マニラのeそよ風

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第277号 2005/05/10 証聖者聖アントニノの祝日

聖アントニノと聖ビンセント・フェレル
聖アントニノと聖ビンセント・フェレル

アヴェ・マリア!
 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。
 今回は、「自身の良心に従う」とは? ということについてのご質問にお答えしたいと思います。

■ 【問題提起】

 ニュースによると、米国人のカトリック信徒のおよそ74%が、難しい道徳的な問題については、新しいローマ教皇ベネディクト16世の教えより「自分自身の良心に従う」と考えていることが、CNNとUSAトゥデー、ギャラップ社の共同世論調査で明らかになったそうである。「教えに従う」との回答は20%にとどまったそうだ。

http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200504210012.html

米カトリック教徒の4分の3、「自身の良心に従う」

2005.04.21 Web posted at: 20:39 JST - CNN

ジョージア州アトランタ(CNN) 米国人のカトリック教徒のおよそ74%が、難しい道徳的な問題については、新ローマ法王「ベネディクト16世」の教えより「自分自身の良心に従う」と考えていることが、CNNとUSAトゥデー、ギャラップ社の共同世論調査で明らかになった。「教えに従う」との回答は20%にとどまった。

新法王に対する見方を巡って、「意見をまとめるほど十分に新法王のことを知らない」と60%が答えた。「好ましい」は31%で、「好ましくない」は9%。

約半数の48%の人は、新法王がカトリック教会をどんな方向に導くかはっきりしないと感じており。39%は「正しい方向」と感じているのに対し、「間違った方向」と感じている人も13%いた。

新法王の中絶を認めない姿勢に56%が「困惑した」と答えた。

また、米カトリック教会聖職者による少年への性的虐待問題について、65%は解決を期待できるとしたが、26%はそれほど期待できない。とした

調査は新ローマ法王選出の数時間後、616人に対して行われた。

 これについて、カトリックとしてどう考えるべきか?

 ニューマン枢機卿も言ったように、 "To my conscience first, and then to the Pope" (まず私の良心に、次に教皇に)と私たちも言うことができるのではないか。「自分の良心に従う」ということ自体は非難されるべきではない、と思われる。


■ お答えします

ご質問をありがとうございました。お答えしたいと思います。


「良心に従う」という言葉の意味

 私たちはまず「自分の良心に従う」という言葉の意味を確認しなければなりません。何故なら、「自分の良心に従う」と言うことの自体の意味の理解が互いに違っているなら、それについて何を述べても無駄になるからです。

 (1)アメリカでの世論調査においては、一方で「教会の教え」の代表として、つまりキリストの教えと意志を代表する者として、「ベネディクト16世の教え」があり、他方で「教会の教え」に対立するものとして「自分の主観的な判断」(いわゆる「自分の良心」)に従う、つまり「主観的な自分の判断通りにする」という意味があります。

 (2)「自分の良心に従う」という意味が、「客観的に正しく形成された良心に従う」という意味にもとれます。「客観的に正しく形成された」とは、天主の十戒、自然法などを客観的に、正しく受け入れ、それに従って善悪を判断するように養成を受けた、という意味です。例えば明らかに罪であることを上司から命令されたが、私は天主の十戒と公教会の教えに従って行動した、という場合です。


 もしも「自分の良心」という言葉で(1)のような「自分の主観的な判断」が意味されているのなら、そして「客観的な教導職」よりも「自分の主観的な判断に従う」というのなら「カトリック信徒」というのは名前だけでその実体は「カトリック」でも何でもないことを意味します。

 何故なら、カトリック信仰とは、宗教生活における個人主義、主観主義の正反対だからです。


カトリック信仰と客観的で有機的な組織の権威

 カトリック信仰とは、人間が勝手気ままに「自分は救われた」と思いこむ主観主義ではありません。聖霊降臨運動などが主張するように、「キリスト(あるいは聖霊)と私たちとの関係は、個別的で、不可視的な関係に限られる」のではありません。私たちの信仰の本質は、天主から奇跡の力を受けたり、予言をしたり、幻視をしたりすることにあるのではありません。

