の公式ホームページを見ていて、バイーフ神父様の叙階60周年の記事が載っていました。「バイーフ神父様:60年間の聖伝のミサへの忠実」というタイトルで。バイーフ神父様! 司祭叙階60周年、おめでとうございます!

 今から、はや18年になろうとします。私が天主のお恵みにより、公務員の仕事を退職してフランスのフラヴィニーにある「アルスの聖司祭国際神学校」に入学したのは。

 1987年、天主の恩寵により、私はバイーフ神父様と初めてお目に掛かり、フラヴィニーにいる間は、神父様から霊的指導を受けていました。神父様は、多くの霊魂の救いのため、カトリック教会の栄光のため、叙階以後、聖伝のミサだけを捧げ続けた、優しい穏やかな親切な神父様でした。しかし信仰のために犠牲を惜しまない司祭でした。

 バイーフ神父様がお元気で今でも聖ピオ十世会の神学校で神学生達の指導をなさっておられることを天主に感謝します。このニュースは、カトリック司祭職の玄義をまた黙想させてくれます。カトリック司祭は、私たちの主イエズス・キリストの憐れみと正義の結合のわざでなくでなんでしょうか。

 バイーフ神父様は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した御聖体修道会の修道司祭でした。そこでバイーフ神父様は、私たちにいつも御聖体と密接な一致のうちに生活することを教えて下さいました。

外国語サイト リンク http://www.laportelatine.org/lpl/communic/presse/2005/baillif/
page.php
外国語サイト リンク http://www.laportelatine.org/lpl/i/src/telechar.php?url=communic/
presse/2005/baillif/baillif.pdf

 では、聖伝によるカトリック司祭と第2バチカン公会議の司祭とはどのように違うか、続きを見てみましょう。


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第2バチカン公会議以後の司祭職
『司祭の役務と生活に関する教令』を読む

第1部 原理

[2] 『司祭の役務と生活に関する教令』の2番を読む

[2-1] 司祭の司祭職は、信徒の共通司祭職を出発点とする

 私たちは、序文でこの教令が、司教や信徒の司祭職ではなく、司祭の司祭職のことを語ると明確にしていることを確認しました。しかし、それにもかかわらず、序文が終わるとすぐに司祭の司祭職ではなく、信徒と司祭職、つまり共通司祭職について語り出します。

====引用開始====
 主イエズスにおいて、すべての信者は聖なる王的司祭職となり、イエズス・キリストをとおして神に霊的捧げものを捧げ、・・・告げ知らせる。
====引用終了====

 これによれば、共通司祭職は、キリスト教信者たちのひとつの共通の行動であり、つまりキリストの神秘体を通して霊的捧げものを捧げること、となっています。では、何故この共通の行動は、神秘体という共同体に帰属するのでしょうか?

 ここに複数の人々が集まってひとつのグループで、ひとつの行動を起こそうとしているとします。それが烏合の衆ではなく、何らかの明確なひとつの行動をするためには、彼らをまとめ代表する責任者、(あるいはリーダー、指導者、会長、座長、顧問、キャプテン、など)が必要です。つまり、ある集団あるいは社会が共通の行動をなすには、必ずそれを秩序付ける組織が必要です。従って、キリストの神秘体という共同体において、共通の司祭職の行動がなされるためには、組織、位階秩序、権威構造が必要となります。そこから司祭職における位階秩序が要請されるのです。

 つまり司祭の司祭職が必要であるのは、第一に政治的な必要性からだ、と言うのです。
だからドゥニ神父も同意するのです。「司祭職(le presbyterat)制定の存在理由は、信徒と共通司祭職の内部、言い換えると神秘体の肢体において多様性を持つ一つの体の内部に求められねばならない。」(前掲書 p 209)
 こうして、信徒の共通司祭職を出発点として職位的司祭職を確立させるのです。この結果、司祭とはまず上に立つもの、座長なのです。司祭は、信徒たちとの関わりのうえに成立したものであるが故に、聖変化させるものというよりは、何よりもまず、座長という存在なのです。従って司祭は、いけにえを捧げるもの、といわれるより以前に、第一に「牧者」なのです。

