マニラのeそよ風

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第214号 2003/12/18

ファチマの聖母
ファチマの聖母

「おおアドナイ(主)よ、イスラエルの家の指導者よ、御身はモイセに赤き炎の火において現れシナイにて法を与え給えり。御腕を伸ばし我らを贖うために来たり給え。」
(12月18日の晩課のマニフィカットのアンティフォナより)

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、ご無沙汰しております。

 私たちの主イエズス・キリストの御降誕がもう直ぐに迫ってきましたが、兄弟姉妹の皆様におかれては、お元気でお過ごしのことと存じます。また先日は、日本における聖ピオ十世会の意向で、聖ヨゼフに対するノベナ、無原罪のおん宿りの祝日の準備のノベナなどの祈りをありがとうございました。

 こちらは10月の末から忙しくなりメールなど頂いておりながら、お返事も出来ずに、ご心配やご迷惑をおかけしておりますが、兄弟姉妹の皆様のご理解をお願いします。

 フィリピンのニュー・マニラの私たちの修道院では、今まで修道院長であったグリエゴ神父様がアメリカのテキサスのセイント・メリーズ校の学頭として新しい任命を受け、アメリカ管区に配属になりました。アメリカのセイント・メリーズに関してのニュースはまた別途お知らせいたします。こちらニュー・マニラではフィリピン人のソリマン神父様が新しい修道院長として任命を受けました。

 さて、韓国のソウルでは、11月29日に長い準備の後にイ・ヨゼフさんが洗礼の秘跡を受け、ハン・マリアさんと婚姻の秘跡で結ばれました。

 フィリピンのニュー・マニラにある「勝利の聖母」の教会では、フィリピンにお住まいの日本人のオノ・ヨゼフさんが12月8日に洗礼の秘跡をお受けになりました。

 新しく洗礼の恵みを受けた方々のために、兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願い致します。

 来年の2004年の聖ピオ十世会の日本における聖伝のミサの予定が出来、管区長はじめ長上の必要な承認を得ましたので、出来るだけ早く日本語にして兄弟姉妹の皆様にお知らせいたします。今回の日本でのミッションでは、聖ピオ十世会アジア管区のニュースレターの最新号(インド・ミッション特集)と、フィリピンでの特製2004年カレンダー(1部500円)をお持ちしました。数に限りがありますのでお早めにどうぞ。

 さて、今回は、「ファチマの諸宗教の会議に対して聖ピオ十世会の取った態度」と題して、DICI 83号(2003年10月)の記事から報告をご紹介したいと思います。


ファチマの聖母


ファチマの諸宗教の会議に対して
聖ピオ十世会の取った態度


 今年の10月10日から12日まで童貞聖マリアの町であるファチマで行われた諸宗教の会議に関して、地方のものを除いてほとんどのマスメディアは何も語らなかった。この新しい躓きに対して、聖伝によるカトリックの教えに従って抗議の声を挙げたのは聖ピオ十世会だけであった。


ファチマの諸宗教の集いの報告


 事 実

O presente do Homem, O Futuro de Deus  10月10日から12日までファチマにある「パウロ6世司牧センター」にて、「人間の現在、天主の将来、O presente do Homem, O Futuro de Deus 聖なるものとの関わりにおける聖所の位置」という題で集会が開かれた。この集会を開催したのはレイリア・ファチマの司教であり、リスボンの総大司教枢機卿が「科学的」といわれている部分を締めくくった。12日の主日の司会者(モデラトール)は、バチカンの諸宗教対話のための教皇庁立委員会の長であるMgr Michael Louis Fitzgerald だった。そこで行われたことは、さまざまな宗教の代表者がそれぞれ集会に自分の証言を提示することで、ヒンドゥー教、仏教、ユダヤ教、イスラム教、正教会、聖公会、カトリックなどが参加した。


 この躓きに対して

 聖ピオ十世会だけがオープンなやり方で公式的に償いと情報提供の主日を組織した。聖ピオ十世会の指導の下にある「フランス・カトリック青年運動MJCF (Mouvement de la Jeunesse Catholique de France)と、聖ピオ十世会のマドリッドの修道院の援助を受けて、ファチマに多くの信者を集めることが出来た。参加者らは全員この種の集会がどれほど恐ろしい冒とく的なものであるかという情報を提供するビラを12,000枚(DICI 85号によると実際は35,000枚以上)ファチマの町で配った。

