マニラのeそよ風

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第218号 2004/02/02 聖母の御清めの祝日

 「サタン退け、天主なる主を礼拝し、ただ天主にだけ仕えなければならぬ、と書かれてある。」(マテオ4:10)
 「真の礼拝者が霊と真理をもって聖父を拝むときが来る、いやもう来ている。聖父はそういう礼拝者を望まれる。天主は霊であるから、礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ。」(ヨハネ4:23-24)

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、今回は宗教とは何かについての考察をお送りします。

 一般に日本語では「宗教」とは、何らかの「神」や霊を信じたり或いは崇敬したりする特定のやり方のことである、といってよいと思います。例えば、ユダヤ教とかイスラム教が宗教であると言い、さらに「諸宗教の歴史」という言い方をするときそうです。この意味でラテン語でも religio と言い、たとえば諸宗教は religiones と言います。

 岩下壮一神父は「宗教」を説明して、その著「カトリックの信仰」にこう書いています。

 「宗教というものは、神に対する人の道だという定義は、まことに適切な定義であって、世間では宗教というものは感情なりとか、あるいは証明のできぬ哲学的の人生観であるとか、または人間の理性で解することのできぬ自然の神秘の力に対する畏怖であるとか、または先祖崇拝の形式なりとか、その他社会的制裁の神格化であるとか、まだいろいろの説が行われているけれども、それらはいずれも適切な定義でないのみならず、或いは宗教心の本質を誤解したり、或いはその一面ばかりを捉えたに過ぎないものである。・・・ここにいうところの道というものは、時代や国によって変化のある形式的の道ではなくて、人の人たる所以(ゆえん)の道である。すなわち・・・人の本性に正しく従って行くところの道筋のことで、これを人の道というのであるからして、人の人たる所以が、換言すれば人の本性が変わらぬかぎり、ここに述べるところの道なるものは変化するはずのない性質のものである。その人の道というものは申すまでもなく、宗教に限らず道徳一般を含むもっと広い意味を持っている。・・・(仁義礼智信という、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友間の道徳に加えて)キリスト教は・・・神に対する人の道を付け加える。・・・これが人間の道の中で一番大切なものである、何故ならばこれが人間の道の他の部分すなわち五倫の根本になるものだと教える。」(31-32ページ)

 岩下神父は、宗教を「人の道」として捉えておられますが、また、ヤコボの書簡にも「聖父なる天主の御前に、清く汚れのない宗教の行いとは、貧しい孤児とやもめを見舞い、世の汚れに染まらず、自ら清く保つことである。」とあります。ここで聖ヤコボは礼拝や崇敬また信心の業を越えて、宗教が「道徳的で倫理的な善き人間の生活を作る」ということを語っています。(ここに言う「清く汚れのない宗教の行い」をラテン語では、religio munda et immaculataと言います。)

 従って、特定の神や霊を信じなくても、何らかの信念に基づいて自分の行いを規律しつつ生活する場合には、広義の意味で「宗教」と呼ぶことができると思われます。その広義の意味では、「神」を信じない無神論的な小乗仏教や、自力によって悟りを目指す禅も「宗教」と呼ばれうるでしょうし、無神論共産主義という「宗教」を信じているという表現が成り立つのだと思います。

 岩下神父によると、道というものは、人の人たる所以(ゆえん)の道であり、人の本性に正しく従って行くところの道筋のことで、例えば、仁・義・礼・智・信という、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友間の五倫の道徳を挙げています。つまり、人が人であるかぎり、他者を尊重しなければならず、他人を他人としてみながら、他人が当然受けるべきものを受けさせなければならないと言うことです。それはすなわち正義と言うことです。

 ところで、正義には、
完全な他者性に基づいて(1)対等な要求を為しうるものと、
上位性または団体性に基づいて、(2)対等な要求をなしえないもの
とに分けられます。

(1) 対等性に基づく正義は、例えば交換や売買において与えるだけのものを受け取る、と言うときに要求される対等性に基づくものです。このような正義を「交換的正義」(ラテン語で justitia commutativa )とも言います。

