マニラのeそよ風

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第221号 2004/03/05 四旬節の四季の斎日の金曜日


ああ、キリストよ、
主は尊き十字架をもって世をあがない給いしにより、
われら主を礼拝し、主を讃美し奉る。

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、四旬節です。

 今回は、兄弟姉妹の皆様はもうご存じのこととは思いますが、オーストラリアの俳優、メル・ギブソンが監督・制作・脚本した「パッション」という映画をご紹介します。 この映画は、アメリカ・イギリス・オーストラリアでは既に、今年の灰の水曜日(2月25日)に公開されました。フィリピンでは3月に、韓国・イタリアでは4月に、日本でも5月に、フランスとスペインでは6月に公開されるそうです。

 「パッション」とは、ラテン語のPatior(私は苦しむ、苦しみに耐える)という言葉に由来する英語で、日本語では「受難」という意味です。Iesus Christus passus est sub Pontio Pilato.と言えば、イエズス・キリストはポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け給うた、という意味です。

 私たちの主イエズス・キリストの御受難を出来るだけ忠実に描いたもので、俳優のメーキャップは勿論言葉まで全て当時のまま(ラテン語とアラマイ語)になっているそうです。学者によれば、当時のユダヤ人たちはヘブライ語、ギリシア語、ラテン語の言葉を普通に知っていた、と言われています。

 メル・ギブソンは望む限りのお金をつぎ込み、時間、最高の俳優、科学知識、最新技術、自分の信念など持てるものを全て注ぎ込んでこの映画を作りました。メル・ギブソンの信念とは、私たち人間一人一人の永遠の運命は、この一人のユダヤ人イエズス・キリストにかかっている、と言うことです。私たちの永遠の救いは、そして民族と国家と世界の救いは、真の人であるイエズス・キリストを真の天主であると言うことを認めるか否かにかかっているのです。

 イエズス・キリストの役をするのは、ジム・カヴィーゼル(「シン・レッド・ライン」)で、聖母の役をするのはユダヤ系の俳優マヤ・モルゲンステルン(「ユリシーズの瞳」)。ところでモルゲンステルンMorgensternとは、ドイツ語で「暁(あけ)の星」という意味でまさに「聖母の連祷」の中の言葉だったのです。撮影の最中には多くのことが起きたそうです。その内の多くは関係者の良心の秘密に残されていますが、少なくとも一人はカトリックへ回心したこと、麻薬からの解放された人があったこと、いがみ合っていた関係が和解されたこと、不倫関係の放棄があったこと、イエズス・キリストの役をするカヴィーゼルが通り過ぎると跪いた謎の人物たちが現れたこと、雷が十字架に落ちたこと(しかし誰も怪我をしなかった)、などなど。

 メル・ギブソンは、フラ・アンジェリコの「キリストを描くときは、キリストと共に生活している必要がある」という言葉を思い出して制作していました。映画撮影・制作の際にはメル・ギブソンは、黒いスータンをいつも着用の或るカトリック司祭に、屋外で聖伝のミサを毎日、捧げてもらっていたそうです。メル・ギブソンはカトリックの聖伝を愛し、信じています。ですからトリエント公会議の言うように、ミサ聖祭がイエズス・キリストのいけにえであることを深く信じています。ですから、メル・ギブソンは「言葉を理解する」ということよりも、カルワリオでの十字架のいけにえという言葉を越える行為の贖いの価値は、言葉でまくし立てられる必要がないことである、と考えているのです。

 罪のない私たちの主イエズス・キリストが、恐ろしい死刑を受けたのは、私たちが地獄の永遠の滅びから救われるためでした。天主の御ひとり子が人となったのは、正にこの御受難を苦しむためでした。罪人である私たちの代わりに、むごたらしい死を甘受されたのでした。

 人類の歴史の意味は、そして勿論、私たちの愛する祖国日本の歴史の意味は、天主である私たちの主イエズス・キリストの真実が分からなければ本当の意味で理解することが出来ません。キリストの御受難と御復活を知って、私たちは初めて私たちの生の意味と価値を深く理解できるからです。