 特にフランス・カトリック青年運動の青年たちは非常によく働き、この集会の重要なカンフェランスに幾つか参加することを許された。リスボンの総大司教枢機卿の講話(「天主の将来」という題)の後に討論会が計画されていたが、不思議なことにキャンセルとなった。そこで青年たちは自発的に枢機卿に質問をしに行った。枢機卿がこれらの青年たちに個人的に答えた回答は、自分の責任の下にある羊の群れに対する牧者の軽蔑を現している。

 一人の青年が枢機卿にシスター・ルシアの「ファチマのメッセージの呼びかけ」という本からの抜粋を引用した。それはシスター・ルシアが天主の十戒の第一戒を素晴らしく解説しているところだった。すると枢機卿は「シスター・ルシアは今日では問い合わせる参考証人ではなく、第2バチカン公会議の方がもっと良い」と答えた。

 別の青年がイザヤの予言の「吠えない犬」(イザヤ56:10)を引用し枢機卿にコメントを求めると、枢機卿は「預言者イザヤは自分の責任を果たした」と答えた。別の質問から逃げるために、枢機卿は「私は人間の言葉を使いたい」と答えた。もちろん枢機卿は青年たちにイスラム教徒もユダヤ教徒もカトリック信者も同じ天主を持っている、と言った。

 私たちの反応の本質的な点は、祈りであり、御聖体降福式、聖伝のミサであった。また私たちは公および個人的な償いの犠牲ということを、この活動の中核に明確におくことを望んだ。この償いの精神において、私たちはファチマの聖域の巨大な広場にある「ルシアの道」をグループで行った。丘の高みから御出現のチャペルまで、激しく降る雨(私たちはこれを清めの雨だと考えた)の中を跪いて歩きながらロザリオの祈りの15玄義を黙想した。


 ポルトガルの元后である童貞聖マリアの御旗を先頭に、私たちの「色」を告げ知らせる私たちの愛する「聖ピオ十世会」の名前もよく見えるように書き添えて進んだ。私たちは皆、この公の償いと犠牲の行為をすることが出来、大きな喜びに満ちていた。修道院への帰りには、靴も服もずぶ濡れだった。しかし心を霊魂は、天主と聖母マリアに何か美しいことを捧げることが出来たことで輝いていた。

 主日の朝は、諸宗教会議のミサの時、世界で流行している諸宗教のさまざまな衣装での行列があった。この時は私たちは「司牧センター」の入り口に集まった。私たちは跪いてロザリオの祈りを始めた。そして私たちはキリエ・エレイソン(主よ、憐れみ給え)と、クレド(使徒信経)を歌った。

 この歌がうたわれているとき、聖ピオ十世会のダンジュー神父は司牧センターの中に入り、自分の手で聖ピオ十世会の報道発表(プレス・リリース)と配っていた5つのビラを手渡した。全ては何も問題なく行われた。スータンを着た司祭をみて事務局にいた3人は恐れをなしたようであった。この人は何をしに来たのか?と思っていた様子であった。ダンジュー神父はただ聖ピオ十世会の名前によって封筒を手渡し、そして信者たちとの祈りへと戻って行った。

 フランス・カトリック青年運動の2名の青年たちは、神父の立ち去った後にしばらくいたが、事務局の人々が聖ピオ十世会の報道発表を読み、非常に驚いていたのを見て喜んだ。

 ラテン語の歌が終わると私たちは、諸宗教の集会の場を立ち去った。最後にビラを配り、私たちの3日間の償いの日々の締めくくりとした。教会の聖職者たちの宗教無差別主義、忘恩は、私たちを驚かせるが、私たちは天主に希望をおく。


ポルトガルにおける聖ピオ十世会の報道発表


Fraternidade Sacerdotal Sao Pio X
Estrada de Chelas, 29-31
1900-148 Lisboa
Tel. : 218 143 591 ; Fax : 218 151 999
Tradicaocatolica-s.pio-x@oninet.pt