(2) 上位性や団体性に基づく正義(=対等性に基づかない正義)は、天主が人に礼拝を求める権利、父が子に服従を求める権利、国が共同善を確保する権利などをめぐって成立するものです。つまり、従属員や、団体の成員が、長上の権利または団体の共同善に対する権利に属するものを貢献するときに成立する正義です。親に孝、君に忠ならしめるのはこの義徳です。岩下神父は、さらに目に見えない真の天主を、真の天主と認めることこそ「宗教の徳」であると言います。これが、「神に対する人の道」であり、人間の道の他の部分すなわち五倫の根本になるものであるがゆえに、人間の道の中で一番大切なものなのです。そして人の道は倫理の秩序、社会公共の善を保全するために極めて重要なので、公共の善を守る「法」の対象とされます。それ故にこの上位性や団体性に基づく正義の徳を、「法律的正義」(ラテン語で justitia legalis )とも呼びます。

 対等性に基づかない正義である「法律的正義」には、他者には厳密な意味における権利が存在するにもかかわらず、私たちにはその権利に対して対等に報いることができないほど大きいので、私たちには「対等の義務」を持ち得ないものです。そのために、上位者が持つ権利と個人の義務との関係は厳密な意味で対等ではありません。ですから、このような権利に関しては「類比的正義」が存在するだけです。そこで法律的正義には、天主に対する宗教( relgio )・親に対する孝( pietas )・天主の代理者たる長上に対する恭順( obervantia )の3階級から成り立っていると言えます。

 岩下神父は、さらに「宗教」という意味をもっと正確に、正しい意味に捉えようとします。

「神に対する道すなわち宗教においても、真の宗教と誤れる宗教とがあることを認めねばならぬ。・・・
第1に、その宗教はよしんば理性を超越することはありえても、理性と矛盾してはならないこと。
第2に、その宗教を奉ずるがために、人間の宗教以外の道すなわち五倫の道に、抵触することがあってはならぬこと。
第3に、それが昔でも今でも、西洋でも東洋でも、時と場所の如何を問わず、根本においては変化のない人の本性に基づくものである以上、その道も根本において、時代や国によって変化のあるべきものではないという3つのことは、容易に了解し得られることだろう。・・・真理は一つ、人の道も一つである」(同42-43ページ)。

 ですから、真の宗教はただ一つしかない、と結論します。

 そこでこの意味において、真の天主に対してなされなければならない礼拝と奉仕を私たちがするようにさせる自然に基づく善い習慣(=倫理徳)を「宗教」 religio と呼び、Prummer はこの義徳の一つとしての意味での「宗教」を次のように定義しています。

 「宗教とは、天主を私たちの創造主且つ統宰主、或いは私たちの究極原理として、天主になすべき礼拝を捧げるように私たちをして仕向ける倫理徳である。」( Religio est virtus morlis inclinas nos ad debitum cultum exhibendum Deo, ut nostro creatori et gubernatori, seu ut nostro supremo pincipio. Cf. Manuale Theologiae Moralis Tomus II. No 324. p275.)

 この意味で、倫理徳の一つとしての「宗教」を、「宗教徳」あるいは「敬神徳」(ラテン語で virtus religionis )と呼びます。

 真の宗教と誤れる「宗教」とがあり、真理は一つ、人の道も一つであるように、真の宗教はただ一つしかなく、私たちカトリック信者は、真理の宗教を信じ、真の天主にふさわしい、なされるべき礼拝を捧げることができる名誉を与った身となったものです。ですから、キリスト者は、天主の栄光のみを求め、これのためにのみ生きなければなりません。掟の目的は天主に対する聖なる愛です。そして内的信仰を時ありては外的行為を持って表明しなければなりません。カトリック教会法典にはこうあります。

 「キリスト者は彼らの信仰に対する沈黙、逡遁(しゅんとん)、或いは態度が信仰の暗々裏的否定、宗教に対する軽侮、天主に対する不義、或いは隣人の躓きを伴う場合には、信仰を公に表明すべき義務を持つ」(1326条§1)。

