マニラのeそよ風

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第189号 2003/10/14 殉教者、教皇聖カリストの祝日

教皇聖カリスト
教皇聖カリスト


 「肉に従って生きる人は肉のことを思い、霊に従う人は霊のことを思う。肉の念(おもい)は死であり、霊の念(おもい)は命と平和である。肉の念(おもい)はそのために天主の敵である。」
(ローマ8:5-7)

第2バチカン公会議についてよく知ろう!


その4 
キリスト教の新しさと第2バチカン公会議の新しさ

アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、
 私たちは、この世とこの世を占めているものを考察しました。つまり、この世は、目の欲、肉の欲、生活のおごりを持ち、肉に従って生きています。キリスト者とは、この世とその精神に逆らって生きる者です。名前だけではなく、実際にキリスト者であろうとするなら、私たちはこの地上に生きる動物のような人々を動かしている自己愛、自愛心によって生きてはなりません。「肉に従って」ではなく、私たちを動かす原動力、私たちの命、私たちの心は、別のものでなければなりません。私たちは、新しい命に、超自然の命に生かされた「新しい被造物」とならなければならないのです。「古い人」を脱ぎ捨て、「新しい人イエズス・キリスト」を着なければならないのです。

 キリスト者の行動原理は、この世間の行動原理とは全く別物です。自然的な利己主義は、超自然の天主への愛に置き換わらなければならないからです! この超自然の愛は、ダイナミックなものでこの世の知らないものです。聖ヨハネの黙示録の21章にはこうあります。「私は全てを新たにする。」

 古いこの世の知らない、新しい霊と真理の被造物になるために私たちは呼ばれているのです。聖福音の「新しさ」は、超自然が持つ新しさであり、この世の「新しさ」とは全く別のものです。いえ、それどころか、Nihil novi sub sole! この世では、新しいことなど何もの無いのです! 聖福音の「新しさ」こそ真の意味の新しさであり、時を越えた新しさなのです。愛そのものである天主の永遠の命の「新しさ」なのです。

 他方で、目の欲、肉の欲、生活のおごりを持ち、肉に従って生きている「世界」は、死の陰に座り、死に向かって歩んでいます。「あなたたちが肉に従って生きるなら死に定められている」(ローマ8:13)。

 「肉に従って生きる人は肉のことを思い、霊に従う人は霊のことを思う。肉の念(おもい)は死であり、霊の念(おもい)は命と平和である。肉の念(おもい)はそのために天主の敵である。」(ローマ8:5-7)

 この目の欲、肉の欲、とはいったい何なのでしょうか? それは自分を満足させることだけを追求してやまないけれども、決して満足することが出来ない欲望です。この世はこの欲望のことをよく知っており、広告宣伝、流行などは、エサとなる盲目的な崇拝の対象であるが故に、機能しているのです。必要でもないのに買ったり、使いもしないのに使うだろうと思いこんだり、素晴らしいものだと思いこんで手にしたとたん飽きてしまうのです! 流行は私たちの欲情のようにあっという間に変化します。いえ、私たちの気まぐれな欲望をそそり立てるために、流行は気まぐれに姿を変えて止まることがないのです。私たちが最新流行を手にして欲望を満足させたその瞬間、流行は私たちの目の前に新しいものを見せつけて、望ませるのです。私たちが手にしたばかりのものと同様、全くの幻想であり私たちの実際の堅実な生活とはほとんどかけ離れたものの幻像を見せつけるのです。最新流行は、こうしてあっという間に廃れ、この「世」は常に古く、時代遅れなのです。これがこの世の虚栄のむなしさ・はかなさです。

 聖パウロは言います。「全被造物は自分の望みによってではなく、自分を服従させたものによってはかなさに服従させられた」(ローマ8:20)。

 全被造物は、それ自体でははかないものではありません。しかし「はかなさに服従させられた」のです。天主が創ったものであるのにもかかわらず、何故「はかないもの」となってしまったのでしょうか? この「はかなさ」、むなしさはどこから来るのでしょうか? この「はかなさ」は天主が望んでそうお作りになったのではなく、人間の罪から来るものであり、人間の罪以外に由来するところがありません。罪の故に、全ては、全被造物は、はかなくなってしまったのです! 罪が故に、全ては死ななければならないのです! これが「世」のはかなさです!

 しかし、聖福音は私たちに命を与えます。新しい命を。聖福音は私たちの持つこの世の望みを愛徳へと変化さかせて、高めるのです。聖福音は、自分を与えることを、自分を忘れることを私たちに教えます。この世はこの新しい愛をいつまでも知ることがありません。

 兄弟の皆様、私たち自身をよく調べてみましょう。

 私たちは実は骨の髄までこの「世」の精神と欲が染みわたっているのではないでしょうか? 私たちは聖福音のもつ「新しさ」を受け入れるのに苦痛を感じているのではないでしょうか? 聖福音は「世」を排斥しますが、まず、私たち自身の中に巣くう「世」を排斥しなければなりません。「この世とは、他人のことだ」とか「地獄とは、他人のことだ」とうそぶきながら、自分のことをほったらかしにしていることは出来ません。この世は、まず、私たちの奥底にあって、荒々しく鼻息を立てているのではないでしょうか? 聖福音の鋭い針がちくちくと心に刺し通るとき、痛がっているのではないでしょうか?

