マニラのeそよ風

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第161号 2003/07/07 司教証聖者、聖チリロ、聖メトディオの祝日

聖キリル


「もし、私たちが真理のために必要な戦いをしなければならない義務があるとしても、愛を持って、真理の敵と反対者たちを受け入れよう。何故なら、私たちは彼らに対して大きな同情を抱いており、私たちは、目には涙をたたえて彼らのために天主の善良さに訴えて祈ろう。」(聖ピオ10世教皇)

アヴェ・マリア!
 聖ピオ10世の即位100周年を祝って、まずフランスの或る雑誌の記事からの引用をお読み下さい。


 「多くのカトリック関係者たちは、一致して警告の声を挙げている。フランスのカトリック教会は危機を迎えている!と。」

 「特に抵抗しなければならないのは、カトリック教会のいつもの敵、プロテスタント、自由思想家、その他の悪意を抱いている人々ではない。最も恐るべき攻撃は、中側から、至聖所の奥から為されている。反抗は、司祭たち、そして司教たちが為している。この反抗は、いろいろな形を取り、ある場合には、不可謬の教皇様への忠実な従順というマスクの元に自分の本当の姿を隠している。これらの形と外見はどんなものか? 司祭たちからの攻撃の一撃で、昔の信仰は揺るがされ、昔のドグマは塵と消え失せている。私たちは数年以来、恐るべき二重の光景を目の当たりにしている。それはまず、司祭たちが、そのしていることにかかわらず司祭の地位にあくまでも立ち留まりながら、新しい教会を作りつつあるのを見ていることだ。この新しい教会は、昔の教会と、特に本質的な点において、全くの対立・矛盾するものである。他方で、その他の多くの司祭たちが、日ごとにその数を増しているのだが、自分たちの持つ新しい原理・原則に従ってスータンを捨て去り、司祭職を捨て去り、教会を離れているのを見ることだ。」


 これは今から100年前、フランスの La Rebue des revues 誌(1903年1月1日号)に載せられた記事の最初の部分です。【えっ? 現代の教会の話だとお思いになった、ですって?】その当時は、レオ13世教皇の教皇統治の最後時期で、レオ13世は1903年7月20日に亡くなっています。残念なことに、レオ13世の長い任期の間、近代主義は大学と神学校に浸透し、フリーメーソンは公然とカトリック教会に戦いを挑んでいました。レオ13世教皇様の取った「共和制参加運動政策」(politique de ralliement)は、カトリックのエリートたちの動きを麻痺させていました。「民主主義者の司祭たち」は、「共和制参加運動政策」の仮面を付けて、フランス革命思想と共和制イデオロギーを自分のものとしていました。

 この不安は極限まで行き、教会を救うためにあまりにも人間的な手段を考えていました。そしてレオ13世の亡き後は、ランポッラ枢機卿(cardinal Rampolla)が後継者として教皇様になるべきだと思ってさえいました。しかしランポッラ枢機卿は、隠れたフリーメーソンだったのです! そうなってしまっては、カトリック教会の最期であったかもしれません! 実際、コンクラーベではランポッラは次期教皇の最有力候補者で多くの票を集めて、ほとんど選ばれていたのです! しかし、オーストリア皇帝はランポッラがフリーメーソンであることを知っており、コンクラーベ中にランポッラ枢機卿に拒否権(ヴェトー)を行使したのでした! そこで、票はジュゼッペ・サルト枢機卿に集まり、天主から選ばれた教皇として1903年8月4日、聖ピオ10世が選ばれたのです。

 ダルガル(J. Dal-Gal)著の『聖ピオ10世』の一節を以下にお読み下さい。


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 枢機卿会の会長は、ピオ9世が枢機卿として選んだ老オレッリァ・ディ・サント枢機卿(cardinal Oreglia di Santo)であった。コンクラーベの書記長は38才のメリ・デル・バル大司教(Mgr Merry del Val)であった。・・・


8月1日

 8月1日の朝の投票でサルト枢機卿は5票、午後の投票で10票を集めた。サルト枢機卿は隣の枢機卿にこう言った。

 「枢機卿様たちは、私を笑いものにして楽しんでいるよ。」

 ランポッラ枢機卿は29票獲得しており、票数はどんどん伸びると思われていた。


8月2日

 しかし翌日、クラコヴィアの司教であるプジナ枢機卿(cardinal Puzyna)は、オーストリア皇帝陛下の名前によって、レオ13世当時の国務長官であったランポッラ枢機卿に対して拒否権を発動したことを伝えた。これは時代錯誤の忌々しい行為で、悲しい雰囲気を醸し出した。