 この掟は積極的行為を命じる積極法であるので、普段に私たちを拘束しません。教会の権威ある解釈によれば、天主の名誉、己および他人の救霊が信仰の表明を要求するときである、といいます。これに基づいて、次のような原則を定めることが出来ます。

 「信仰は教会と共に公たるべきである。しかし適当な理由および条件の下にはこれを隠すことが出来る。とは言っても誤れる信仰を装うことは絶対に許されない。」

 「適当な理由および条件の下」とは、天主に対する正義および自他の救霊を損なわない、という条件です。

 しかし「信仰を隠すこと」と「誤れる信仰を装うこと」とは別です。何故なら、「誤れる信仰を装うこと」は、単に信仰を隠して表さないばかりか、かえって信仰に反する言動によって真の信仰を裏切る迷信的行為をもって信仰の否定を少なくとも外部的に表明するからです。迷信的行為は、真の信仰を把持する者にとって、疑似迷信、疑似偶像崇拝の類も、絶対に許されません。
(野田時助著『カトリックの信仰』第八巻 309―313ページ参照)

 こうして、宗教徳が命じる実践を怠ることによって消極的に罪を犯しますが、積極的に「やりすぎ」で誤っているものと、「不足しすぎ」で誤って、宗教徳に背く場合があります。

(A) 「やりすぎ」で積極的に宗教徳に背くことを、一般に「迷信」と言い、
(B) 消極的に宗教徳に不足する場合を「不敬神」と呼びます。

(A) 「迷信」には、不当の礼拝、偶像崇拝、占卜、幻術(魔術)が属し、
(B) 「不敬神」には、試神、涜聖、シモニア(沽聖)が属します。


「迷信」(superstitio)

 迷信とは、「真の天主或いは偽の神に対する不当の礼拝」です。

 Prummer は、こう言います。「迷信とは、なすべきではないものに対し、或いはなすべきではないやり方で、天主の礼拝を捧げる悪徳である。」(Superstitio est vitium exhibens cultum divinum vel cui non debet, vel eo modo, quo non debet. Ibidem No 501. p409.)

 従って、迷信にはその類として2つ有り、第1の類は真の天主に対する「不当の礼拝」の迷信です。

 これには2種類あり、「誤れる礼拝」cultum falsumと「無駄な礼拝」cultum superfluum です。

 「誤れる礼拝」とは、真の天主に対する礼拝の中に、何らかの不正或いは虚偽を含める類です。例えば、過ぎ越しの子羊を食べたり、割礼をしたりして、旧約の典礼を使って天主を礼拝することです。このような旧約の儀式を行うことはキリストがまだ来ていないと言うことを意味するからです。或いは、信仰を起こさせるために偽りの啓示や奇跡を語ること、
信心のために偽の遺物を顕示すること、
司祭ではない者がミサ聖祭を挙行したり、罪の赦しを与えたりすること、
よくない行為をもって天主を礼拝しようとすること、などです。

 「無駄な礼拝」とは、教会の規定や慣習に反する無益な礼拝を用いることです。このような礼拝は、それ自体が不正とか虚偽ではなくとも、教会の意志に反するために天主に嘉納されないのです。

 例えば、教会の認めない新奇な信心、夜明け前のミサ、祭壇のローソクの色や数に礼拝の意義を認めることなどが、その種の迷信です。

 ただし、カトリック教会の公式の認可を得ているやり方を「無駄な礼拝」と呼ぶことはできません。例えば、ノベナの信心、ミサ聖祭を同じ意向で30度続けて捧げる「グレゴリアン・ミサ」などです。

 迷信の第2の類は、偽りの霊、被造物、特に悪魔などに礼拝を捧げることです。偽りの神に対する不当な礼拝には、3つの種があり、偶像崇拝 idololatria、占卜(せんぼく=占いのこと) divinatio、幻術 vana observantia (この中に魔術 magia も含まれる)です。

