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第185号 2003/10/10 ボルジアの聖フランシスコの祝日

第二バチカン公会議
第二バチカン公会議


 「彼らは・・・信じました。その彼らのために私は祈ります。この祈りはこの世のためではなく、あなたが与え給うた人々のためであります。」(ヨハネ17:9)

第2バチカン公会議についてよく知ろう!


その2 この世に生きるキリスト者

アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、
 私たちは第2バチカン公会議を見るに当たって、全てを、神学者のように細かく分析するつもりはありません。ただ、カトリック的であるとは何かをよく知るために、公会議の中に見いだすことの出来る「カトリック的ではない」ようなところを特に取り上げてみたいと思います。

 私たちは、ここで次のことに注意したいと思います。それは、「現代のキリスト者」と言われているような人々が、自分こそが本物の「福音的なキリスト者」であると言うために、いわゆる「苦々しい熱心」を持って「トリエントの教会像」を批判していますが、そのような「苦々しい熱心」によって公会議を見るのではない、ということです。

 兄弟の皆様の中からは、次のようなことを仰る方もいらっしゃるかもしれません。

 「神父様、確かに第2バチカン公会議の中には、誤解を招くような不幸な表現があったかもしれません。でも、公会議は公会議です。公会議に書かれてあることは、受け入れないと・・・。公会議って不可謬なんだし。世界中から一同に集まった2000名の司教様たちのなさった会議にケチを付けるなんて・・・。」

 これについては、こうお答えしたいと思います。

 まず、これは兄弟の皆様もよくご存じとは思いますが、第2バチカン公会議は新しい教義決定をすることを望まなかった「司牧的公会議」だったことを指摘したいともいます。これは第2バチカン公会議の意向に関することです。

 1966年1月12日の謁見の時に、教皇パウロ6世ご自身が「公会議の司牧的な性格を鑑みて、公会議は不可謬の印を帯びた教義を特別の仕方で宣言することを避けた」と言っています。パウロ6世教皇様は同じ事を何回も繰り返しました。1964年3月6日の神学委員会の宣言や、1964年11月16日の公会議事務総長の繰り返しの宣言などを見ても、1917年の教会法による第1323条の3の規定にしたがって、いかなることも、明らかにそうであると言われていない限り、教義的にあるいは宣言され、あるいは定義されたことにはなりません。事実、第2バチカン公会議のいかなる文章も教義の定義として公布されたものではありませんでした。
(これについて、
http://fsspxjapan.fc2web.com/qa/qa1.html
をご覧下さい。また、詳しくは
http://fsspxjapan.fc2web.com/vati2/de_vatican2.html
をご覧下さい。)

 第2バチカン公会議は、教会の歴史上初めての、教義決定ではない「司牧公会議」だったのです。

 第2に、第2バチカン公会議が、問題の取り上げ方においても、その他の公会議とは非常に異なった性格のものであったと言うことを指摘したいと思います。これは第2バチカン公会議の実際になしたことに関することです。

 ヨハネ23世は、1959年に既に公会議ではこのようなことをする、と言うことを発表していました。つまり「聖なる原理で永遠の福音に関するものと、気候や状況によって変わることとを正確に区別する」ということです。ヨハネ23世は1962年に第2バチカン公会議の開会演説でこう言っています。

 「私たちのなすべきことは、ただこの高価な宝を守って、ひたすら古いことを研究することではありません。・・・また、この世界会議が第1に目指す目標は、教会の主要な教えの幾つかを討議することではなく、教父や過去および現代の神学者たちによって伝えられ、当然ここにご列席の皆様が、知っておられる事柄を繰り返すことでもありません。」「キリスト教の教えが現代の人から、新たな熱意と明るい穏やかな心を持って受け入れられるために・・・確固不動の教えが、現代の要求する方法で探究され、説明されなければなりません。・・・表す方法は異なっていても、その教えの意味は変わるものではありません。・・・主に司牧的な性格を持つ教会の教導の任務に、最も良く合致する表現法でなければならないのです。」