 枢機卿会の会長であるオレッリァ・ディ・サント枢機卿は直ぐに立ち上がり、コンクラーベに対して、世俗の外部からのいかなる権力も介入し、枢機卿会の手を縛ろうとすることは許されないと叫んだ。オレッリァ・ディ・サント枢機卿は、従ってこの拒否権が良心上全く無効のものであり、どの枢機卿も、この拒否権をいかなる意味においても考慮に入れてはならない、と訴えた。

 ランポッラ枢機卿も荘厳に抗議した。

 「私は、教会の自由と枢機卿会の尊厳とに対してなされた外部からの世俗の権力によってなされた屈辱の重大性を非常に嘆きます。私は力強くこれに抗議します。しかし私自身に関して言えば、私はこの度のようなことほど私にとって名誉であり嬉しいことはなかったと宣言します。」

 8月2日、朝の第1投票では、ランポッラ枢機卿は29票をそのまま維持し、午後の第2投票で30票にあがった。サルト枢機卿は、8月1日の夕には10票であったが、2日の朝には21票、夕には24票を獲得した。

 自分への投票数が上るのを見たサルト枢機卿は、恐ろしくなり、枢機卿たちに自分に今後投票してはならないこと、自分はどのようなことがあっても教皇職を受け入れないことを宣言した。

 「良心は、私にこう言う義務を押しつけている。私は教皇となるに適した素質を持っていない、と。あなたたちは、私以外の人に投票しなければならない義務がある。私はふさわしくない。私にはその能力がない。私を忘れてほしい。」そしてサルト枢機卿は、自分が判断する決定的な理由を挙げて、自分に投票してはいけないと説得した。

 バルチモアのギボンズ枢機卿はこう語っている。

 「サルト枢機卿が挙げた数々の理由は、自分の要請を無駄なものとした。これらの理由は謙遜と知恵とに満ちており、枢機卿に対する評価と感嘆と投票数を減少させるどころかむしろ増加させた。私たちは彼をよく知っていた。他方で彼は教皇職のためには不足していると自分で言っている点を話ながら、声はわなわなと震え、目からは涙がこぼれていた。」


8月3日

 8月3日、朝の投票でサルト枢機卿は27票を得た。ランポッラ枢機卿の票は24に下がった。

 枢機卿会は、すでにベネチアの総大司教であるサルト枢機卿を次期教皇として選んでいたことは明白であった。枢機卿会は、サルト枢機卿が教皇職を受け入れることを待つだけであった。しかし将来の聖ピオ10世は涙を流して泣くばかりであって、答えようともしない。

 「私を待っているベネチアにこのまま戻らせてほしい。」

 枢機卿会の会長であるオレッリァ・ディ・サント枢機卿は、メリ・デル・バル大司教に命じてサルト枢機卿のもとに行き、枢機卿会の名前によって、教皇職を拒否し続けるつもりなのかを聞くようにさせた。

 メリ・デル・バル大司教は10年後に次のような思い出を書いている。

 「私はサルト枢機卿を探しに行った。枢機卿は聖パウロ聖堂にいるという話を聞いたので、お昼頃、聖パウロ聖堂に入った。御聖櫃の前には聖体ランプが灯っていた。祭壇の上には、良きすすめを給う聖母の御影の近くにロウソクが何本か灯っていた。一人の枢機卿が、祭壇の近くで、大理石の床の上に跪いているのに気が付いた。彼は、深い祈りの中に没頭していた。手は頭を抱えていた。サルト枢機卿だった。私は彼の横に跪き、ひそひそ声で、枢機卿会会長の望みを伝えた。」

 「ベネチアの総大司教は、私の声に気が付き、頭を上げ、ゆっくりと私の方を向いた。眼からは多くの涙が流れていた。この大きな苦悩を目前にして、私は息を止めた。私は枢機卿の答えを待っていた。」