 偶像崇拝とは、つまり「真の天主に対して捧ぐべき礼拝を被造物(偶像)に捧げる迷信」のことです。偶像とは、例えば、太陽や月、ユピテルやメルクリウスなどの古代の神話の神々のことです。

 「偶像崇拝」の中には、被造物を礼拝しようとする意図を持つ固有の意味での「偶像崇拝」( idololatria formalis, interna )と、この意図がなく外面だけの「疑似偶像崇拝」( idololatria materialis, simulata, externa )とがあります。

 外面だけの「疑似偶像崇拝」とは、例えば、キリスト者が残酷な拷問と死の恐怖から、心の中では異教の偶像を軽蔑しつつもその偶像の前で香を焚いたりして外面的に礼拝することです。

 「偶像崇拝」には、それがどのようなものであっても、真の天主に対する重大な非礼が認められるので、全て大罪です。

 (野田時助著『カトリックの信仰』第九巻 553-554ページ参照)

 さて、私たちの風俗、習慣の中には、歴史をさかのぼれば、それらが宗教的意義を持っているものが多くあります。この宗教的意義も純粋な自然宗教を表すもの、キリスト教的に見ても無難なものもあれば、全く迷信に基づくかこれに堕するに等しきものも少なくありません。日常の用語、礼儀、作法から季節上のしきたり、その他、相撲などのスポーツや衣食住に関する種々の様式にそのような例を見いだすことが出来ます。これらは真の信仰の照らされた心眼には、もはや無批判無差別には映り得ません。迷いを模倣することも愚かなことですが、誤れる信仰を表明する危険さえあるからです。そのようなときは、次のような区別の原則があります。

 「第一、問題の風俗習慣が、迷信、或いは背信または不信を表明せんために用いられてゐるものであれば、われわれは、固よりこれを採用することができない。
 第二、もし必ずしも信仰の表明に使用されてゐないものであれば、合理的理由の下にこれに従ふことができる。この区別は公私の団体における祭礼或いは徽章、服装などについても同様に適応さえ得るが、いかなる際においても常に他人の躓きを度外視できないことを注意しなければならない。またこれらの風俗習慣はより一般化され、より日常事となるにしたがってある特殊の宗教や信仰との関係がより薄くなり、次第に自然社会的意義を帯びるにいたり、これらによる迷信表明の危険が薄くなるともいへる。」
 (野田時助著『カトリックの信仰』第八巻 321ページ参照)

 異端と異教の宗教的行事に対する私たちの態度はいかにあるべきでしょうか。

 Prummer は、その「倫理神学手引き」の中にある「信仰を危険にすること」 de periculis fidei という項の中で、この問題を取り扱っています。

 人間は、永遠の救いを得るために信仰が必要であるので、信仰を危機にさらさせるようなことを避けなければなりません。

 信仰を危険に晒すものとしては、人間の内部からのものと外部からのものがあります。

 内部からの要因としては、例えば、傲慢、貪欲などがあり、外部からの要因としては、主として、異端者や未信者との交際の習慣、非カトリックの学校に通うこと、悪書を読むこと、異端者や信仰を持たない人との婚姻などが挙げられ、その中の「異端者や未信者との交際」に世俗のものと宗教的なものとの二種類が区別されます。

 カトリック信者の「異端と異教の宗教的行事への参加 communicatio cum indifelibus et haereticis 」には、その意向を持ってするもの( formalis )と、単に形式的に外観だけでそうするもの( materialis )とがあります。

 野田時助著『カトリックの信仰』第九巻は、次のような原則を挙げています。

 第1に、私たちは行事そのものに能動的に参与することはいかなる方法によっても許されません。これはカトリック教会法典1258条§1に規定があります。 "Haud licitum est fidelibus quovis modo active assistere seu partem habere in sacris acatholicorum." 何故なら、非カトリックの宗教儀式は、真理の宗教を啓示し給うた天主に対する礼拝ではないからです。