リスボンにて 2003年10月9日

 ポルトガルの聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちは、2003年10月10日から12日まで行われるファチマの国際・諸宗教大会に躓いた数千のカトリック信者の声を反響する。

 聖ピオ十世会は、ファチマに国際的な代表団を送る。その使命は童貞聖マリアに対して為された侮辱を償い、カトリック信者たちにこのような大会が極めてゆゆしいことを伝えることにある。この代表団はこのようにして、天主の御母にして私たちの天の母に対して為された侮辱を償わなければならないと感じる世界中に散在する全てのカトリック信者の声を反響するだろう。

 ファチマのメッセージを知る人は誰でも、童貞聖マリアが全ての人々に回心することを求めていること、また聖母は決してエキュメニカルではないことを知っている。「かわいそうな罪人たち」を救うのは聖母の汚れ無き御心への信心である。仏陀の心、モハメットの心、ルターの心が真の天主を愛し、人々を救ったのではない。これらはもはや土でしかない。童貞聖マリアの御心は今、天にあり、脈を打ち、天主を愛し、私たちを救おうと望んでおられる。


ファチマの国際大会について

*イエズス・キリストは忘れられた

 イエズス・キリストは、ご自分の教え以外の教えを説教する偽りの預言者に気をつけて賢明であるように勧告したが、その勧告は軽視されている。「まことにまことに私はいう。私は羊の門である。私より前に【メシアとして】来た人はみな、盗人で掠奪者である。羊は、かれらのいうことを聞かなかった。私は門である。私を通って入る人は救われ、出入りして牧草を見つけるだろう。しかし、盗人は、盗み、殺し、ほろぼすためにだけくる」(ヨハネ10:7)  また 「あなたたちは人にまどわされないように気をつけよ。おおくの人が、私の名をかたり、"私こそキリストだ"といって、おびただしい数の人を迷わすだろう」(マテオ24:4)。「偽預言者を警戒せよ。」(マテオ7:15)


 イエズス・キリストがメシア(唯一の救い主)であり天主であること、またイエズス・キリストを信じることが全ての人々の救いのために必要であることは脇に置かれるだろう。この会議は、カトリックの信仰を宣言するよりも、その他の偽りの宗教の代表者たちと打ち合わせをするのを好むからである。

 イエズス・キリストは言われた。「人々の前で、私の味方だと宣言する人を、私もまた、天にいます私の父のみ前で、その人の味方だと宣言しよう。人々の前で私をいなむ者を、私もまた、天にいます私の父のみ前でいなもう」(マテオ10:32)。 他方でこの会議は、カトリック信者らをしてイエズス・キリスト、唯一の天主であるイエズス・キリストを否む機会に置かせる。

 イエズス・キリストは、ユダヤ人たちにこう言った。「あなたたちは、聖書をさぐりそのなかで永遠の命を得ようと思っている。その聖書が、私を証明している」(ヨハネ5:39)。そして私たちの主はエンマウスの弟子たちに教えながら「モイゼからはじめすべての預言者にわたり、聖書のすべての本の中で、自分についてしるされたことをかれらに説明された」(ルカ24:27)、つまり、ご自分が約束され告げ知らされていたメシアであることを証明された。それに反して、この会議は私たちの主が真のメシアであることを取り上げようとしない。

 イエズス・キリストは「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人父のみもとにはいけない」(ヨハネ14:6)と言われた。この会議は、イエズス・キリスト以外にも真理があり、天主へ行く道があると考えている。

 イエズス・キリストは言われた。「私は世の光である。私にしたがう人はやみの中を歩かず、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)。しかし、この会議は諸宗教の議論において別の「光」を見つけ出すことが出来るだろうと提案している。

 イエズス・キリストはこう断定している。「私には、天と地との一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28:18-20)、「信じて洗礼をうける人は救われ、信じない人は亡ぼされる」(マルコ16:16)。しかしこの会議は、人間によって作られた宗教、あるいは情念の動きによって変形させられた宗教の信奉者たちによって提示される宗教体験へと、あらぬ方向へカトリック信者らの注意を向けさせる。それよりもゆゆしいことは、この会議が非キリスト教の宗教にも関心を持っていることである。これら非キリスト教については詩篇95で聖霊は「真の信仰を持たない人々の神々は、悪魔である」と言っている。