 現代人はこう言うかもしれません。「私たちの一人一人の霊魂は、単独に、直接的に、天主から(あるいはキリストから)救われ、宗教的存在としての人間は、政治的存在としての人間とは全く異なり、宗教は純粋に、主観的な私事である。宗教は本質的に社会性を有さない。宗教信者は孤立の存在だ。私だけがキリストと結ばれている、という確信で満足すべきだ。天主は私に直接に啓示を垂れ給う。」  しかし以上のような主張はカトリック信仰ではありません。

 カトリック信仰は、キリストと私たちとの関係が、全人類を有機的に、位階的に団結する可視的、世界的、時空を超えた教会を、この地上の時空の間に発現すると主張します。
 純粋の霊である永遠の天主は、時において社会生活をおくる人間となり、可視的に地上にご自分の姿を現し、分立する主観の対抗を超える、客観的な、相互に有機的に結合される教会をつくりました。私たちの救いは、単に個人の心の中だけの私事ではなく、私たちが参与すべき公事、公然たる客観的権威によるものとされたのです。私たちのすくいは、主観的評価や嗜好の問題ではなく、一般的な人間性に基づく、客観的な価値に基づくものです。私たちのカトリック信仰は、単なる自発的な態度、あるいは感情ではないのです。私たちの聖性は、「神秘的な体験」にあるのではありません。


 従って、私たちは、天主に感謝します。何故なら、私たちカトリックにおいては、「宗教故に人間が孤立し、浅薄な独りよがりに陥る」という危険から救われたからです。御托身の玄義は、教会の玄義によって継続し、私たちに健全な霊的向上の道を教えてくれるからです。かつて、主がその肉体をもってなさったことを、主は今に至るまで目に見えるカトリック教会をもって継続され給うからです。

 私たちは、天主が本当の人間となったことを信じ、主の創ったカトリック教会を信じます。もし私たちが主の御制定を無視して、私たちの目の前に厳然と存在するカトリック教会の存在を承認せず、自分の欲するところに従って、天主の姿を創り出したら、私たちは偶像崇拝者になってしまいます。私たちカトリック信仰にとって、「個人主義」「主観主義」「自我中心主義」「私だけの信仰」などとは相容れないものだからです。

 カトリック信仰とは、現実主義、客観主義です。そして信仰とは「私は救われた」という信頼ではなく、真理という知的内容を有するものであるが故に、教導職・教導権を肯定するのです。問題は「私」ではなく、「カトリック教会の不可謬の教え」なのです。「私」などは、ある意味でどうでもいいのです。私たちカトリック信者は自分の意見や好みについて議論をしているのではないからです。そうではなく、カトリック教会が、誤り得ない天主の権威を持って教えてきた教えを信じ、天主の権威故にその前に跪くだけなのですから。


弱い人間性をおびた教導権

 私たちがカトリック信徒であるのは、教会がまとっている不完全な人間的な衣装の裏にキリストを認めたからです。私たちが教皇様の前に跪き、教皇様の教えに従うのは、教導権がキリストの御旨を代表する限りにおいてなのです。教導権を行使した命令が、聖人によって私たちにまで伝達されようと、小人によって伝えられようと、私たちにはあえて問うところではありません。

 カトリック教会の過去の教皇様たちを見ても、私たちは、人間的な、不完全な要素があることを知っています。私たちはしかしながら、その人間的な弱さを通して、キリストの代理者を見ているのです。教導権がキリストを代表しなくなったその瞬間にそれは教導権ではなくなります。

 これが、(2)の意味での「客観的に正しく形成された良心に従う」、ニューマン枢機卿も言った意味での、"To my conscience first, and then to the Pope" (まず私の良心に、次に教皇に)従うということです。