 例えを挙げます。【以下は Prummer の手引き書に載っていた例です。】

(あ) カトリック信者は、異端者の牧者によって異端者の子供になされる「洗礼」の代父母となることは許されません。
(い) カトリック信者は、非カトリックの牧者の前で婚姻を結ぶことが許されません。
(う) 異端の神殿で異端の宗教行儀がなされているとき、祈りの内容や歌の内容などに何ら異端的なものがなかったとしても、オルガンを弾いたり、祈ったり、歌をうたったりすることは許されません。
(え) 病の人々を看病する責のある修道女たちは、非カトリックの病者が自分のために偽りの宗教の聖職者を要求したとしても、これらの聖職者をすすんで呼ぶことは許されません。ただ彼等が来るのを受け身的に黙認するだけです。カトリックの修道女たちは、霊魂のために真に益のある秘跡を授けることのできない非カトリックの役務者を呼ぶよりも、病者に愛徳をもって接し、彼等に罪の痛悔を起こすように手伝う方がよりその霊魂の善になると知っているからです。しかし、病者が非カトリックの役務者を要求し、大きな不都合が生じるような場合には、修道女は非カトリックの聖職者にこの非カトリックの病者の望みを伝えることができます。何故ならそのような「状況を伝える」ということは、それ自体で宗教行為とは無関係であり、合理的な理由がある場合にはそうすることが許されるからです。
(お) 平信徒は、公に、信仰に関することを異端者らと議論することが禁じられています。何故ならこのような公の議論からは良いものはほとんど生まれず、かえって非常にしばしば最悪の状況に至るからです。(しかし、この議論を始めた異端者、或いは聞いている人々に実りがあると期待できるなら、平信徒は、個人的に、カトリック信仰を擁護するために異端者と議論をすることができます。)

 第2に、充分な理由があれば(社会的儀礼などの理由で)、行事に参加することなく、単にその場所に物理的に臨席するに止まるならば許されます。カトリック教会法典1258条§2は、このような単にその場所に物理的に臨席することを、assistentia passiva et materialis と呼んでいます。異端の教会堂、社寺などの絵画や像、或いは工芸品を単に見物し、或いはそれらの中で彼らの為す行為を単に見物し、その音楽を聴くということは、他人の躓きを避け、自分の信仰を危険に晒す危険(=堕落の危険)がないならば、許されます。(しかし、Prummer は、たとえラジオを聞くと言うことによっても、堕落の危険が全くないわけではない、と指摘します。)そこで、カトリックの兵士や学生らが、集団で上記のような非カトリックの儀式に参列することを強制され、大きな不都合なくそこから抜け出ることができない場合には許されます。

 仏教はもとより、神道に属する諸行事についても、それらが宗教的意義を離れ、単なる社会或いは国家的に礼式などと名実ともに変化されない限りは、上に述べた原則が適応されなければなりません。

 例えで説明します。

 もし、私たちが友人のAさんのお葬式や結婚式に招かれたとします。葬式はカトリック教会以外の宗教の儀式で執り行われるとします。

 第1に、私たちは行事そのものに能動的に参与することはいかなる方法によっても許されません。能動的に参与するとは、そこで率先してお祈りを唱導したり、「聖書」を皆の前で朗読したり、歌をうたったり、宗教行事の楽器を弾いたり、宗教的な礼拝のための舞踊を踊ったり、焼香したり、結婚式の証人になったりすることです。

 第2に、行事に能動的に参加することなく、受け身的に単にその場所に物理的に「ただ居るだけ」に止まるならば、社会的儀礼などの理由で許されます。

 仏教や神道に属する諸行事が宗教的意義を離れ、単なる社会或いは国家的に礼式などと名実ともに変化してしまった場合が存在したとしたら、どうなるでしょうか。野田時助師はこう書いています。