 私たちは『司祭の役務と生活に関する教令』2番を続けて読んでみましょう。

====引用開始====
 司教団に結ばれている司祭の務めは、キリスト自身がその「からだ」を建設し、聖化し、統治する権威に参与するものである。したがって司祭の司祭職は・・・別個の秘蹟によって授与されるものである。
====引用終了====

 ここでも、司祭職は権威の観点から考察され語られています。そのことは「司教団に結ばれている」という語句で明示されています。もちろん、司教との関係において、司祭職を権威の点から考察することは出来ます。しかし、この後に続く言葉は、司祭職をそのものとしてその本質において語ろうとします。そして、司祭職を本質的に、第一の主要な目的として、権威に参与させるものである、と言います。

 この教令の2番には「司祭団の構成員となった司祭たちは・・・司教団の協力者となる」という表現も見いだされます。これは、司祭の司祭職の目的は、御聖体のいけにえを捧げるため、というよりもむしろ司教に協力するため、ということを言おうとしているのでしょうか?

 この「司祭団の構成員となった司祭たちは・・・司教団の協力者となる」という表現から、叙階の秘蹟の役割は、司教の使命・派遣に参与し、その協力者となることを意味するのであるなら、司祭の司祭職は、三重の権能に参与しそれを執行することになります。

 同様に「役務者は信徒の社会において、いけにえをささげ、罪をゆるすために、叙階の聖なる権能を持ち」ともありますが、いったいどんな「いけにえ」のことを語っているのでしょうか? この教令でこの「いけにえ」に言及する前に、一度だけ「いけにえ」のことを述べているところがありますが、そこでは「霊的供え物をささげ」とだけしか述べていません。

 教令は、聖パウロを引用してこう言います。「司祭は・・・神から恩恵を授けられて、諸国民の中でキリスト・イエズスの役務者とな・・・る。」 ここでは、何故、司祭が天主から特別な聖寵を受けるかというと、それはこの「諸国民の中で役務者」となることとされています。そしてこの役務者の第一の職務は、宣教、「福音の聖なる任務に従事」することです。そして最後に教令はこう言って締めくくります。

====引用開始====
 したがって、司祭が役務と生活とにおいて追求する目的は、キリストにおいて、父である神に栄光を帰することである。この栄光はキリストにおいて完成された神のわざを、人々が自覚と自由と感謝をもって受け入れることにある。
====引用終了====

[2-2] 「父が聖化して世に派遣した」主イエズス、という表現

 『司祭の役務と生活に関する教令』2番は、ヨハネの福音を引用してこう始まります。

====引用開始====
 「父が聖化して世に派遣した」(ヨハネ10:36)主イエズスは、自分が受けた霊の塗油に自分の全神秘体を参与させた。すなわち、主イエズスにおいて、すべての信者は聖なる王的司祭職となり、イエズス・キリストを通して神に霊的供え物をささげ、かれらを暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力を告げ知らせる。それゆえ、からだ全体の使命に参与しない構成員は一つもないのであって、・・・

 しかし同じ主は、信者たちが一つのからだに結合するように、信者の中のある人々を役務者に制定した。このからだの中では「すべての構成員が同じ働きをするものではない」(ローマ12:4)。・・・ それゆえ、キリストは自分が父から派遣されたように使徒たちを派遣し、さらにこの使徒たちを通して、かれらの後継者である司教たちを自分の聖別と使命とに参与させた。
====引用終了====

「『父が聖化して世に派遣した』主イエズスは・・・」 何故この引用がここでなされているのでしょうか? この引用は何を意味するのでしょうか?

