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第127号 2003/04/30 シエナの聖女カタリナの祝日

シエナの聖女カタリナ
シエナの聖女カタリナ


アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、

カトリック教会の教え 書籍写真 つい最近、日本カトリック司教協議会監修、カトリック中央協議会発行の『カトリック教会の教え』(2003年4月)を入手しました。

 『カトリック教会の教え』の第1部にざっと目を通しての印象は、私たちの主イエズス・キリストは権威を持って話されたけれども、『カトリック教会の教え』は何の権威を持って話しているのか分からない、何を言いたいのかよく分からない、でした。

 新しい『カトリック教会の教え』の第1部は、イエズス会の岩島忠彦師によって執筆されました。岩島師は、第2章で次のように述べています。

 「福音書の叙述は基本的には歴史的な事実であると考えられていた・・・しかし信仰の表明を史実と区別するようになってから、福音書に見られる「信仰のキリスト」の奥に「歴史のキリスト」を求めるようになってきた・・・中でもD・F・シュトラウスの『イエスの生涯』やE・ルナンの『イエス伝』は同時大きな反響を呼び・・・」(65ページ)と書き、福音書に描かれているキリストは歴史的事実ではなく、「信仰の観点」(66ページ)を中心的にして書かれたものであると述べようとしているようです。

 岩島師は、「福音書の叙述は、以前は『歴史的な事実』であると考えられていたが、実はそうではないことが現代の聖書の研究によって明らかになった」とはっきりは言いませんし、「『信仰の表明』を『史実』と区別するために、福音書に見られる『信仰のキリスト』の奥に『歴史のキリスト』を求めるべきだ」と進んで主張するわけではありません。

 しかし、読んだ印象では、福音に書かれたものは「後の教会のキリスト信仰」(66ページ)であるから、そのような信仰によって歪められてしまったキリスト像を、「史実と区別しながら・・・生前のイエスの姿を描き出す努力」(66ページ)をしなければならない、と言いたいようです。

 次に、岩島師は、このような「区別」は、20世紀の輝かしい「聖書学の発展」(!)のおかげで出来るようになったと述べます。

 つまり、私たちは福音書を素直にその通りに読んで理解してはならず、福音書の成立を説明するために編み出された「様式史的方法」、「伝承史的方法」、「編集史的方法」、「構造主義的方法」、「社会学的方法」など、「史的イエスの探求に大きく貢献していることは明らか」(67ページ)な様々な「方法」を使うべきだと言いたいようです。

 岩島師によると、「様式史的方法」とは「福音書に見られるさまざまな文体の違いに注目して、福音書が幾つかの異なったタイプの伝承資料(ことば資料・物語資料)によって成立していること」を示し、それらの「伝承資料」「どのようにして生まれ」また「何の目的を持って生まれてきたのか」(66ページ)を追求するそうです。

 「伝承史的方法」とは、「様式史的方法」を更に徹底したもので、現在、私たちが持っている福音書に書かれているキリストの言葉とされているものは、実はキリストの本当の言葉ではなく、後世になって教会が付け加えたものが多くあるので、「イエスにさかのぼる可能性を持った伝承断片と後の教会が付け加えたものとを区別し」、「イエスのことば伝承・物語伝承の発端を生前のイエスに求める試み」(66ページ)をするのだそうです。
 さらに、「伝承史的方法」によれば「各福音書を最終的に編集した人の、伝承断片の用い方やこれへの加筆、さらには伝承断片をつなぐ編集句などがはっきりしてくる」ので、そのようなことを考えて、どのように編集したかを見ると、「それぞれの福音書の伝えようとするメッセージがより明確になってくる」(66-67ページ)のだそうで、このような読み方を「編集史的方法」と言うのだそうです。

 更に福音書は(可哀想に!)ますます分断され、切り刻まれて、「構造主義的方法」によってテキストが分析され、「社会学的方法」が援用されてようやく「意味理解」されるのだそうです!