 まさしく、天主はその嘆きを新たにすることが出来給う。「我が民は、二重の悪を犯した。我が民は、亀裂が入って水のたまらない貯水池を掘るために、生ける水の源である私を見捨てた」(エレミア2:13)


 1917年10月13日、私たちのいとも聖なる天の母はこう言われた。「私たちの主、天主をもうこれ以上【罪によって】侮辱しないように。主は既に侮辱されすぎています。」

 ルシアは自分の手記の中でこう解説している。「何と愛に満ちた不満、何と優しさに満ちた訴えでしょうか。これは、全世界にこれを鳴り響かせ、天の母の全ての子らがこの声を聞くようにすることを私に求めるでしょう。」(第2手記)


*カトリック教会は忘れられた!

 カトリック教会は、教皇レオ13世の正当な口を通して1895年9月15日ギボンス枢機卿にこう言いならが、その意見を表明している。

 「私はアメリカで、カトリック信者たちが、区別なく、カトリック教会を離れた者たちと一致して、宗教問題或いは道徳問題に関して取り扱う集会が開かれると知らされた。ここにおいて人々がどの宗教を信じているのかということを省略し、或いはカトリックの教えの幾つかの原理を忘れ去ってしまっている沈黙には、罪がないなどと信じてはならない。何故なら、それがどのようなものであれ、全ての真理は、唯一の同じ方、聖父の懐にましましたもう御ひとり子によって創られ、教えられたからである。」

 このアメリカでの会議、特にこの「諸宗教の精神的統一」運動の推進者であったシャルボネル(Charbonnel)神父は、数年後に司祭職を辞めて還俗している、というのは、この歴史が何かを明らかにする事実である。

 真の教会の印である、カトリック教会が「一であること」が、いわゆる、イエズスの望みを実現させるという口実で、他の諸宗教との一致を探すことによって、疑問視されることになる。

 真の教会のもう一つの印である、教会が空間において全世界に広がっていること、すなわちカトリック(=普遍)であることは、エキュメニズムのために開かれてるという努力がなければ、教会は自分の殻に閉じこもっていることになる、という断言によって否定されている。

 また教会の、時における普遍性も否定されている。何故なら、教会は将来新しい次元を持ち、新しい形、おそらく「天主の未来」と主張されている形を取るであろうと言われているからである!


 この会議には、ピオ11世教皇がその回勅『モルタリウム・アニモス』(1928年10月1日)によって排斥した、カトリック教会の真の本性に関する誤謬を適応することが出来る。

 「この全ての問題の基礎にある、そして、私が上述したようにキリスト教の諸教会を連合させるための非カトリック者の多くの活動と努力が出てくる、その誤謬を示し、それに反論する時が来ました。この計画の作者らは、キリストのこの御言葉を引用するのを常とします。『全てが一つになるように。一つの群れ、一つの牧者となるだろう』(ヨハネ17:21, 10:16)と。あたかも彼らによれば、キリスト・イエズスの祈りと長いが今に至るまで死文書となっていたかのように、彼らは「唯一の真の教会の性質である信仰と統治の一致が、今に至るまでほとんど存在したことも無く今も存在していない」ということを、「本当のことを言えば、それを願い、時としては共通の意志の疎通により実現できるのだが、しかし、それはやはり一種のユートピアとして考えるべきである」ということを支持しています。彼らは加えてこういうのです。『教会はそれ自体その本性からして分かれている。即ち、教会は、教義のうえでいくらかの共通点を持ちながらも、その他の点でそれぞれ異なる更に細分化された多くの教会、又は、個別の共同体によって構成されている。そしてそれぞれの教会は、同じ権利を享受する。特に使徒の時代から最初の幾つかの公会議までは、教会は一つであり唯一だった。そこで、たとえ最も古くからの論争であれ、教義の違いであれ、今日までこれらの教会を分裂し続けているものは、忘れ取り去らねばならない。更に別の教義上の真理とともに、共通の信仰の確かな基準を提示し、築き上げなければならない。この信仰宣言において、彼らは自分たちが知る以上に、互いが兄弟であると感じるようになるだろう。更に、さまざまな教会や共同体が、一度、全世界的な一種の連邦を結べば不敬虔の進歩に対抗して力強く勝利を勝ち取るとるために戦うことができるようになるだろう。…』 ・・・」


*聖母マリアは忘れられている!