 「サルト枢機卿は、つぶやいた。『大司教様、お願いですから、枢機卿会会長様に、愛徳のために、私のことはもう考えないで下さい、と伝えて下さい。』この瞬間、私は私たちの主イエズス・キリストがゲッセマニの園で、Transeat a me calix iste. この杯が私から遠ざかりますように!と言った言葉を聞いた思いがした。」

 「『枢機卿様、勇気を出して下さい。主が助けて下さるでしょう』という言葉が、自然に私の唇から出た。枢機卿は私を注意深くご覧になり、こう言った。『ありがとう。ありがとう。』」

 「私はチャペルを出た。私は、ベネチアの総大司教様との出会いが私に刻みつけた印象を忘れることができない。これが、私と彼との最初の出会いだった。私は、聖人の前にいるのだと感じた。」

 これに劇的な時が続く。枢機卿会で最も権威のある枢機卿たちは、何とかサルト枢機卿が天主の御旨を受け入れるように説得しようとしていた。

 フェラリ枢機卿はこう言った。「もしあなたのお望みであるなら、ベネチアにこのまま戻りなさい。しかしあなたは死ぬまで良心の呵責にさいなまされることでしょう。」

 サルト枢機卿は繰り返した。「教皇職の責任はあまりにも重すぎます。」

 フェラリ枢機卿 「あなたの拒否の責任は、それよりももっと重いことを考えて下さい。」

 サルト枢機卿 「私はもう年寄りです。もうすぐ死にます。」

 フェラリ枢機卿はこう答えた。「カイファの言葉をあなたに適応して下さい。『皆の救いのために一人の人が死んだ方がよい。』」

 サトッリ枢機卿がフェラリ枢機卿に加わった。「受け入れて下さい。受け入れなければなりません。天主はそれをお望みです。教会の最高元老院である枢機卿会はそれを要求します。キリスト教世界の善はそれを求めます。」

 サルト枢機卿 「私は、生きても死んでもベネチアに戻ると約束しました!」

 サトッリ枢機卿 「枢機卿様は、『生きても死んでも』と正しく言いました。何故なら、このごろは、鉄道事故が頻繁に起こっていますから。枢機卿様は、天主の御旨に抵抗することをお望みなのです。天主はあなたが帰り道に、この事故の犠牲者になることを許すかもしれません。そうしたらその時、枢機卿様は天主の前で、その他の多くの犠牲者たちの責任をどう取るつもりですか?」

 サルト枢機卿 「お願いです。私の血を凍らせるようなそんな事は仰らないで下さい。言うに言われない苦悩の中にいます。」

 サトッリ枢機卿 「『そんな事』を私は言います。なぜならあなたは教皇職を受け入れないからです。」

 ベネチアの総大司教、サルト枢機卿は、もう反対の声を挙げなくなった。枢機卿はこうつぶやくのみだった。

 「天主の御旨が行われんことを!」

 8月3日の夕の投票で、サルト枢機卿は35票を集めた。サルト枢機卿が翌日の朝の投票で大多数を得るのは確かだった。神秘的な事であるが、建物の窓に、白い鳩がとまっているのを枢機卿は見た。


8月4日: 「あなたはペトロである」

 8月4日の朝、システィン礼拝堂に入るときのサルト枢機卿の姿はあまりにもやつれており、見違えるほどであった。眼には苦悩の涙が流れていた。

 サルト枢機卿は50票を獲得した。絶対多数を8票上回る数だった。サルト枢機卿は青白い顔で震えながらこう言った。

 「もしこの杯が私から遠ざかることができないのなら、天主の御旨が行われますように! 私は、教皇職を十字架として受け入れます。」

 枢機卿会会長は、儀式通り、こう尋ねた。「あなたは何という名前で呼ばれることを望むか?」

 「今世紀、教会のために最も苦しんだ教皇たちがピオという名前を持っていたので、私はこの名前を取ります。」


 (J. Dal-Gal, St Pie X, pp. 238-243より)


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聖ピオ10世、我等のために祈り給え!
聖ピオ10世、我等のために祈り給え!
聖ピオ10世、我等のために祈り給え!


スティーヴン・ジングラング神父様について

 次のウェッブ・サイトでもニュースになったそうです。ご参考までに。 神父様のためにお祈りしましょう。
http://www.seattlecatholic.com/article_20030704_pr.htm


トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)