 普通、カトリックの公会議とは、永遠に変わりえない教えが何かを明確に限定し、その他の変わりうることに関しては自由に任せてきました。ところが、第2バチカン公会議では、その反対に、変わりうること・変わらなければならないことが何かを区別・限定しようとしたのです。第2バチカン公会議は、以前の公会議とは全く別の目的・別の計画・別の意向を持った、別のタイプの公会議だったのです。ですから、パウロ6世教皇様が何度も言っていたように、不可謬権を行使しない公会議だったのです。第2バチカン公会議は、司牧的な性格を持つだけのもので、カトリック信者が必ず信じなければならないと言うものではありませんでした。


<「この世」とは>

 ところで、第2バチカン公会議のライトモチーフは「世界に開かれた教会」です。「世界」とは福音の言葉で言えば「この世」ということです。

 私たちの主イエズス・キリストは、こう言いました。

 「世はそれ[=真理の霊(聖霊)]を見もせず知りもしないので、それを受け入れない。しかしあなたたちは霊を知っている。霊はあなたたちと共に住んで、あなたたちの中にいますからである。」(ヨハネ14:17)

 「あなたたちはこの世で苦しむだろう。だが勇気を出せ。私はこの世に勝ったのだ。」(ヨハネ16:33)

 「彼らは・・・信じました。その彼らのために私は祈ります。この祈りはこの世のためではなく、あなたが与え給うた人々のためであります。」(ヨハネ17:9)

 聖パウロも言っています。

「私たちはここに不変の都をもたず、未来の都を探している。」(ヘブレオ13:14)

 キリスト者は、天主からの呼び出しを受けて、それに答えるため、この世とその腐敗との連帯から解き放たれようとするものなのです。

 現代日本では「小教区制度」改革の話が良く話題になりますが、小教区は、ラテン語でパロキアと言い、これはギリシア語のparoikiaに由来するものです。オイキアとは「家」という意味で、パロイキアとは、本籍地ではない「仮の家」、と言う意味です。私たちは、天国へと旅する旅人であり、私たちの本籍、祖国は、天国にあるのです。私たちは天の市民なのです。Conversatio nostra in caelis est! この地上は、仮の宿、仮の住まい、パロイキアにすぎないのです。私たちは、この世を所有しているのではなく、一時的に管理しているに過ぎません。ですから、聖パウロの言うように、この世をあたかも使っていないかのように使わなければなりません。キリスト者とは、地上の愛着から解き放たれ、天主のいる天に向かうものなのです。地上にあるものではなく、天上のことを味わうものたちなのです。これがキリスト者の召命であり、使命です。

 ところで、第2バチカン公会議の「真の隠れた意向」、その目的、その目標、「発表された結果」は何だったのでしょうか? 1965年12月7日、第2バチカン公会議の閉会に際して、パウロ6世教皇様は、こう演説をしました。

 「公会議は現代人が重視する諸価値を尊敬するだけでなく、これを認めたのであります。…」

 「単に手段として人間を愛するのではなく、人間性を超越した究極目的として人間を愛するのであります。…」

 「私たちはここで全人類をますます愛し、これによりよく仕えることを学んだのであります。」

 第2バチカン公会議では、「現代人が重視する諸価値」を超自然の目的へと到達することの出来る「手段」として認めたのではありません。なぜなら公会議は「単に手段として人間を愛するのではなく、人間性を超越した究極目的として人間を愛する」からで、「人類に仕えることをまなんだ」からです。

 つまり第2バチカン公会議によって、人間が右と言えば、教会も人間に従って右に行き、人間が左と言えば教会も左に行くように、「人間は教会の道」となったのです。現代人が重視するこの世の価値は、躊躇することなく、すなわちこれキリスト者の価値となったのです。

 だからこそ、1965年12月7日、全世界に「現代世界憲章」を発表し、「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に、貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある」と発表したのです。もちろん、この中には異端が含まれているわけではありません。教会は祈りつつ、人々の苦しみに同情しているのですから、誰もこれを怪しむわけではありません。

 でも、ここでテキストをもう一度よく読み、「現代人」一般のもつ喜びと希望、悲しみと苦しみとは何か考えてみましょう。「現代人」は、大量消費社会の消費者であり、お金儲けと安楽な生活、美味しいグルメと肉欲に喜びを求め、それを得ることを希望しているのではないでしょうか? この世での成功・名誉・財産・権力が得られなければ「現代人」は悲しみ、苦しむのではないでしょうか?