 この会議は、偽りの諸宗教の代表者との友好的な対話と言うことに気を取られ、聖母マリアが天主の御母であること、聖マリアが童貞女でありかつ母であること、聖母の無原罪の御宿り、など聖母に関する全ての教義の信仰宣言を単なる「意見」に落としめるだろう。

 天主は童貞聖マリアをファチマに遣わし全世界に関するメッセージを伝えた。しかしこの会議は、聖母マリアが霊魂の救いのために一人一人に伝えようとお望みになった宝を縮小させ、歪曲させ、相対化させるだろう。この宝とは、とりわけ地獄と煉獄と天国が存在すること、そして諸聖人の通功というドグマである。このメッセージは、また、ミサ聖祭の価値について、罪を償うことについて、罪人らの回心のために犠牲を捧げなければならないことについて、私たちに思い起こさせる。このメッセージの対象は、カトリック信者だけに限られない。初土曜日の信心の御要求とカトリック教会による、ロシアの聖母の汚れ無き御心への奉献の御要求は、このことを良く現している。しかしこの会議の精神と組織とによって、これらの真理は全て窒息させられている。

 以上のことを、シスター・ルシアがなした美しい教え(「ファチマのメッセージの呼びかけ」によって閉じることにしよう。

 「イエズス・キリストにおいて、人類の救いのために屠られたいけにえとなるのは、聖母マリアから受けた肉体であります。キリストの動脈を流れ、その天主なる聖心から湧きだしたのは、聖母マリアから受けた御血であります。聖母マリアからお受けになったこの同じ体と同じ血潮こそが、聖変化舌パンとぶどう酒との外見の下に、毎日の糧として私たちに与えられるのです。それは私たちにおいて聖寵の命を強め、そうすることにより、キリストの神秘体の肢体である私たちにおいて、それぞれがキリストに帰依し、キリストと協力するその程度に従って、全ての個々の人々の救いのための贖いの業を続けるためなのです。」


*この会議は、従って冒とくである。何故なら、

 冒とくとは、天主を軽蔑する、或いは天主やその聖人たちを侮辱する言葉、態度、行為のことである。冒とくは、いつ為されるものであれ、重大な犯罪である。ところで、この会議はイエズス・キリストが天主であること、イエズス・キリストの御業を絶対に受け入れなければならないことを軽蔑させ、矮小化し、更には暗黙のうちに否定させるものであるが故に、不幸なことであるが、冒頭の定義に正確に当てはまるものとなる。

 黙認のうちに、一体いつまで背教は続くのか?


From DICI No83


諸宗教のエキュメニカルな指針は
今やファチマにも

 ジョン・ヴェナリ(John Vennari)氏は、やはりファチマで開かれた諸宗教の会議の目撃証人となり、「ファチマは、諸宗教の神殿となるのか Fatima to Become Interfaith Shrine?」という記事を書いている。詳しくは
link http://www.fatima.org/news/newsviews/sprep111303.asp をご覧下さい。

 それによると、ジョン・ヴェナリ氏は、ファチマで開かれた2003年10月10-12日の汎宗教会議に行き、そこには、かつて出会ったこともなかったような最も明らかな異端が含まれていたことを証言している。


 自称「科学的」な会議は(私たちなら普通は「学術会議」とでも言うのですが)、カトリック、仏教、ヒンズー、イスラムなどの「聖所・聖域」の重要さを議論し、「私たちが共通に持っているもの」が強調された。

 ファチマで開催されたにもかかわらず、ファチマについては1,2回、ついでに言及されたのみで、ファチマのメッセージとその歴史、ファチマの聖所の起源については全く触れられなかった。ロザリオの祈り、聖母の汚れ無き御心、地獄のヴィジョン、5回の初土の信心、罪の償いなど、ファチマのメッセージを最も重要な構成要素は、話しにも上らなかった。