 『教会憲章』28番も、やはりこの引用で同じように始まっていますが、無関係なのでしょうか? 「父が聖化し世に派遣したキリストは・・・」

 この引用には重大な意味があると考えられます。それは次の通りです。

[a] キリストは、ご自分が受け給うた塗油に、キリストの神秘体を参与させる。
[b] この塗油は、司祭職に関わる。
[c] 従って、キリストの神秘体はキリストの司祭職に参与する。
[d] キリストの司祭職は、世における宣教・派遣である。
[e] 従って、信者の司祭職は、宣教・派遣である。
[f] 信者の司祭職は、秩序付けられ組織だっていなければならない。
[g] 信者の司祭職は、職位的司祭職を必要とする。
[h] 従って、司祭の司祭職の存在理由は、キリストの神秘体の宣教・派遣にある。

 説明します。

[a] キリストは、ご自分が受け給うた塗油に、キリストの神秘体を参与させる。
(「主イエズスは、自分が受けた霊の塗油に自分の全神秘体を参与させた。」)

[b] この塗油は、司祭職に関わる。
(「すなわち、主イエズスにおいて、すべての信者は聖なる王的司祭職となり」)

[c] 従って、キリストの神秘体はキリストの司祭職に参与する。

[d] キリストの司祭職は、世における宣教・派遣である。
(主イエズスは、・・・霊の塗油に自分の全神秘体を参与させた。すなわち、主イエズスにおいて、すべての信者は聖なる王的司祭職となり・・・それゆえ、からだ全体の使命に参与しない構成員は一つもないのであって、・・・それゆえ、キリストは自分が父から派遣されたように使徒たちを派遣し、さらにこの使徒たちを通して、かれらの後継者である司教たちを自分の聖別と使命とに参与させた。」)
 (これについては、『教会憲章』にも、何度も語られています。『教会憲章』18「永遠の牧者であるイエズス・キリストは、自分が父から派遣されたように(ヨハネ:20・21参照)使徒たちを派遣して、聖なる教会を建てた。キリストはこの使徒の後継者すなわち司教たちが、自分の教会の中で世の終わりまで牧者であることを望んだ。」
 『教会憲章』19「主イエズスは父に祈った後、自分が望んだ人たちを自分のもとに招き、自分の伴侶とするため、また神の国の宣教に送るために、十二人を任命した(マルコ:3・13~19、マテオ:10・1~42参照)。・・・主はかれらをまずイスラエルの子らへ、次にあらゆる民族へ派遣した(ローマ:1・16参照)。それは、かれらが主の権能にあずかって、すべての民を主の弟子とし、またその人々を聖化し、治め(マテオ:28・16~20、マルコ:16・15、ルカ: 24・45~48、ヨハネ:20・21~23参照)、そのようにして、全教会を広め、それを主の導きのもとに、世の終わりまで日々絶えず牧し続けてゆくためであった(マテオ:28・20参照)。」
 『教会憲章』24「司教は使徒の後継者として、すべての人が信仰と洗礼とおきての遵守を通して救いに達するように、天上と地上のすべての権能を受けた主から、あらゆる国民に教え全被造物に福音を宣教する使命を受けた(マテオ:28・18、マルコ:16・15~16、使徒 26・17参照)。この使命を果たすために、主キリストは使徒たちに聖霊を約束し、ペンテコステの日、聖霊を天から派遣した。それは使徒が、聖霊の力により、地の果てまで、諸国民と諸民族と王たちの前で、主の証人となるためであった(使徒 1・8、2・1以下、9・15参照)。主が自分の民の牧者たちにゆだねら任務は真の奉仕であって、それは聖書の中で意味深く「ディアコニア」すなわち奉仕と呼ばれている(使徒 1・17、25、21・19、ローマ:11・13、1ティモテオ 1・12参照)。」

[f] 信者の司祭職は、秩序付けられ組織だっていなければならない。
(「しかし同じ主は、信者たちが一つのからだに結合するように、信者の中のある人々を役務者に制定した。このからだの中では「すべての構成員が同じ働きをするものではない」(ローマ12:4)。)

