マニラのeそよ風

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第237号 2004/07/23 司教殉教者 聖アポリナーレの祝日

聖アポリナーレ

アヴェ・マリア!

 日本は、猛暑となった7月ですね。以前、マニラの eそよ風 (第16号)で「7」という数の神秘を黙想しましたが、今回もその続きを黙想しましょう。

 人間の起源について、カイザリアの聖バジリオも 7 という数について立ち止まって次のように書いています。


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 ユダヤ人において七番目の数は敬われている。七番目という数が幕屋祭、ラッパ祭そして宥めの日を決めていた。ユダヤ人たちは七番目の年を敬い、七番目の年を債務免除の年と呼んでいた。約束の地を所有していた時代、ユダヤ人たちは六年間だけ地を耕し、七年目は自然に生えてくるものだけで満足しなければならなかった。ユダヤ人たちは六年間奴隷であっても、七年目には解放された。バビロン捕虜時代は七十年目に終わった。義人は日に七たび倒れ立ち上がると聖書にある。

 ヘノクは、原初のアダムから数えて七番目の人間で、死を免れた。これは教会の神秘である。

 モイゼはアブラハムから数えて七番目の太祖であるが、掟を受けた。掟とは生活の回心であり、罪からの解放であり、正義の導入であり、天主から降りた恵み、世界における平和、十戒の公布である。

 アダムから七十七番目の世代において、私たちの主イエズス・キリストが生まれた。

 ペトロはこの七の神秘のことを知っていた。だからこう尋ねた。「主よ、私の兄弟が、私に対して罪をおかしたら、何度ゆるさなければなりませんか。七度までですか?」と。

 ペトロはしかしこの神秘を深く知っていたわけではない。ペトロは弟子なのでまだ学ばなければならない。「七度までですか?」

 主は七という数を否定したわけではない。ただ七を多く越えていた。「私は“七度まで”とはいわない。“七度の七十倍まで”という。」

 何故、ペトロは「十度までですか?」とは言わずに、「七度までですか?」と言ったのか。

 何故、主は「百度まで」とはお答えにならずに、「七度の七十倍まで」とお答えになったのか。

 ペトロも私たちの主イエズス・キリストも、七の数から離れなかった。ペトロは聖伝の規則が古くから伝わるものだと知っていた。第七は、罪の赦し、最後の休息(創造から第七日目の安息日がそのしるし)を意味していると知っていた。ペトロは七度まで行く。主は七度の七十倍まで行く。

 「もし誰かがカインを殺すなら、カインの七倍の復讐を受ける」とあるように、罪は七倍の罰を受ける。ここでも罰は八倍ではなく七倍だ。


 何故か?

 忍耐強くあれ、そうすればこの神秘の意味を見いだすだろう。第一の罪は七倍の復讐を受ける。

 第二の罪は、ラメクの殺人だ。「カインの仇討ちが七倍なら、メレクは七十七倍だ(創世4:25 ラテン語では七の七十倍)」と主は言う。

 もしペトロにとって、カインに対してなされる罰に関して七度の赦しがあるのなら、主にとっては、ラメクに対してなされる罪の罰が七十七倍であるように、赦しも七度の七十倍まで多くなる。

 罪が如何に大きいものであろうとも、聖寵もまた大きい。

 罪が軽いところにおいては、赦しもまた軽い。

 実に「少しゆるされる人は、またすこししか愛さない。」(ルカ7:47) 「罪が増したところには、それ以上に恩寵はあふれるばかりのものとなった。」(ローマ5:20)

 ではこの神秘は何か?

 第八日目は裁きの時代であると呼ばれている。その時、罪人は七倍罰せられる。大罪人は七の七十倍罰を受ける。義人は七倍の報いを受ける。大義人は七の七十倍の報いを得る。

 今は天主の慈しみにより、来るべき将来のことを、謎を通して垣間見ているが、主の来臨の時には真理が光り輝き、誰にでも分かるようになるだろう。真理は、それぞれの人に何が相応しいかを示すだろう。もちろん、主は、この世での私たちの祈りと回心によって、憐れみ給うなら、私たち罪人に七回赦しを与え給うだろう。

 従って、この恐るべき日が来ることと罪人がその負債を払いきることが出来るということを知り、私たちは犯した罪の負債に比例する償いを、悔悛という手段によってますます捧げよう。そして、来世の地獄において負債の払いきれないほどの増大を受けることがないように、いま私たちの罪を壊し去ろう。そして、永遠と言う支払いがなされる(裁きの)第八日目に対して、私たちは、今こそ(赦しの)七日目だと言おう。

From : Source Chretiennes No 160 p. 249-257


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天主様の祝福が豊かにありますように!

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)