 しかし、以上の教えは、「カトリック教会の教え」ではありません。カトリック教会は、すでに岩島師の述べる考えを間違いだと教えてきていました。

 カトリック教会は、

 教父たちの明確な証言、福音書の諸写本の表題、聖書の最も古い翻訳がはっきり証言しているように

 また諸教父や教会の著作家、諸教皇や諸公会議が私たちに伝えた目録にあるように

 さらには西方と東方両教会の典礼の中での使用が明らかに示し、全世界において第1世紀から常に教会が一致して理解しているように、

 マテオ、マルコ、ルカ、ヨハネが本当にその名前による福音書の著者であることを確実なものとして教えています。

 最古のパピルスに残された諸写本やいろいろな古代の言語に訳された福音書の翻訳を見ると、今、私たちが持っている福音書とほぼ完璧に同じであることが分かります。ですから、それらの写本は、福音史家たちが固有の意味でかつ厳密な意味での福音書、現在われわれに伝えられているような形の福音書を書いたということがわかります。

 教会は2000年間の間、常に、彼ら4人が、ただキリストの言われたことや説教を何らかの形で集めただけで、別の匿名の著者がそれらを源泉として福音を編集したのではない、と教えています。そして、カトリック教会は福音書をして「歴史的に真実を述べた歴史書である」と教えてきています。

 考えても見て下さい。カトリック教会は多くの敵に囲まれ、死に直面する迫害を受けていました。ユダヤ教徒たちは、キリスト教の「あら探し」をし、インチキであるという証拠を血眼になって探していました。異教徒とたちとて同じことです。

 しかし、それにもかかわらず、最初の二世紀における著述家たちは、キリスト教徒もキリスト教でない人たちも、ひとしく、当時、聖福音書がひろく知られ、克明に研究されていたこと、またキリスト教の世界では、どこでも聖書が大切にとりあつかわれ、尊敬されていたことを証明しています。

 使徒が死んでから百年も経過していない時代に、従って、使徒たちの記憶がはっきり人びとの印象にのこっていた時代に、福音書が大切にあつかわれ、全教会でつかわれていたということは、福音書が純正な書であることを立証する力強い証拠なります。

 使徒たちにせよ、彼らの後継者たちにせよ、福音書が示す内容の真理を立証するために、いのちがけで努力した人たちですから、一連の偽造書を刊行して、これらを「神感をうけた天主の言葉である」とし、世人をあざむくというような大それた欺瞞をたくらんだなどと考えることが出来るでしょうか。

 またユダヤ教からの改宗者たちにしても、これらの書を少しも詮索することなく、自分たちが深い尊敬をはらっている旧約聖書に比肩する権戒ある本として、そのまま福音書をうけとったなどということも考えられることでしょうか。

 異教徒たちの中には高い教養を身につけた人たちも多く存在していました。キリストが生まれた時代は、最も洗練され文化の高い時代であったということは、歴史が承認しています。この当時、ギリシア、ローマの世界は、すばらしい平和と安定した生活と、おどろくべき繁栄と政治的な業績などをのこした時代で、優れた文学感嘆すべき芸術作品、深い、休息のない探求の時代でした。しかし、ある意味で、人間性にたいして、苛酷な要求をするキリスト教という宗教、信仰のためには生命をもすてることを要求するような厳格な宗教に、この宗教の土台となる記録述作の純正性についてなんら確かめもせず、しかも、その宗教に帰依したなどと想像することが出来るでしょうか?

 教養の高い異教徒や異端者たちが、教会を撲滅するために、思いおよぶ限りの、あらゆる反対論をもって抗争をいどんでいた時代に、もしもいくらかでも可能性があったとすれば、神感書といわれている福音書が偽造書であるというような、絶好のえさを見のがすことはなかったはずはありません。

 キリスト教徒になるということが、殉教者になることを意味するほど、おそろしく厳粛な時代に生活していた全世界のキリスト教徒が、なんら異議をもうしたてるものもなく、これらの本を福音史家の著作なりと捏造し、これら偽造教典を、神聖な永遠の遺産、まもるべき規範として、子々孫々にのこすことをくわだてたということ、またこれに賛同したというようなことが、あり得たでしょうか。

 上述の考察によって、私達は、福音書を純正な書としてうけいれるか、さもなければ、子供だましにもならない不合理のかずかずを平気で述べている『カトリック教会の教え』のどちらかを取らなければなりません。