[g] 従って、信者の司祭職は、職位的司祭職を必要とする。

[h] 従って、司祭の司祭職の存在理由は、キリストの神秘体の宣教・派遣にある。
 『司祭の役務と生活に関する教令』の第1章の題は、草案では "Presbyteratus in missione Ecclesiae" 「教会の使命における司祭職」ではなく、"De Presbyterorum Ministerio"「司祭たちの役務について」でした。つまり、絶対的に端的な意味で司祭たちの役務は、すなわち、宣教・派遣(missio)である、と言おうとしているのです。


「司祭の司祭職は、人々に奉仕するためにある」

 言い換えると、『司祭の役務と生活に関する教令』によれば、司祭と信徒との違いは、ミサ聖祭でキリストの御聖体を聖変化させるか否かではなく、権威にある、ということです。その時、司祭の司祭職は、奉仕になります。その時、司祭の司祭職は、共通の行為を司る座長の役割を担うことになります。

 ヨハネ・パウロ2世も回勅『女性の尊厳について De dignitate mulieris』において、「職位的司祭職は本性によって奉仕である」と言っています。『教会憲章』も同様にそう言います。(「24 主が自分の民の牧者たちにゆだねら任務は真の奉仕であって、それは聖書の中で意味深く「ディアコニア」すなわち奉仕と呼ばれている(使徒 1・17、25、21・19、ローマ:11・13、1ティモテオ 1・12参照)。」「28 叙階と役職の理由で、すべての司祭は教区司祭も修道司祭も司教団に結ばれ、自分の召命と恩恵に従って全教会のために奉仕するのである。」「29 聖職位階の下位の段階に助祭があり、「司祭職のためではなく、奉仕のために」按手を受ける。助祭は秘義の恩恵に強められて、司教およびその司祭団との交わりの中で、典礼とことばと愛の奉仕において神の民に仕える。・・・助祭は愛と管理の務めに専念し、聖ポリュカルポスの次の勧告を忘れてはならない。「すべての人の奉仕者となった主のまことの教えに従って歩み、あわれみ深く、熱心であれ」。)

 1992年に発行された『カトリック教会のカテキズム』にもこの教えが深く染み込んでいます。

====引用開始====
「1591 教会全体が祭司的な民です。洗礼により、すべての信者はキリストの祭司職にあずかります。この参与は「信者の共通祭司職」と呼ばれます。この基礎に立ち、これに奉仕するため、キリストの使命に参与するもう一つの祭司職があります。すなわち、叙階の秘跡によって与えられる奉仕職です。その任務は共同体の中で頭であるキリストの名において、またその代理者として仕えることです。 」

「1592 役務としての祭司職は、信者の共通祭司職とは本質的に異なります。それは、信者に奉仕するための聖なる権能を与えるものだからです。叙階された役務者は、教えること(教職)、祭儀をつかざどること(祭職)、司牧すること(牧職)を通して神の民に仕えます。 」
====引用終了====

 ここでも「信者の共通祭司職」を基礎に、「信者の共通祭司職」に奉仕するために「叙階の秘跡によって与えられる奉仕職」が存在すること、「叙階の秘跡によって与えられる奉仕職」は、「信者に奉仕するための聖なる権能を与えるもの」であり、その直接の奉仕の対象として「神の民に仕えます」と言われています。

 そこでは「叙階の秘跡によって与えられる奉仕職」つまり「役務としての祭司職」は、「頭であるキリスト」という観点においてキリストに参与します。つまり権威と統治という観点において、与ると言うことです。つまり『カトリック教会のカテキズム』において叙階の秘蹟は、"教会に対してキリストが主である" ということに参与させる、秘蹟であると描写されています。

 ドゥニ神父もこれに同意します。「テキストをそのまま読めば、位階的役務はキリストの教会に対してキリストの主であること(頭であるキリストの権威は神秘体の聖寵のため)の秘蹟化であると言うことが出来る」(前掲書 p 216)と。


 では、「司祭の司祭職の存在理由は、キリストの神秘体の宣教・派遣にある」と言うとき、また「司祭たちの役務は、すなわち、宣教・派遣(missio)である」と言うとき、この「宣教・派遣(missio)」とは何を意味するのでしょうか? テキストをもう一度読んでみます。