 「他宗教の礼拝所に参詣(さんけい)し、儀式に与り、他宗教のために金品を寄贈すること、神棚や仏壇を装具し、これに供え物をするなどは、外面的にだけ行っても信仰を佯(いつわ)り、または迷信に与することになる場合があるが、また一概にそうとばかり思いこむべきでもない場合がある。信仰や礼拝に関係ない他の目的が同時に明らかに存在する場合があるからである。例えば、国民的、社会的儀礼の目的が宗教的礼拝に関係なく、あるいはこれとは別に、同時に認められる場合がそれである。こうした場合、私たちは同時に存在し得る2通りの目的の中から、礼拝ではなしに、国民的、社会的儀礼を選ぶことが出来るから、躓きを避ける工夫さえあるならば、他宗教に関連を持つ事柄を為すことが許される。」(野田時助著『カトリックの信仰』第九巻 554ページより)

 Prummer は、ユダヤ教のやり方によって割礼を受けるのは許されないけれども、医学上の理由で割礼のような手術を受けることは許される、と言っています。(同書Tomus I, No 526.)


占卜

 迷信の第2の類の一つである占卜(せんぼく=占いのこと)divinatioとは、隠れた事物を知るために悪魔に祈ることです。

 占卜の本質は、悪魔との交渉を企てることにあって、隠れた事物を知ったか否かにあるのではありません。ですから戯れに悪魔に祈っても、悪魔からの返事が得られなくても、これを求めるだけで占いの罪を構成します。

 占いには、明示的なものと、暗示的なものがあります。

 明示的な占いは、明確な言葉によって悪魔に祈る、或いは一定のしるしのもとに一定の結果が得られるように悪魔と契約を結ぶことです。(これは常に大罪です。)

 暗示的な占いとは、天主からも自然からも適当に与えられてはいない無力な手段を用いて知識を得ようとすることで、天主の制定に反する手段を歓迎するのは悪魔の持ち前です。暗示的な占いは、倫理的には明示的占いと同じ本質のもので、本性において大罪です。

 暗示的な占いには、天主の摂理に対する信頼や服従の欠如が見られ、悪魔との交わりと危険な惑いが伴っています。好奇心や戯れから、無知や単純さから犯される場合が多いのですが、この種の戯れは悪質であり、常に惑いの危険を伴っています。

占卜の種類には、
(1) 神智学、人知学といわれる近代のグノーシス
(2) 占星術
(3) 手相術、観掌術
(4) 玻璃(はり=水晶のこと)凝視
(5) 夢占い、夢判断を行為の一般的常則とすること
(6) 人間以上の力を借りようとしてくじで占ったりすること
などがあります。


幻術

 迷信の第2の類の最後の幻術vana observantia(この中に魔術magiaも含まれる)とは、悪魔の力を借りて何らかの外的結果を得ようとすることです。

 明示的に悪魔に呼びかける幻術と、暗黙的に悪魔と交渉する幻術があります。

 暗黙的な幻術とは、外的結果(例えば、平癒、護身など)を得るために、超自然的にも自然的にも無力な手段を用いることです。そのような無力な手段は、「悪魔の秘跡」とも呼ばれています。

 占卜と幻術の性格を合わせ有しているものに、コックリさんや心霊術などがあります。霊・肉に対して非常に危険であり、単に科学(?)実験のためとしても為すべきではありません。


 最後に「不敬神」に属している、試神、涜聖、シモニア(沽聖)について一言説明します。

 「試神」とは、天主を試みることで、天主がある完全性を有しているか否かを人間が調査しようとすることです。つまり、天主の恵みを軽々しく要請したり、正当な理由無しに奇跡を求めたりすることです。例えば、御聖体においてキリストの現存を疑う人がこれを証明するための何らかの印を求める、御聖体におけるキリストの現存を信じる人が、キリストの出現という特別の恵みを求める、重病患者が自然的な医学的治療を試みずに天主による直接の癒しを求める、などです。

 「涜聖」とは、聖なる者・物・場所にたいする非礼のことです。

 「シモニア(沽聖)」とは、超自然的善・霊的事物である「聖なるもの」を世俗的事物と対等なものとして売買する涜聖のことです。


 至聖なるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え、
 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!


文責:トマス小野田圭志神父 (聖ピオ十世会司祭)