 福音書ほどたくさんの証明史料をもつ古典は、おそらくほかにはないでしょう。カエサルが「ガリア戦記」の著者であるということは、議論の余地ないものとされてはいますが、著作に関する最古の引用は、著者の手をはなれてから100年後のプルタルクとスェトニウスの書に見られるだけです。

 福音書の著者は、信頼に値する人たちでした。彼らは、事実をよく知っていて、それを忠実にかきおろしました。彼らの尊い生涯と、彼らが、福音書に書きおろした真理を立証するためにうけた、くるしい生活などを思いあわせると、うたがいなく誠実な人びとであったことがわかります。

 また、世俗的な見かたをすれば、キリストの聖性と天主性とを証明したからといって、彼らは損するばかりで、少しのとくにもならなかったのです。

 また、彼らは、どうしても不誠実ではありえなかったのです。なぜなら、彼らはいずれもそれらの書を、事件と同時代に生きていた人びとのために、あるいは、同時代の人びとをよく知っている人たちのために書いたからです。従って虚偽を発表したとすれば、うけいれられることはなく、また、発見されずにはすまされなかったにちがいません。

 記事には、一見、つじつまがあわないように見えるものがあります。しかしよく調べていくと、立派な調和があることが判ります。もし福音書の著者がサギ師的な人物であったとすると、矛盾していると見られる記事などは全部省いてしまったにちがいません。

 キリストの人格をつくりだすことなど、彼らには、とうていおよびもつかないことでした。キリストは、あくまでも高尚で、愛にあふれ、悲劇的で、また独創的な人物として、福音書に描きだされているが、福音書が描きだしているキリストの全人格は、はっきりした輪郭とともに、単なる芸術作品と見ていたとしても、福音書の著者のような人たちには、とうていこれをつくりだすだけの能力はありません。そのうえ、当時のユダヤ人たちは・・・福音書の著者もユダヤ人であるが・・・メシアはダビドの国を再建するためにやってくると信じていました。従って、キリストが実際に教えをといて聞かせるまでは、キリストが地上の国を建設するのではなく、霊の王国をたてるためにきたこと、従順と謙虚、兄弟愛と貧困、迫害と十字架の苦難、辱めなどは、ひとつとしておそらく夢想にもしていなかった事でした。

 福音書は、もとのまま、現在にいたっています。すなわち、減らされてもいないし、書きくわえられてもいません。テクストが純粋にたもたれてきた事実は、以下の諸点を考えればはっきり判ります。

【1】 四福音書に対する、教会の特別な尊敬と偽福音の使用禁止(聖ペトロ、聖トマス、聖ヤコボの作とする、いわゆる偽造福音書は、使徒の時代がおわった頃にまわっていましたが、教会は、これらを偽書と決定し、これを使うことは厳禁されていました)

【2】 四福音書が、公式の礼拝で奉読されてきた教会初代からの習慣。

【3】 福音書が、全世界のキリスト教世界に、あまねく普及していた事実。

【4】 あらゆる写本が、本質的にはみな一致していて、なかには、1世紀にさかのぼるものもあること。(C. P. Thiedeの最近の論文を参照して下さい。)


*マテオの福音書については、教皇庁立聖書委員会が次のように宣言しています。(DS 3561~3567;1911年6月19日)


◎3561(2148)質問1:

教父たちの明確な証言、福音書の諸写本の表題、聖書の最も古い翻訳、聖なる諸教父や教会の著作家及び諸教皇また諸公会議が伝えた目録、西方と東方両教会の典礼の中での使用が明らかに示している、全世界において第1世紀から常に教会が一致して理解(consensus)しているように、キリストの使徒であるマテオが本当に彼の名前による福音書の著者であることを確実なものとして認めることができ、そしてまた認めなければならないか?