 この会議のうち最も重要な2つの講話は英語でなされた。その一つはジャック・ドュピュイ(Jacques Dupuis)神父のもので、もう一つは Michael J. Fitzgerald 大司教のものだった。

 ジャック・ドュピュイ神父は、唯一の真理の教会が存在するとか、この教会の他には救いがないという真理を、あたかも汚物に触れるかのように取り扱った。しかし、この真理は、カトリック教会によって三回も不可謬権を行使されて荘厳に教えられたドグマである。たとえば「教会の外に救いなし」という最も力強く明確な定義は、フィレンツェの公会議の際に宣言された。

 しかし、ドュピュイ神父は、この教会の教えに対する軽蔑を全くあからさまに吐き出した。「教会の外に救いなし」という質問に対して、神父は嫌悪感をもって、「ここで、1442年のフィレンツェ公会議の嫌らしいテキストを持ち出す必要はない」と答えた。

 では、この会議に参列していた人々は、ドュピュイ神父の大胆な発言を受けてどう反応したか? 神父の講演会の終わりには莫大な拍手をして喜んだ。最も心配すべきは、この講話会には、ポルトガルのほとんど全ての高位聖職者が参加しており、ドュピュイ神父の背教を熱烈に歓迎していたということだ。

 私(ヴェナリ)の左横には、ファチマの聖所の責任者であるモンシニョール・ルチアノ・ゲラ師が座っていたが、彼はドュピュイ神父の講演に盛大な拍手を送っていた。私の右横にはポルトガルの教皇大使、つまり、ポルトガルにおける教皇様の代理が座っておられた。彼もドュピュイ神父に絶賛の拍手を送っていた。レイリア・ファチマの司教(D. Serafim de Sousa Ferreira e Silva)も、拍手喝采していた。

 更にひどいのは、その翌日、諸宗教の対話のための教皇庁立委員会議長のマイケル・フィツジェラルド(Michael Fitzgerald)大司教が、「昨日は、ドュピュイ神父が私たちに、他の宗教の人々と関係をもつための神学的基礎を説明してくれました」と、ドュピュイ神父の異端を賛美したことである。

 インドのヴァイランカンニ(Vailankanni)の聖母の聖所のバジリカの責任者であるアルル・イルダヤム(Arul Irudayam)神父は、聖母御出現のこの聖所の歴史をうまく語り、ヒンドゥー教信者を含めて、毎年数百万の巡礼者を迎える、と語った。そして、今では、エキュメニズムのために、ヒンドゥー教徒らは、ヒンドゥー教の宗教儀式をカトリック教会の中でするようになったと嬉しそうに語った。

 もし、カトリック信者らが組織だってこれに反対しない限り、ファチマの聖所に冒とくが行われるのは、時間の問題だろう。実際、ファチマの現代式の新しい聖所の建設の計画が既に立てられている。

 シスター・ルシアは1957年フエンテス神父とインタビューをし、こう語っているが、私たちはここでシスター・ルシアの警告を思い出す。

 「神父様、悪魔は聖母マリアに対して決定的な戦いを挑もうとしています。悪魔は天主を最も侮辱することが何か、また最も短期間にどうやったら最も多くの霊魂らを地獄に落とすことが出来るか知っています。だから悪魔は天主に捧げられた霊魂(=聖職者たちのこと)を勝ち取ろうと全てのことをしています。何故なら、こうすることによって悪魔は、指導者によって捨てられた信者らの霊魂たちが取り残され、いとも簡単に彼らを餌食にすることが出来るからです。」

 「聖母の汚れ無き御心とイエズスの聖心を悲しませることは、修道者、司祭の霊魂たちが堕落することです。悪魔は、自分の美しい召命の道から堕ちた修道者と司祭らが、多くの霊魂を地獄に引きずり下ろすことを知っています。・・・悪魔は、天主に捧げられた霊魂たちを奪いたいと望んでいます。悪魔は、彼らを腐敗させるように試みています。それは彼らが平信徒の霊魂たちを眠り込ませる子守歌を歌い、彼らが最終的に罪を痛悔しないように導くためです。」


罫線


トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)