マニラのeそよ風

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第193号 2003/10/16 聖ヘドヴィジェの祝日

聖ヘドヴィジェ
聖ヘドウィグ


 「私が、地上に平和を与えるために来たと思うのか。私はいう。そうではない。むしろ分裂のために来た」(ルカ12:51)

第2バチカン公会議についてよく知ろう!


その6 キリストの平和と第2バチカン公会議の平和

アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、
 私たちは、これまでに第2バチカン公会議がやろうとした「新しさ」を見ました。それは「全人類の一致・統一」と言うことでした。

 ところで、私たちは聖書の中にはそのような観点がないと言うことを確認しました。聖書の観点は、もっと別なところにあります。これはヨーロッパのカテドラルの入り口の石の門によく刻み込まれているものですが、最後の審判です。キリストが真ん中に座し、キリストの右に選ばれた者たちが、キリストの左には呪われた者たちがいます。

 「こう聞いて驚いてはならぬ。墓にいる人々が皆その御声の呼びかけを聞き、墓を出るときが来る。善を行った人は命のために、悪を行った人は永遠の罰のためによみがえる。」(ヨハネ5:28-29)

 第2バチカン公会議には、そのようなヴィジョンがありません。第2バチカン公会議の索引を調べて「救い」とか「贖い」といった言葉を調べても、キリストが全ての人々を一人も例外なく救った、全人類は全て救われている、人間個人の持つ自由はどうしても天主のもっている全人類を救おうという望みに打ち勝つことは出来ず、全ての人々は望もうと望まないと例外なく完全に救われることになっている、ということを前提にしていると言うことにぶつかります。

 例えば、「現代世界憲章」の38にはこうあります。

 「キリストは・・・全人類の兄弟的集まりを確立する努力が無駄なものではない、という確信を与える。・・・復活によって主に立てられ、天と地における全権を与えられたキリストは、その霊の力をもって人々の心の中にすでに働いている。キリストは来るべき世に対する願望を起こさせ、それによって、生活をいっそう人間らしいものにし、地上全体をこの目的に従わせようと努力する人類家族の心をこめた願いを力づけ、清め、強める。」

 第2バチカン公会議のこの数行では、既に、「来るべき世」である天国の福楽と、「地上全体の生活をいっそう人間らしくする」という目的を同等に扱っています。そして、これに続く言葉では、永遠の命を求めるのは全ての人々の務めではなく、一部の人々が心にかけることであり、その他はこの世の人間生活に没頭し、そのために全ての力を結集しなければならないと言います。

 「霊のたまものはいろいろである。霊はある人を、天上の生活の望みについて公然とあかしを立て、人類家族の中にこの望みをいきいきと保つように呼ぶ。ある人を、人々に対する地上的奉仕のために身をささげ、この役務によって天国のことを準備するように呼ぶ。」(「現代世界憲章」38番)

 第2バチカン公会議は、導入部でも結論でも、地上のことにおいても天上のことにおいても、どのような人であっても、全ての人々は既に救われている、という観点を離しません。

 「しかし、霊はすべての人を解放して、かれらが自己愛を放棄して、人間生活のためにすべての地上的力を結集し、人類そのものが神に喜ばれる供え物となる未来の時を目ざして努力させる。」

 難しい文章ですが、いろいろな道によって、人類家族それ自体全体として救われていること、そして全人類がますます人間的になっていくことが語られます。第2バチカン公会議のこの観点の根底には、人類の超自然の命による救いは、既にほとんど獲得されたものである(従って、この超自然の救いと言うことは、あまり心配しなくても良く、一部の証を立てる人がいればそれでよい)けれども、この地上の人間生活のためには、ほとんど全てをやり残しているので、「すべての地上的力を結集し」なければならないのです。ですから、普通のキリスト者の「召命」は、文句なく、政治的召命なのです。

 その時 「健全な社会化」(42番)のおかげで得られた人類の一致は、教会が促進しなければならないもののようにあらわれます。専門的に宗教に関わることや真の意味での超自然的なキリスト教的「刷新」についてはほとんど語られず、第2バチカン公会議は別の「新しさ」、人類の統一による「平和」を説きます。そしてキリスト教的な本当の意味での新しさはその陰に隠れてしまっています。