【回答】  肯定する。


◎3564(2151)質問4:

次のように主張する最近の著作家の意見を支持する或いは蓋然性があり得ることであるとすることができるか。最近の或る著作家たちの意見によれば、マテオは固有の意味でかつ厳密な意味での福音書、現在われわれに伝えられているような形の福音書を書かなかった、ただキリストの言われたことや説教を何らかの形で集めただけで、別の匿名の著者がそれらを源泉として使ったのであり、それらの源泉はこの匿名の著者を福音そのものの編集者とする。

【回答】  否定する。


◎3566(2153)質問6:

第1の福音書の著者の目的は、ユダヤ人たちにイエズスが預言者たちによって予告され、ダビドの家系から生れたメシアであることを証明するための特に教理的で護教的な目的であった、そしてまた、叙述し言及する事実と言われたことの配列においては、常に年代順になっているわけではなく、従って、この福音書を真実のものとして受入れるべきではないと結論される。これについては?
或いは、この福音書において読まれるキリストの行ったこと、話したことの記録は、旧約聖書の予言と発展した教会の現状による影響を受けて、ある程度変更されたり改作されたりし、そしてそのために歴史的真実とかけはなれている、これはどうなのか?

【回答】  ニつの部分とも否定する。


*「マルコとルカによる福音書の著者、年代、史実性について」及び「共観福音書、すなわち最初の3福音書の相互関係について」、教皇庁立聖書委員会は、次のように解答しています。(1912年6月26日)(DS 3568~3578)


◎3568(2155)質問1:

聖伝の明らかな教え、つまり、教会がそのはじめから驚くほど一致した数多くの論拠、聖なる教父たちと教会の著作家たちの著作にはっきりとあらわれた証言、同じ教父や著作家らの書いたものにおける引用や暗示、昔の異端者もそうとして使用していること、新約聖書の諸翻訳、最古のそしてほとんどすべての写本、更に聖書の文章自体による内的証明によってさえも堅固にされた教えにより、ペトロの弟子であり通訳であったマルコと、医者でありパウロの助手であり旅の伴侶であったルカが、実際にマルコによる福音書、ルカによる福音書と呼ばれているものの本当の著者であると確定的に主張しなければならないか。

【回答】  肯定する。


◎3569(2156)質問2:

マルコ福音書の最後の12節(16:9-20)は、マルコ自身が書いたものではなく、別の人がつけ加えたものであり、そのため、それらは「神感を受け正典として受入れるべきもの」ではない、と証明しようと努力している一部の批評家たちの意見は、正しいものであるか?

或いは、その意見は、少なくともマルコがこの12節の著者ではないと証明するか?

【回答】  二つの部分とも否定する。


◎3570(2157)質問3:

同じように、ルカによるキリストの幼少時代の記録(1、2章)、また、天使がイエズスにあらわれたて慰労することやイエズスの血の汗について(22:43以下)の神感とその部分が正典であることを疑うことが許されるか。

或いは、これは昔の異端者たちが好み、最近の批評家でさえもが好意的に微笑むことであるが、上の記録がルカの本当の福音書の一部ではないと少なくとも確実な理由によって証明されるか?

【回答】  ニつとも否定する。


◎3571(2158)質問4:

非常にまれでごく小数の例外的な文書によれば、「マグニフィカット」(ルカ1:46以下)の賛歌は聖母のものではなくてエリザベトのものとされている。この文章は、ほとんどすべてのギリシア語の原文及び諸翻訳の証言が一致して証明していることに反対し、のみならず文の前後関係だけでなく聖母自身の気持、教会の変らない聖伝がはっきりと要請している解釈に反対しても、優先させられるべきであるし、またそうすべきであるのか?

【回答】  否定する。


◎3573(2160)質問6:

マルコとルカの福音書の成立の時は、エルサレムの滅亡まで遅らせることができるか。 また、ルカによると、エルサレム滅亡についての主の予言が詳しいように思われるが、少なくともこの福音書は既に攻撃が始まった時に書かれたという主張は支持されうるか?

【回答】  二つとも否定する。


◎3575(2162)質問8:

マルコとルカが福音書を書くときに使った源泉について、聖伝による証言及び内的証拠を考慮して、マルコはペトロの説教に従って書き、ルカはパウロの説教に従って書いたという意見を疑うことは賢明であるか。

また、同時にこの同じ2人の福音記者には、口伝または文書による信頼できる他の資料も持っていたと主張出来るか。

【回答】  否定する。


◎3576(2163)質問9:

マルコがペトロの説教に従って、正確にそしてほとんど絵に描くように書き、ルカが「はじめからの目撃者で、みことばの奉仕者となった」十分に信頼できる証人を通して「すべてのことをはじめから詳しく調べた」(ルカ1:2以下)上で、きわめて誠実に表現した、(私たちの主の)言葉や行いは、教会がそれらの福音書に常に与えている歴史的信憑性を充分に持っていると言えるか。