 シエナの聖女カタリナは、グレゴリオ11世にこう手紙を書いています。

 「自分自身を認識する霊魂は、高ぶる理由を見いだすことが出来ませんから、謙遜になります。そして自分の中に、極めて熱烈な愛徳(カリタス)の甘美な実を育てます。何故なら、自分の中に天主の限りない慈しみを認識するからです。このような霊魂は、自分が『無いもの』であることを認め、自分が持っている「存在」を、『ありてある方(=天主)』に帰するのです。そうすると、霊魂は天主が愛するものを愛し、天主が憎むものを憎まざるを得ません。この甘美で真なる認識は、憎しみの剣を身に帯び、この憎しみは・・・自愛心の虫を引き出して殺します。この虫は、私たちの木の根を害し、食い荒らします。しかも、命の実を生ずることが出来なくするばかりでなく、この木を枯らし、緑を失わせます。何故なら自分を愛する者は、あらゆる悪の始めであり根源である邪悪な傲慢を心の中に養うからです。それは、どの身分においても、上に立つものにおいても、下にいるものにおいても同じです。自分自身の愛だけに閉じこもる者、天主のためではなく、自分自身のために自分を愛する者は、悪しか為すことができません。彼の中には、全ての善徳が死滅しています。このような人は、死産児を産む女に似ています。何故なら、愛徳(カリタス)の命を所有していないために、自分自身の賛美と栄光しか目指しておらず、天主の聖名の賛美と栄光とを目指さないからです。」(第1の手紙)

 「彼らは敵意を持って背き、虚しく主に手を伸ばそうとする。私は主を憎むものを憎み、主の敵を嫌う。」(詩篇139:21)

 「この罪深い自愛心は、自分にとっても、他の人にとっても危険です。これを避けなければなりません。何故なら全ての世代の人々に害悪を与えるからです。ああ、尊敬すべき父よ、あなたが天主の慈しみによってこれをあなたの中で圧殺することを期待申し上げます。あなた自身をあなたのために愛さないで下さい。隣人をあなたのために愛さないで下さい。天主をそのように愛さないで下さい。天主は、至高かつ永遠の憐れみであって、愛されるにふさわしいので愛して下さい。イエズス・キリストの甘美な聖名の誉れと栄光とのために、あなたとあなたの隣人を愛して下さい。・・・私たちに欠けているのは、霊魂の救いに対する勇気と飢えでしかありません。しかし、父よ、これを獲得する手段がございます。それは、天主を除外した私たちに対する愛と、被造物に対する愛とから離れることです。友人にも、親族にも、地上の必要にも愛着してはいけません。ただ、善徳に、そして霊的事物の高揚に愛着しなければなりません。地上の事物が滅びるのは霊的事物の配慮を放棄するからです。」(シエナの聖女カタリナ第1の手紙)


 聖福音は、私たちの中に潜む利己主義に暴力をふるって断ち切ろうとするのです。聖福音は、謙遜と愛徳において平和をもたらすのです。聖福音は、恐るべき崇高な征服事業をしているのです。これは崇高な征服です。何故なら、愛(カリタス)そのものである天主との親密な関係に至らせるものだからです。これは恐るべきものです。何故なら、私たちの自然本性に根ざす悪を引き抜こうとするので、本性には痛みを伴うからです。これこそが、聖福音の説く「新しさ」であり「刷新」なのです。

 聖福音は全てを新しくします。しかしこれは人間に由来するものではなく、この世に由来するものではなく、天主から来るものです。私たちの霊魂に成聖の聖寵によって住まわれる天主の力によるものです。聖パウロの厳しい言葉をお聞き下さい。「しかし私は肉体の人であって罪の下に売られたものである。・・・私のうちにすなわち私の肉に、善が住んでいないことも知っている。」(ローマ7:14,18)聖パウロは、人間が生まれつき良いものである、などと決して言おうとしません。私たちは、皆が「大罪人」ではないかもしれません。いえ、むしろ「大罪人」になるには罪人なる私たちにとってものすごいエネルギーが必要であって、私たちにはそのようなエネルギーさえ無い、或いは無くなってしまっている、のかもしれません。いえ、たとえ「大罪人」と言って人間がいくらいきり立ったとしても、人の罪のうちに犯す恥ずかしい行為にはどこにも「偉大」なところが無く、惨めな罪人に他ならないのでしょう。

 私たちが、「大罪人」ではなかったとしても、惨めな平凡な罪人であったとしても、私たちには貪欲、傲慢、嫉妬、色欲、貪食、怠惰、無責任、などなどが巣くっているのではないでしょうか。天主の聖寵無しには、私たちは惨めな罪人なのです。天主の聖寵によってこそ、私たちは超自然の命において刷新できるのです。それは成聖の聖寵であり、私たちの霊魂の新しい状態なのです。成聖の聖寵は、私たちを「新しい人」にするのです。聖寵は自然を取り去らず、自然を完成させるのです。キリスト者は、聖寵の状態に生きることによって、既にこの地上にいるうちから、「新しく生まれたもの」となるのです。

(続く)


 善きロザリオの聖月をお過ごし下さい!

文責:トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)