 カトリック教会は私たちに四旬節の間、私たちの罪を忌み憎み、痛悔し、改悛するように、私たちの主イエズス・キリストを黙想するようにと招いていますが、今回の映画はまさにその教会の招きにピタリと一致していると思います。

 カトリック教会には、十字架の道行きがあり、御像があり、ステンドグラスがあり、視覚的に私たちの主イエズス・キリストの御受難を黙想する習慣があります。カトリック教会の十字架には御苦難のキリスト像が付いています。メル・ギブソンの映画は、この意味でとてもカトリックの聖伝に適ったものだと思います。

 理由無く殴られ、暴力を受け、サタンから誘惑を受け、天主聖父への従順のために十字架の死を受ける私たちの主イエズス・キリスト。イエズス・キリストの私たちへの愛は、多くの犠牲を伴った愛でした。感傷的なラブ・ソングを遙かに超えるものでした。イエズス・キリストは、単なる智者尊師ではなく、私たちの罪を贖うために自ら進んで苦しみを受けられた天主ご自身でした。

 メル・ギブソンはこの映画に向けられる批判や中傷に、イエズス・キリストが教えた最大のことは愛することと赦すことである、と言っていました。正に、天主は人となられ、私たちを愛し赦すために苦しめられたのでした。

 この映画をすでにご覧になった方は、イエズス・キリストが私たちのために受けた苦しみの大きさを目の当たりにして、目頭が熱くなるものを感じられたようです。

 ヴィットリオ・メッソーリはこの映画を見て言葉を失ったと言っています。長年、ギリシア語を一語一語確かめながら福音書を読み、そこに書かれていることは全てよく知っていた、福音書に書かれている史実に関して400ページからなる分厚い本をメル・ギブソンに贈呈さえした、そしてメル・ギブソンはそれを参考にして作成した、しかしこの映画を見て自分は知っていると思っていたにすぎないと言っています。

 メル・ギブソンにとってイエズス・キリストの御受難は、じつにミサ聖祭なのです。ローマではミサ聖祭が脈々と聖なる言葉(ラテン語)で捧げられていたように、パッションもラテン語とアラマイ語で制作されるべきだったのです。メッソーリはこれを「頭で理解するというよりも、心で理解する」と言っています。イザヤの預言にある「ヤーウェの僕」、私たちの罪を背負って苦しむメシアが、大きなスクリーンに映し出され、もはや字幕を追うのではなく、イエズス・キリストの受難に吸い込まれていってしまう、と言っています。

 この映画は、ミサ聖祭の映画でもあると言えます。何故なら、私たちの主イエズス・キリストの受難の御血は、フラッシュバック(クロス・カット・テクニック)で最後の晩餐のワインと混ざり合い、痛めつけられる私たちの主の御体は、聖別されたパンと関係づけられるからです。

 この映画の第2の特徴は、マリア的であるということです。聖母と女性の顔をした悪魔とがこの映画のどこにでも登場し、特に聖母の静かな、しかし苦しみに満ちた表情は、私たちの主のパッションを共に苦しみ、ともに贖いの業を成就させようとする聖母の役割を明確に現しています。ピラトの妻であるクラウディアは聖母に聖子の御血をふき取るように布を渡します。ペトロはイエズス・キリストを否んだ後、絶望しつつ聖母の足下に泣き崩れて赦しを得ます。

 この映画の最初に受難のドラマが始まる前に、マグダラのマリアが聖母にこう尋ねるそうです。
 「この夜は何故他の夜とはそんなに違っているのですか?」
 聖母は答えて
 「何故なら、私たちは皆奴隷だったけれど、これからはもうそうではなくなるからですよ。」

 ユダヤ教のラビであるダニエル・ラピンは、この映画は歴史始まって以来の最も真面目でもっとも中身のある聖書の映画として有名になるであろうこと、そしてこの映画が数百万のキリスト者を燃え立たせ息吹くので、彼らの信仰はますます熱心になるだろうことを予言しています。
link http://www.lewrockwell.com/orig4/lapin1.html

