マニラのeそよ風

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第209号 2003/11/18 使徒聖ペトロ、聖パウロ大聖堂の献堂式

聖ペトロ、聖パウロ
聖ペトロと聖パウロ


「主よ、私は数々の罪を犯して主に背き奉った罪人で、幸いな死を遂げる柄ではない。しかし主は私の為に十字架上で御死去あそばしたのであるから、私は主の御傷と御死去とに深く縋り奉る。願わくは御憐れみを垂れて私の罪を赦し給え。主を心より愛さしめ給え。」

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、11月は死者の月ですから、死について黙想しましょう。今回は聖アルフォンソによる「善人の死について」の黙想をなさるのはいかがでしょうか。


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その1

 「聖者の死は主の御前に貴い」(詩篇25-15)。

 聖ベルナルドは「聖者の死の貴い理由は、彼の苦労の終わりにして、命の門口だからである。苦しみも、悲しみも、誘惑も、戦いも、主を失い奉る心配さえも、全て終わりを告げ、楽しい幸福の世界がここに開かれるのである。」と言っている。

 悪人にとっては胸をえぐられる「この世を去れ」という命令も、決して善人を苦しめる事はない。彼らは一生涯、主を唯一の宝としていたのであるから、世の宝を離れるのは少しも苦痛ではない。今まで名誉も軽視してきたので、これを棄てることになっても格別辛い思いをすることはない。妻子であろうと、親兄弟であろうと、主に対してこそ愛していたのだ。彼らと別れるといっても、そうまで悲しく思う筈が無い。彼等は常に主をもって自分の全ての宝、全ての楽しみとし、「ああ我が天主よ!ああ我が全てよ!」と言いながら一生を送ってきたのである。いよいよこの世を発つという段になっては、尚更喜んでこの語を繰り返すのみである。

 臨終の苦悶すらも、彼等はそうまで耐え難いものであるとは思わない。かえって、己の命の最後の一息までも捧げつくして主を愛し奉ることができることを幸いとするのである。彼等はイエズスが自分を愛して、自分の為にお捧げ下さったその貴い御命の生贄に自分の命を合わせて捧げ奉るのを、何よりも満足に思うのである。

 主よ、私は数々の罪を犯して主に背き奉った罪人で、かかる幸いな死を遂げる柄ではない。しかし主は私の為に十字架上で御死去あそばしたのであるから、私は主の御傷と御死去とに深く縋り奉る。願わくは御憐れみを垂れて私の罪を赦し給え。主を心より愛さしめ給え。


その2

 死ぬとその日から罪に誘われる気遣いも、主を失い奉る危険も全くなくなるのを見て、善人はどんなにか嬉しく思うだろうか。しっかりと十字架を握り締めて今こそ「安全に眠り、かつ休まん」(詩篇4-9)と叫ぶ時の喜びは、ああいかばかりであろうか!

 なるほど悪魔は私の罪を目の前に並べ立てて心に懸念を起こさせ、失望の淵に突き落とそうとするであろう。しかし、今のうちにその罪を悔い悲しみ、真心から主を愛し奉るなら、慈しみ深き主の事であるし、決して私を見棄て給うまい。私を救いたいという主の御望みは、私を滅ぼしたいという悪魔のそれよりも幾倍も激しいのだから、必ず私を慰め、心を安め、気を励まし、力づけてくださるに違いないのである。

 死は生の門である。主は真実にして約束を違えられることはない。されば彼の危うい最後の場合に臨んで、かねてより主を愛する霊魂をどうして慰め給わぬ筈があろうか。容易ならぬ臨終の苦悶の中にも、言い知れぬ天国の歓楽を幾分なりとも心に感じさせて下さらぬ筈があろうか。深く信頼する心、偽りなき愛情、主を目の当りに仰ぎ見たい望みを起こす毎に、どうして永遠に楽しむべき天国の平和の幾分かを現世にありながら味あわせて下さらない筈があろうか。殊にネリの聖フィリッポの如く、聖体を仰ぎ見て、「ああ私の愛する御方よ!ああ私の愛する御方よ!」と叫び出す程の人であれば、臨終の聖体を拝領するに際して如何なる喜びに躍り立つことであろうか。

 最愛のイエズスよ、主は私の裁判官にてましますが、また救い主でもあらせられる。私を救わんが為に、御血も御命も擲ち給うた。なにとぞ私を憐れみ給え。御手を伸ばして私を罪悪の中より救い上げ、主を一心に愛せしめ給え。


その3

 考えてみると、死は決して恐るべきものではない。恐るべきは死を禍となす罪のみである。福者コロンビエールは言った。「一生涯忠実に主に仕え奉る人が、憐れな死を遂げることはあり得ない」と。

 されば真心から主を愛する人は、むしろ死を希うものである。死ねばその愛する主の御前に行くのである。永遠に主と結ばれるのである。自分の愛する御方と一つになることを希わない者があろうか。早く主の御前に行きたい、早く主を仰ぎ見たいと希わない者は厚く主を愛していないのではあるまいか?

 私はもう一切の被造物から心を引き離して、死を甘んじ受ける準備をせねばならぬ。今被造物を離れるのは少なからぬ功徳になる。しかし後に余儀なく離れては何の功徳にもならないばかりか、大いに霊魂の為に危険である。これからは毎日毎日が今日限りと思って生きて行かねばならぬ。死を目の前に眺めつつある人はその行いがどんなに正しくなるであろうか。

 ああ、私が主を目の当りに仰ぎ見て一心に愛し奉る時はいつ到来するであろうか。私はもとよりそのような幸を受けるに価しない。しかし主の御傷は私の唯一の希望である。私はこの希望に励まされて、聖アウグスチヌスと共に「いざ主よ、いざ早く死して御顔を仰ぎ見たらしめ給え」と申し上げたい。然り、愛すべきイエズスよ、私は早く死んで主の御顔を仰ぎ、主の御腕に縋って、いつまでも主を離れ奉る気遣いもなく、心安んじて終わり無く楽しみたいものである。

 ああ聖母よ、私は御子の御血と、御身のお取次ぎとに深く頼り奉る。何とぞ私に救霊の恵みを得させ、天の御国において永遠に主を賛美し、感謝し、愛慕する幸いを得さしめ給え。アーメン。


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トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)