 第2バチカン公会議は、キリスト者は、自分の美徳の一つとして、この「現代人」と全く同じことを喜び、望むこと、としたのでした。

 しかし、私たちは、キリスト者として、この世のものではありません! もしもこの世の人々、「現代人」と同じ事を喜び、同じ事を望み、同じ事を悲しみ、同じ事を苦しんだとしたら、私たちは私たちの主イエズス・キリストの福音を忘れることになってしまいます。

 もしもカトリック教会が本当に、現代世界と同じことを喜び、希望していたとしたら、それはつまり教会が教会ではなくなってしまったということを意味します。教会は、この世に味を付ける「地の塩」であり、この世を照らす「世の光」であり、この世のいかなる共同体からも区別された完全な社会(ピオ11世)だからです。なぜなら、教会は人類に、この世のものではない超自然の善を提示するために存在しているからです。教会は、新しい超自然の現実、超自然の命を与えなければならないからです。教会の喜びは、超自然の秩序の喜びであり、教会の希望は、天国において超自然の命を得るという希望だからです。

 私たちは、人間嫌いではありません。私たちにはこの地上に愛する祖国があり、愛する家族があり、これらはそれ自体で善いものです。ただこの世のことはあまりにもはかなくもろい、ということです。「たとえ、全世界をもうけるとも、霊魂を失ったら何の利益があるだろうか?」

 第2バチカン公会議は、そのテキストで、このことに真っ正面から反対しないかもしれません。しかし公会議のテキストの中には、被造物がそれ自体で価値を持つこと、「地上の諸現実の自律ということ」を高揚するものが多くあるのを私たちは見いだすのです。 「事実、万物は、造られたものという条件によって、それぞれの安定、真理、善、固有の法則、秩序を賦与されている。」(「現代世界憲章」36番)

 確かに、天主の御手から創造されたばかり原初の正義の状態においては(=「造られたもの」という条件によって)、人間がどのように使うかと言う問題を超越しています。しかし私たちは現在によって私たちの本性が腐敗し、傷つけられて生まれていると言うことを忘れることが出来ません。私たちは、あたかも原罪が存在していなかったかのように語ることは出来ません。私たちは、人類が一度も被造物を悪用したことなく、常に天主の御旨に従って使ってきたかのように、表現することは出来ません。

 原罪を負って生まれてきた人類は、天主のつくった良きものを悪しきやり方で使うことが出来、しかも、しばしばそうしているのです! 人間は、その知性と自由を持って、全てに優って天主を愛すべき存在なのです。しかし、人間の自由は、全てに優って、天主よりも優って、自分自身を愛することによって、罪を犯すことが出来るのです。人間は、天主から解放されて軌道を外れ、罪から罪へと堕ちていくのです。

 「現代世界憲章」の人間観は、まさに、「原罪のない人間」なのです。確かに「罪」ついて語るところもあります。例えば「神と人間の奉仕に定められている人間活動を、罪の道具に変えてしまう虚栄と悪意に満ちた精神」(「現代世界憲章」37番)など。しかし、第2バチカン公会議の文書の中では、罪とは何か特別な場合に起こりうるものであって、人類がその中にどっぷり浸かって生まれてきている状態ではないかのように描かれています。

 天主から創られたから、自然のことであるから、すなわち、良いものである、とは言えません。例えば性欲は、天主から創られた自然のもので良いことですが、婚姻という枠組みの外での使用は悪いこととなります。また、キリスト教的な清貧とは、原初この世が創造されたときにはその価値が無かったものです。また創造の完成の一つでもありません。キリスト教的な清貧は、原罪の後の人類が物質的な被造物を正しく使わなかったが故にその意義を持っているのです。この世への欲に汚れた私たちの霊魂を、離脱の精神によって清め、償うのが清貧です。

 原罪と言うことを忘れては、私たちはキリスト教的謙遜、キリスト教的禁欲、キリスト教的苦業、この世からの離脱、などと言うことは説明が出来なくなるのです。

 (続く)


 善きロザリオの聖月をお過ごし下さい!


トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)