 アセンション・プレスの社長であるマシュウ・ピント http://www.evangelization.com は、この映画の解説の本を作って、こう言っています。

 「私がこの映画を見たとき、もう罪を犯したくなかった。実際に罪を犯さなかったという現実はおそらく1時間しか続かなかったかもしれないが、しかしこの望みはまだ続いている。私の期待は、皆がキリストが苦しまれ死なれたその理由は私たち全てにあるということ、私たちがキリストの死者からの復活から利益を得るものであると言うことが分かればと言うことである。窮極的に、「パッション」は私たちに希望を与えてくれる映画である。この映画は今までに語られたことの無かった最高のラブ・ストーリーを見せてくれる。つまり無限の天主の私たち一人一人全てに対する愛の物語である。
link http://www.zenit.org/english/visualizza.phtml?sid=49510

 先日日本におこしになって聖伝のミサを捧げて下さったオルティス神父様も、この映画をご覧になられ、私たちに勧めておられます。「感動の2時間」であったと言います。

 私たちの主イエズス・キリストの御受難こそ、イエズス・キリストの使命を果たす「時」であり、天主聖父の御旨を果たして飲み干さなければならない「杯」でもありました。イエズス・キリストは、病を癒すとか異語を語るとか「生まれ変わりの体験」を感じるとか、あるいは社会問題解決・男女平等運動に身を投じることとかということを私たちに求めているのではありません。私たちの主イエズス・キリストは、私たちにご自分の神秘体の一部となって苦しみの欠けたところを補うことを求めています。イエズス・キリストの御受難と一致して、私たちも日々の苦しみと犠牲を捧げることを、自分の十字架を取ってイエズス・キリストの後を歩むことを求めておられます。

 私たちの主、天主の御ひとり子は、不当な裁判を受け死罪の判決を受けました。それは私たちが私たちの主イエズス・キリストを信じ、洗礼を通して罪の赦しを受け、永遠の生命に至るためでした。私たちの主イエズス・キリストは、私たちを憐れむためにこの世に来られましたが、この世の終わりには私たちを裁くために、正義の裁判官としてもう一度来られます。

 私たちの主イエズス・キリストが、私たちを愛するため、私たちの罪を償うためにどれほど恐ろしい苦しみを忍ばれたかを、私も是非映画館に行ってこの映画を見たいと思います。

 兄弟姉妹の皆様もどうぞ!



Christ Falls on the Way to Calvary by Raphael Sanzio (Santi), 1517


 救い主イエズス・キリスト、主はわれらを罪よりあがなわんためにエルザレムにおいて残酷なる苦しみに遭い、恥辱を受け、十字架を担いてカルワリオに登り、衣をはがれてくぎ付けにせられ、二人の盗賊の間に挙げられて死し給えり。われ主のかく苦しみ給える地にもうで、御血に染みたる道を歩みなば、鈍きわが心も主の愛の深きをさとりて感謝に堪えざるべし。また主の御苦難の原因なるおのが罪の重きを知りて、たれか痛悔の情を起こさざるものあらん。われかかる幸いを得んと欲すれども能わざれば、かの地のかたみなるこの十字架の道を歩まんとす。されどわれもし聖寵をこうむらずば、愛と痛悔との情を起す能わざるにより、願わくは御恵みをくだして、主の御苦しみをわが心に感ぜしめ、かつて聖母マリアおよび主の御跡を慕いし人々の心に充ちあふれたる悲しみをば、わが心にもしみ透らせ給え。またわれをして今より深く罪を忌みきらいて全くこれを棄て、愛をもって主の御慈愛に報い、主の御ために、苦難を甘んじ受くるを得しめ給え。なおこの十字架の道を、ふさわしき心もて行く人々に施さるる贖宥をわれにも、また煉獄に苦しむ霊魂にも、与え給わんことをひとえにこいねがい奉る。

ああ聖母よ、十字架にくぎ付けにせられ給える御子の傷を、わが心に深く印し給え。


 至聖なるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え、
 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

 天主様の祝福が豊かにありますように!


文責:トマス小野田圭志神父 (聖ピオ十世会司祭)




追記: 2月29日の主日にはソウルの聖ピオ十世会「無原罪の御宿り聖堂」にて、ソン・アンドレアさんとジャン・クリスティナさんの生まれたばかりの三男ソン・フランシスコ君が洗礼の恵みを受けました。フランシスコ君のためにお祈りをお願いします。


トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)