 では、キリストのもたらす平和、天主と人との平和と和解、超自然の平和は、人類の統一による人間の「平和」とは、互いに相容れることができるのでしょうか? 今回はそのことを考えてみましょう。


 大聖グレゴリオが言うように、キリスト者には2つの種類の平和が提示されています。天主からのものである霊的な平和と、人間の作り出そうとする平和です。天主からの平和は長く持続し、安定したものですが、人間の平和は短く、不安定で、儚いものです。

 現代のいわゆる知識人の中には、民主主義が全地上で勝利を収めることによって、歴史は終わりを告げる、と主張する人がいます。人類史とは、民主主義の歴史であって、人間が人間のために人間を支配するという民主主義が全世界に広まるとき、全ての人々にとって幸福で安楽の社会が到来し、そこにはもはや競争も嫉妬も、妬みも争いもなく、全ての人々は自由になり平等である、と主張します。マルクス主義は、歴史の究極として階級のない社会という理想を説いていましたが、ソ連の崩壊と鉄のカーテンの崩壊によって共産主義が敗北した後には、マルクス主義的な歴史の究極ではなく、資本主義の色を付けた世界統一による幸せな人類統一という歌を聞かされています。

 ソ連の崩壊、共産主義の敗北、などという歴史の思わぬ展開は、私たちに人間の作り出そうとする平和がいかに儚いかと言うことを教えています。私たちキリスト者は、この世が与える平和の短さ、その偽りを、改めて確認します。この世の平和は、力関係に、力の緊張関係の上に成り立っています。この平和を享受している、いわゆる先進国では、この「平和」はどこもかしこにもある鉄のような規則と法規定の上にようやく成立していることが分かります。そして力の緊張関係を少しでも崩してしまうと、世界のどこかではある一国の経済的な潜在能力を壊し尽くしてしまうこともできるのです。この平和は、買ったり売ったり消費したりすることを禁止しませんが、思考することを禁止しているようです。大衆が望まないこと、大多数がそう思わないことは、それを発表することが禁止されるかのようです。

 トクヴィル(Tocqueville)は、キリスト教世界の中の「異端審問」でさえもすることができなかったことをアメリカの民主主義はすることに成功している、と既に指摘しています。「異端審問は、おびただしい数の宗教に反対する書物がスペインに出回ることを防ぐことが全く出来なかった。アメリカでは、多数決の帝国はスペインの異端審問よりももっとすごいことをしている。多数に反するようなものを出版するという考えさえも取り除いているからだ。」

 哲学者で有名なパルカルは「間違いは、それが真理と似れば似ているほど、より大きな間違いだ」と言っていますが、この世の与える平和も、天主の平和と外面的にはよく似ています。本当の幸せを与えるわけではないのですが、肉体的な福祉をもたらそうとします。天主の与える「至福」は与えることが出来ませんが、私たちの精神を麻痺させるほどの肉体的な快楽、贅沢、安楽を与え、満足させます。この世が与える倦怠は、つまりそれが虚しく、うつろで、内的光がないことを意味しています。

 それとは反対に、聖福音が私たちに与える平和は、内的な光に満ちています。私たちを越える天主からの賜である平和は、私たちから不安を取り除きます。「恐れるな!」とは私たちの主イエズス・キリストの言葉です。この平和は、私たちの自然本性に由来するものではなく、私たちが自分自身を納得させてこしらえた自己満足的な精神安定からのものでもなく、私たちがイエズス・キリストの権威を認めた上で生じるものです。真の平和は、正しい秩序の平穏さであり、私たちが天主の秩序を受け入れた上で生じるのです。私たちが、天主に立ち返り、回心し、私たちを天主に捧げるとき、全てを天主へと秩序付けるときに、この平和が生じます。私たちが、天主の王国ために生きること、聖寵の王国において生きること、そのために全ての自分勝手と自分の肉の望みを捨て去ること、その時に天主の平和が生じるのです。王たるキリストの祝日の序唱にはキリストの王国を「正義と愛と平和の王国」と描写していますが、まさに、私たちがイエズス・キリストを王として、全てに越えて愛し、キリストに従順したとき、この「正義と愛と平和の王国」に生きるのです。