反対に同じ(私たちの主の)言葉や行いは、少なくとも一部分は、歴史的真実性がないと考えなければならないか。それは、或いは、著者が目撃者でもないことから、或いは、2人の福音記者に事件の経緯の順序がないことや相違があるのはほとんどまれではないことから、或いは彼らは年月が経ってからやって来て書いたため、キリストや使徒たちの考えと違う概念や、すでに民衆の想像によって多少ゆがめられたことを書いたのは当然であることから、或いは、最後に、前もって持っていた教義的概念によって、それぞれ自分の目的に合わせて書いたことから、である。

【回答】  第1部については肯定する、第2部については否定する。


* 共観福音書については、次のように述べています。


◎3577(2164)質問1:

特にマテオ、マルコ、ルカの三福音書の真実性、完全性について、ギリシア語版のマテオ福音書が彼の原初の原語のものと実体的に同一であることについて、また、相互の類似点と相違点とを説明するために書かれた年代順について、現在までに決定されたことを尊重した上で、数多くの違った意見や矛盾した意見の中で聖書学者は自由に討議し、書かれた伝え、或いは口伝、あるいは、その先にあった単数或いは複数の資料に由来するという仮説を立てることができるか。

【回答】  肯定する。


◎3578(2165)質問2:

聖伝による証言も歴史的な裏付けもなしに「二重資料説」と呼ばれる仮説をたやすく受入れることは、上の決定に忠実であると言えるか。この仮説はマテオのギリシャ語福音書とルカ福音書の成立が、主としてマルコ福音書と主の教話集といわれるものを資料として書かれたものであると言う。

また、この仮説を自由に吹聴して唱えてもよいか。

【回答】  ニつの部分とも否定する。


* 使徒行録の著者、書かれた年、史実性について、教皇庁立聖書委員会は次のように解答しています。(1913年6月12日)DS 3581-3590


◎3581(2166)質問1:

初代教会の著作家たちにまでさかのぼることができる全世界にわたる教会の聖伝と、使徒行録自体、或いは第3福音書との関係から見た、使徒行録の内的証明、特にこの二つの書の書き出しの相互類似と関係(ルカ1:1-4、使徒行録1:1以下)とから、使徒行録(Actus Apostolorum 或いはギシリア語で Praxeis Apostolon)と表題のつけられた書物が福音史家ルカをその著者とすると確かに断言するべきか。

【回答】  肯定する。


◎3582(2167)質問2:

言葉づかいと文体、記述の特徴、目的と教えが一致などの批判的理由から、使徒行録の著者がただ一人に帰属されるべきであると証明されえるか。

その結果、"ルカが使徒行録の唯一の著者ではなく、同じ書を数人の著者が書いたとすべきである" という最近の著作家らの意見は、全く根拠のないものであるか。

【回答】  両方とも肯定する。


◎3583(2168)質問3:

特に、使徒行録において明らかであるが、3人称を使うことを突然止め、1人称複数(私たち)をとり入れている箇所は、作品の同一性と、著者の真正性を弱めるものか。

或いは、歴史的にかつ語学的に考えるとこの箇所は作品の同一性と、著者の真正性を確認すると言うべきか。

【回答】  第1部は否定する、第2部は肯定する。


◎3585(2170)質問5:

ルカが、ほとんど疑いもなく、パレスチナの教会の最初の主要な創立者たちや異邦人の使徒パウロ(ルカは彼の福音伝道を助け、旅をともにした)と頻繁に容易に行き来があったこと、事件の目撃証人を一生懸命に探し求めたこと、使徒行録がパウロの書簡や複数の誠実な歴史の遺産と明らかにそして素晴らしく一致することは、ルカが全く信頼できる源泉を手に持っていたこと、そしてそれを注意深く、正確に忠実に使用したこと、天主によって全く歴史的権威を持っていると主張出来るということを確実であると言うべきか。

【回答】  肯定する。


◎3586(2171)質問6:

