マニラのeそよ風

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第140号 2003/05/09
教会博士・証聖者・司教、ナツィアンツォの聖グレゴリオの祝日

ナツィアンツォの聖グレゴリオ
ナツィアンツォの聖グレゴリオ


 カパドキア生まれの聖グレゴリオは、大聖バジリオの研究の友であり、終生、親交をもちました。彼は、ある期間アテネに住んでいましたが、のちに砂漠に隠遁しました。しかし更によび出されて、コスタンティノープルの大司教の座にのぼりました。「異端者への鉄槌」として名をのこして、389年、あるいは390年に帰天しました。

アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、
 今回は、DICIの記事からお届けします。

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)


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聖ピオ十世会総長フレー司教へのインタビュー
2003年3月30日


ロランス神父: 司教様、仮にですよ、もしも司教様に教会の中において聖伝を復興させる機会が与えられたとしたら、司教様はこの復興を後に戻ることとして実現させようと思いますか。聖ピオ十世会はタイムマシンで時間を後戻りさせる機械として機能するのでしょうか?

フレー司教: 私たちは時々、このような叱責を受けます。「あなたたちは第2バチカン公会議以前は全てが素晴らしく、黄金時代だったと思っている。しかし実際のところ、あなたたちは化石だ。」これがある枢機卿が私たちについて仰ったことです。聖伝に戻っていきたいと望んでいたある司教はこの枢機卿に「もし私が聖ピオ十世会に会いに行くとしたら、どう思いますか?」と意見を求めると、「それだけはしないで下さい。それは化石です。」と答えました。

 この答えは、ラッチンガー枢機卿を考えさせます。ラッチンガー枢機卿は教会の破局的な状況を認め、それについての良い質問を出します。しかし、それに対する解決策となると、ラッチンガー枢機卿の結論は「後戻りすることだけはしてはいけない」です。なぜなら枢機卿の考えは誤った原理の上に成り立っているからです。ルフェーブル大司教はラッチンガー枢機卿にこう言っていました。「第2バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」はピオ9世の「クァンタ・クラ」と矛盾しています。」ラッチンガー枢機卿はこう答えました。「しかし、大司教様、私たちはもはや「クァンタ・クラ」の時代には生きていません!」ルフェーブル大司教はこう結論しました。「もしそれがそうなら、私は明日になるのを待ちます。」【=真理というものが時代によって変わるものなら、今日は間違っているものでも明日には正しくなり、今日正しいものが明日には間違いになるのでしょうから】

 私たちは、彼らに今日こう言うことが出来ます。「第2バチカン公会議はもう時代遅れだ。第2バチカン公会議は今の話ではない。もう現代のものではない。私たちは既に「ポスト・モダン」の時代にいる。」ですから、問題は私たちが昔に戻ると言うことや、流れた歴史をさかのぼると言うことでもないのです。聖ピオ10世教皇が正しく言っていたように、「キリスト教文明は発明しなければならないものではない。それは既に存在していた」と。問題は歴史の一時代をもう一度繰り返そうとすることではありません。私たちの意志は 永遠の原理を思い起こし、それを実践する ということです。その原理には現代の全ての問題に対する回答がすでに含まれています。


ロランス神父: 「友人と恩人の皆様への手紙」の最新号では、司教様はご自分が聖伝の代表ではなく、つまり司教様が守っているのは司教様の聖伝ではなく、「ローマがローマの聖伝に立ち戻らなければならない」と書いていますね。これはどういうことですか?

フレー司教: 私たちは、カトリック教会こそが聖伝を保持している、或いは保持しなければならないことをいいたいのです。私たちは、私たち以外の人々を除外しないという条件付きで、私たちはカトリック教会である、と言うことが出来ます。もちろん、カトリック教会は私たちよりももっと大きいものです。しかし、私たちが教会に所属するものであるという事実から、私たちは教会の一部なのです。教会の聖伝を保持するということ、それこそ私たちがいう「聖伝」なのです。

 聖伝とはカトリック教会の共通の善で、私たちの測り知ることの出来ない神秘によって、ほとんど、繰り返して申しますが、ほとんど、私たちの手にだけ保存されています。このことは、私たちが望んでそうなったのではありません。私たちは教会がいつも教えてきたことに忠実に留まっているだけなのです。その他の人々はそれを捨ててしまいました。しかし教会の宝は私たちだけのものになったわけではありません。これはカトリック教会の偉大な宝で、そのために教会の聖伝である、というのです。私たちは教会に私たちを押しつけようとは望みません。教会こそが自分の所有物、自分の共通善、信仰の全ての真理、司祭職、ミサ聖祭を取り戻すべきなのです。

 例えば、私たちが「あなたたちには聖伝のカリスマという固有のカリスマがある」と言われたりするとき、「聖伝」という表現が特定の文脈に結びつけられている、つまりローマと聖ピオ十世会との関係に結びつけられている、聖伝は聖ピオ十世会だけの話だ、という印象を受けます。私たちはこのような「あなたたちには聖伝のカリスマという固有のカリスマがある」などという表現を拒否します。なぜなら、これは私たち固有のカリスマであるというのは本当ではなく、カトリック教会共通のカリスマであるからです。聖伝のミサは聖ピオ十世会のものではありません。それはカトリック教会のミサ聖祭です。カトリック界は誰でも聖伝を享受する権利があります。

(From DICI N. 74)

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