 天主の平和は、キリストが十字架の上で勝ち取った平和です。復活による勝利の平和です。イエズス・キリストが、私たちのために本当の安全と本当の天主の命を勝ち取った勝利の平和です。イエズス・キリストが私たちをサタンから奪い返し、私たちにくれる平和です。キリストがその苦しみと屈辱と苦悩によって得た、真の継続する平和です。キリストの十字架の木の実りとしての平和です。

 もし、私たちが本当の平和を得ようとするなら、平和の果実を味わおうとするなら、その平和のなる木も受け取らなければなりません。つまり、イエズス・キリストの十字架の木です。イエズス・キリストの十字架の王国を拒否する人は、本当の平和を受けることが出来ません。イエズス・キリストの十字架への奉仕を拒否する人は、その果実である本当の平和を受けることが出来ません。本当の平和は、キリストの私たちに与える平和で、キリストのみが与えることの平和です。そしてこのキリストの平和は、キリストの十字架の王国にのみ得ることが出来るのです。

キリストの王国無しに、キリストの平和無し。
キリストの平和無しに、真の平和無し。
Pax Christi in regno Christi
(ピオ11世)

 キリストの御言葉を無条件に信じる以外に、イエズス・キリストの至聖なる聖心から流れる天主の愛無しに、本当の平和はないのです。さもなければ、見せかけの「平和」であり、短く、うつろで、儚いものに過ぎないのです。これが、言ってみれば、天主の御国の霊的「戦略」です。

 私たちの主イエズス・キリストは、単に信仰だけではなく、行動を求めます。私たちは天主の平和のために、罪を避け、悪に抵抗し、天主を実践的に愛さなければなりません。霊的な戦いをしなければなりません。天の国は暴力によって奪われるのです。この暴力とは、物理的な暴力ではなく、天主への愛に満ちた従順という愛徳の「暴力」です。イエズス・キリストは、十字架の上で死ぬことによって私たちにこれを教えてくれました。キリスト者の論理は、愛徳の論理なのです。キリスト者とは天主を愛する者であり、超(!)キリスト者とは、天主を超(!)愛するものでなければなりません。

 この世には、悪が存在します。シモーヌ・ヴェーユという女性哲学者はこんなことを言ったことがあります。「悪が愛に対する関係とかけて、神秘が知性に関する関係と解く。そのこころは、どちらもそれを超自然化させる。」

 私たちが、悪に直面したとき、キリスト者はそれを天主への愛を持って忍耐強く堅忍するのです。私たちにとって十字架は、私たちの内で死よりも強い天主への愛をますます強く燃え立たせる機会となるのです。苦しみがなくのほほんとして安楽に過ごしたときには意識されず燃え立っていなかった天主への愛が、苦しみと十字架に直面としたとき、燃え立ち、私たちの思いと行いとを超自然化させるのです。

 聖パウロは言いました。

 「悪が満ちあふれるところ、聖寵は更に満ちあふれる。」

 私たちがキリスト者としてこの世に存在するために、この世の苦難のまっただ中でキリスト者として生きるために、私たちにはこの超自然の力が必要です。そうです。特に日本のような社会に生きる私たちにとって、この勇気と力が必要です。

 キリストの平和は、悪との霊的な戦いによって得られるものです。ですから、キリストはこう言いました。

 「私が、地上に平和を与えるために来たと思うのか。私はいう。そうではない。むしろ分裂のために来た」(ルカ12:51)。

 イエズス・キリストは、偽りのこの世的な平和のためではなく、この地上的な貝殻に閉じこもっている人々の「分裂」のために来られたのです。この地上のことだけに神経を集中し、全ての力を結集しようとしているひとびとを「分裂」させ、天の国があること、超自然の命があること、私たちの自然の意志を遙かに超える永遠の命という運命についておしえ、天主への愛の火に燃え立たせるために来たのです。

 人生の謎はこれです。私たちが自然の命を捨てることによって、超自然の命を受け、自然の命を保とうとして超自然の命を失うことです。この世の与える平和を享受しようとして、天主の与える平和を失い、この世の与える偽りの平和に対して霊的な戦いを挑むことによって、天主の平和を得る。聖福音は、私たちに平和のために闘えと言うのです。戦いを放棄することによって平和も失われる、と。イエズス・キリストは、偽りの平和を愛してそれにまどろんでいる人々を「分裂」させに来たのです。天主の愛のために闘うように、と。

(続く)


 善きロザリオの聖月をお過ごし下さい!

文責:トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)