ルカが書留めている超自然的事件、ある説教(複数)の記録、(それらは要約されて伝えられたので、作り上げられたり、情況に応じて適応されたりされたと思われる)、聖書または一般の歴史的事実にはっきりと反対する様々の箇所、使徒行録の著者または他の聖書記者とはっきりと矛盾するように思える箇所などから、反対意見がよく挙げられる難しい点は、使徒行録の歴史的な権威を疑わせ、或いは少なくともその権威を何らかの意味で少なくしうるか。

【回答】  否定する。


* ヨハネによる福音書の著者と史実性について、教皇庁立聖書委員会は、1907年5月29日に次のように解答しています。


◎3398(2110)質問1:
紀元2世紀に遙かさかのぼる教会の常なる普遍的なまた荘厳な聖伝は,

a) 聖なる教父たち,教会の著作者たち,更には異端者の著作者たちでさえも書き残した証言や暗示があり、それらの証言は使徒たちの弟子或いはその最初の後継者に由来するべき、この書の起源との必要な関係と一致していることから、

b) 聖書の正典目録には,常にどこででも第4福音書の著者の名として受け入れられたことから、

c) 同じ書の最も古い写本や様々な言語になされた翻訳などから、

d) 教会の初期から全世界の典礼で公に使われていたことから、神学的な議論からでなく,歴史的な確実な論拠によって、第4福音書の著者は使徒ヨハネでありその他の誰でもないことを認めなければならないことを証明し、この聖伝にたいして反対をとなえる批判家たちの意見を弱々しいものとするか。

【回答】  肯定する。


◎3399(2111)質問2:

第4福音書の文章自体を考察し,著者の証言や福音書が使徒ヨハネの第1の書簡と明らかな関係があることから推論される内的証明は、第4福音書を同じ使徒の作品であると疑うことなく伝える聖伝を確認すると考えるべきか。

また,同じ福音書を他の3福音書と並べて見る時に起るいろいろな困難な点は、時,目的,聞き手,誰のために,または誰に反対して著者が書いたか,などを考察して、聖なる教父たちやカトリック聖書学者がかつてしたように、理性的に解決されうるか。

【回答】  二つとも肯定する。


◎3400(2112)質問3:

初代から全教会では常に、第4福音書を固有な意味での歴史書として取扱ってきた。しかし,同じ福音書の特別な性格、主の行動と話からキリストの神性を明らかにし主張しようという明らかな意向を著者が持っていることを考慮すると、第4福音書に述べられた事実の全体または一部は、教義上の寓話または象徴であるために作られたものであり、主の言葉は固有の意味で主御自身の言葉ではなくて,主の口におかれた著書の神学的作文であるか。

【回答】  否定する。


* 検邪聖省の教令 Lamentabili(1907年7月3日)(DS 3401~3466)は、「聖書の神感と無謬性」に関して、岩島師の述べた意見を既に排斥しています。

【以下に述べる命題は、誤りであると言うことです。】

(11) 天主の神感は,聖書全体とすべての部分をあらゆる誤謬から守るというような方法で,聖書全体に行きわたっているものではない。

(12) 聖書学者は,聖書研究に有利に従事するためには,まず第1に,聖書の超自然的起源についてのすべての先入観を捨て,他の単なる人間的な記録と同じような方法で解釈しなければならない。

(13) 福音史家と,第2世代,第3世代のキリスト信者たちが、福音のたとえ話を人工的にまとめ上げ、そのようになぜユダヤ人の間にキリストの説教があまり成功しなかったかを説明した。

(14) 多くの叙述において、福音史家は真実であることを記録したというよりも,むしろたとえそれが偽りであっても読者にとって有益であると考えた。

(15) 聖書の正典が決定されるまで,福音書には追加や訂正が行われた。そのため,福音書にはキリスト自身の教えは細々と且つ不確かな痕跡しか残っていない。

(16) ヨハネの記録は固有の意味での歴史ではなく,福音の神秘的な瞑想である。彼の福音書の中の話は,歴史的な真実性を持たない、救いの秘義に関する神学的な黙想である。

(19) 正統でない聖書学者がカトリックの聖書学者よりも忠実に聖書の真の意味を表現した。



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(この項は続きます)

また、聖ピオ十世会の日本語ホームページでは、教皇庁立聖書委員会の福音書に関する回答がアップされています。ご参考までにどうぞ!
日本語サイト リンク http://fsspxjapan.fc2web.com/

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)