 岩下神父はこう書いています。「彼(=カトリック信徒)は目に見えるキリストの代理者の権限を知っている。彼はいつもニューマン枢機卿と共に "To my conscience first, and then to the Pope" と言いうるのである。教権は地獄の門がこれに勝ち得ざるほど強きものであると共に、彼の正しき良心をも、自然法をも、聖伝をも、冒し得ぬ底のものである。それは群小教会の小法王においてしばしば見るがごとき、独裁者の主観的見解を容るるに由なきものである。」(『カトリックの信仰』第十四章 聖霊)

 岩下神父と共に私たちは更にこうも言います。私たちカトリック信徒は、教皇の聖座の前に跪くのではありません。私たちの信仰は「教皇において全体の頭たるキリストを見る」のです。「もしも教皇がキリストの目に見える代理者でないのならば、彼は何ものでもない。いくら教皇領を擁していても三重冠を戴いてバチカン宮裡に蟠踞していても、彼は一介の平信者と撰ぶところがないのである。・・・ カトリック信者は身を教皇に売るのでもなく、その奴隷になるのでもなく、彼の代表すると信ずるキリストの権威に服するのである。」  これが私たちのカトリック信仰です。

 教皇職は「秘蹟」ではありません。私たちの主イエズス・キリストは、ご自分の神秘体に教導権のみならず、聖寵の目に見える運河である秘蹟も下さいました。秘蹟は、それを受けるために霊魂の正しい状態にあれば(聖寵を注入を妨害するような障害をおかなければ)、私たちに事効的に(その自動的に ex opere operato)その効果を私たちの霊魂に注入させます。人となった天主は、私たちの救霊が、このような物質的な要素に依拠することをさえ望まれました。その意味において、教皇職は7つの秘蹟の1つの「秘蹟」ではありません。しかしイエズス・キリストは、ペトロの後継者に約束した特別の聖寵を与えます。超自然の恵みは、私たちの自然の条件を破壊せず、それを完成させます。私たちは、超自然の影響を敏感に受けるように、常によい準備をしていなければなりません。超自然は自然を破壊しませんが、自然は、これに抵抗することによって超自然の業を破壊し、これを拒絶することができるからです。

 第1バチカン公会議はこう言います。「(DS3070) 聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは,聖霊の啓示によって,新しい教義を教えるためではない」。そうではなく、聖ピオ10世教皇の表現に依れば、教会の中にある教義上の権威は、第一に、信仰の遺産を伝え守るためにあるのです。


エキュメニズム運動による新しい教皇制度の模索

 最近エキュメニズム運動によれば、カトリック的な教皇職がエキュメニズム運動の邪魔になっているがために「新しい形の教皇職」を探しているとのことです。プロテスタントの方が認めることができるように、ローマ教皇に「名誉的優位」(Primacy of honour)だけを認めようという妥協案も出ているようです。第2バチカン公会議の教会は、天主の栄光と霊魂の聖化という超自然の目的から、人間への奉仕・全人類の一致の印となることへと方針を大転換したのではないでしょうか? ですから全人類一致のために、諸宗教の大統合のために、「国連」ならぬ「宗教連合」を造るために、ローマ教皇職を「刷新」し「現代化」するのでしょうか? 

 しかし、私たちは岩下神父と共に「もしも教皇がキリストの目に見える代理者でないのならば、彼は何ものでもない。名誉的優位(Primacy of honour)などとは、それこそ偶像崇拝で、異教復興である」と言いましょう。

 もしも教皇職についている人が、私たちの正しき良心、あるいは自然法、あるいは聖伝に反することを私たちに命じた場合(そのようなことを天主が許されませんように!)、私たちは、天主の十戒、自然法、聖伝に従わなければなりません。「もしも教皇がキリストの目に見える代理者でないのならば、彼は何ものでもない」のです。聖パウロは、聖ペトロに対してそう行動しました。聖アタナシオも、教皇リベリウスに対して、そう行動しました。

 私たちには、カトリック教会によって、不可謬的に教えられた教え、歴代の教皇様たちの不可謬権を行使した教え、不可謬権を行使した歴代の公会議の教えがあります。それらは客観的な、使徒継承の聖伝の教えです。もしも、ある教皇様が、それらに反対することを教えた、あるいは実践した場合には、私たちは彼を教皇様と認めつつもその教えに従って行動することはできないからです。