 「司教団に結ばれている司祭の務めは、キリスト自身がその「からだ」を建設し、聖化し、統治する権威に参与するものである。」
 さらに「司祭団の構成員となった司祭たちは、キリストから託された使徒的使命を正しく果たすために、司教団の協力者となる。」と言われています。

 ここでまずキリストの権威とは「『からだ』を建設し、聖化し、統治する権威」のことですし、キリストの「使徒的使命」も同様です。この「使命」を遂行するために「権威」あるのですから、「使命」を受けることは、「権威」を受けると同様のことであって当然といえましょう。従って、このとき、キリストの権威とキリストの使命とは同一のものと言えるのではないでしょうか。

 従って、論理的結論として、司祭たちは、叙階の秘蹟を受けることによって、御聖体に対するというよりも、むしろ第一に教会の世話と奉仕のために権威を受け、使命を受けるのです。つまり叙階の秘蹟の役割は、何よりもまず主要な目的として、教会の世話という司教の使命の協力者を作ることにあるのです。

 だから「司祭団の構成員となった司祭たちは、キリストから託された使徒的使命を正しく果たすために、司教団の協力者となる」と言われているのです。

 だから「この秘蹟は、聖霊の塗油によって特別な霊印を司祭にしるし、こうして、司祭は「かしら」であるキリストの代理者として行動できるように」するとも言われているからです。

 だから、叙階の秘蹟はまず第一に、「神の民のために、神の民への奉仕のために」秩序付けられ、方向付けられているのです。

 だから司祭は、御聖体のためというよりも、第一の主要な目的として神の民のために叙階され、それのために存在するのです。


 以上のことを見たうえで、私たちは「父が聖化して世に派遣した」というヨハネの引用文に立ち戻ってみます。ここで、イエズス・キリストの司祭職、信徒の司祭職、司教の司祭職、司祭の司祭職の類比が見られるのではないでしょうか?


【イエズス・キリストの司祭職】

 私たちの主イエズス・キリストは、(1) 聖父によって聖化され、(2) この世に派遣された。

【信徒の司祭職】

 信徒は、(1) キリストの聖別に参与し、(2) キリストの使命・派遣に与る。
(「主イエズスは、・・・(1) 霊の塗油に自分の全神秘体を参与させた。」そして「(2) からだ全体の使命に参与しない構成員は一つもない」

【司教の司祭職】

 「キリストは・・・使徒たちを通して、かれらの後継者である司教たちを自分の (1) 聖別と (2) 使命とに参与させた。」

【司祭の司祭職】

 司祭は、(1) 司教団に参与し、(2) その使命に与る。
(「司祭団の構成員となった司祭たちは、(2) キリストから託された使徒的使命を正しく果たすために、(1) 司教団の協力者となる。」)


 私たちは、今、『司祭の役務と生活に関する教令』の12番を引用して、この教令の2番の考察を終えることにします。

====引用開始====
 司祭は叙階の秘蹟によって司祭であるキリストの姿に似た者となり、キリストのからだ全体である教会を建設するために、司教団の協力者として、かしらであるキリストの役務者となる。
====引用終了====

 この一文は、私たちの考察が正しかったことを雄弁に物語っています。『司祭の役務と生活に関する教令』にとって、司祭の第一の直接の目的は、共通善への奉仕に他なりません。その時、ミサ聖祭は、司祭職の第一の直接の目的ではなく、目的のための手段、共通善への奉仕のための単なる手段に過ぎなくなるのです。

(続く)


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 至聖なるイエズスの聖心は、賛美せられさせ給え!
 イエズスの至聖なる聖心よ、我らを憐れみ給え!

 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖母の汚れ無き御心よ、我らを憐れみ給え!

 使徒聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
 聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!
 アルスの聖司祭、我らのために祈り給え!

 日本の尊き殉教者たちよ、我らのために祈り給え!
 天のすべての天使、聖人達よ、我らのために祈り給え!

 天主様の祝福が兄弟姉妹の皆様に豊かにありますように!


 文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)