ルフェーブル大司教

 ルフェーブル大司教の反対したのは、まさしく、このカトリック教会の聖伝に逆らう精神であり、聖伝とは矛盾する新しい教えだったのです。多くの教皇たちは無数の警告を発し、革新を排斥してきました。しかしそれにもかかわらず、現代の教会の聖職者たちは、アッジョルナメント(現代化)という誘惑に陥ってしまいました。ルフェーブル大司教は、第2バチカン公会議の際にはっきり理解して予見したのがそのことでした。たしかに公会議において、革新の精神に浮かされたものたちがいるのを見て驚き、それに対して抵抗し、戦ったのはルフェーブル大司教一人ではありませんでした。しかし、第2バチカン公会議が終わると、多くの高位聖職者達は、公会議の為した大激変を憂い心痛のあまり早くも亡くなってしまいました。第2バチカン公会議の革新は、それ以前に何度も教導職によって排斥され、否定された教えだったからです。

 では私たちは、何に対して抵抗をしなければならないのでしょうか? それは本質的には、第2バチカン公会議後の新しい教会論です。つまり、現代のエキュメニカル運動を生み出し、信教の自由の宣言を書かせた新しい教会論にこそ、カトリックの抵抗の核心があります。

 第2バチカン公会議後、すべてが新しい教会論に従って、エキュメニズム運動の観点から、塗り替えられ、新しくされまったからです。

 新しい司祭叙階の秘蹟、新しい司教聖別の儀式、新しい洗礼の儀式、新しい婚姻観、新しい司祭観、新しいミサとその他の秘蹟、新しいカトリック教会法典、新しい公教要理、新しい政教条約(それによってカトリック国家は地上から姿を消した)、新しい修道生活、新しい司祭観、新しい司教団、などなど。

 最終的には、第2バチカン公会議の終わりに、カトリック教会のまさに懐の中に、新しい教会生まれだしてしまった・生まれつつあるかのようです。ベネリ司教(Mgr Benelli)が表現したように、名付けて、新しい「第2バチカン公会議による教会Eglise conciliaire」が生まれ出たようです。そして、第2バチカン公会議の精神の名前によって、この新しい教会論とエキュメニズム運動の信奉者たちは、カトリック教会が過去何度も排斥してきた異端者たちと絆をますます深めていくのです。私たちは、この事実、この現実を目の前にしています。私たちは、カトリック「天主教」の名前を付けた新しい普遍「民主教」がつくられつつあるのを目の当たりにしているようです。


 そして、私たちは真理においてカトリック信徒であるために、天主の聖寵の御助けによって、カトリック教会によって不可謬的に教えられた教え、歴代の教皇様たちの不可謬権を行使した教え、不可謬権を行使した歴代の公会議の教えを力強く信じます。何故なら、それこそが客観的な、使徒継承の聖伝の教えだからです。天主の聖寵の助けにより、第2バチカン公会議の以前に何度も教導職によって排斥され、否定された教えを、私たちは今も排斥し否定し続け、忠実にカトリック信仰にとどまりたいと祈ります。

 何故なら、カトリック信仰とは、現実主義、客観主義だからです。そして信仰の内容は「私の信仰」ではなく、「カトリック教会の不可謬の教え」なのです。「私の考え」などは、ある意味でどうでもいいのです。私たちカトリック信者は自分の意見や好みについて議論をしているのではないからです。そうではなく、私たちは天主の聖寵の助けによって、カトリック教会が、誤り得ない天主の権威を持って教えてきた教えを信じ、天主の権威故にその前に跪くことだけを望んでいます。



 聖霊来たり給え!
 願わくは、天主、我らを憐れみ、弱さを強め給え!
 願わくは、天主の御母聖マリア、我らのために祈り給え!
 日本の尊き殉教者らよ、我らのために祈り給え!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)