マニラのeそよ風

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第103号 2003/03/29


アヴェ・マリア!

 兄弟の皆様、四旬節の黙想として「キリストに倣いて」の「愛の賛歌」をどうぞ。

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)



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四旬節の黙想 「キリストにならいて」


 「愛は偉大なことである。それはあらゆる善の中で、最も重大なものであり、これだけが、すべての重荷を軽くし、ことなるものをすべて同じ心で耐えしのばせる。愛する人にとっては、どんな重荷も軽くなり、苦いものも美味な甘実なものとなるからである。イエズスへの崇高な愛は、大きな業をおこなわせ、ますます完全なものをのぞませる。愛は高きに憧れ、低いものに縛られようとしない。心を深くかえりみるのを妨げるものを、すべていとい、地上的な安楽によって束縛されたり、不都合なことに屈したりすることのないように、愛は自由であり、世間の束縛から脱したものでありたい。愛よりもやさしいもの、強いもの、高いもの、拡がるものはない。また愛よりも快いもの、豊かなもの、善いものは、天にも地にもない。愛は天主から出て、天主に休む以外には、どんな被遣物にも休みどころを持たない。

 愛する者は、かけ上り、走り、勇み、自由であり、束縛されていない。愛はすべてのためにすべてを与え、すべてにおいてすべてなる天主を見いだす。愛はすべての善の泉であり、源であり、いと高きお方の中に休むものである。愛は賜物に顧慮せず、それよりもむしろ賜物をあたえるお方に目をむけさせる。愛は限りを知らず、かぎりなく燃焼する。愛は重荷を感ぜず、労苦を労苦とせず、自分の力以上のことをのぞみ、不可能を知らない。自分は何でもできる、何をしてもよいと思うからである。だから何でもするそなえがある。愛は、どんなことに着手しても成功するが、しかし愛のない者は、その力の弱さにすぐ失望し、何ごともなしえない。愛は眠ることがない、また眠っても警戒し、疲れてもぐったりせず、義務をただ義務として行わず、脅されてもうろたえず、生きる炎、もえる松明のように上昇し、さまたげをつらぬいてのぼる。

 愛をもつ者なら、その声が何を語るかを悟るであろう。『私の天主よ、私の愛よ、あなたはすべて私のものであり、私はすべてあなたのものですと』いう霊魂の烈烈な愛は、天主の耳にまで立ち上りゆく叫びである」

 「あなたを愛し、あなたへの愛にとけ入り浸りきることが、いかに喜ばしいかを、私が内なる心の口で味わうために、私の心をひろげて下さい。私は余りの熱とおどろきとのために我を忘れるほど、この愛に抱かれたい。私は愛のうたをうたいます。高く高くあなたに従います。私の心は聖い愛によろこび勇みつつ、あなたをたたえて終りたい。自分自身よりもあなたを愛し、あなたのために自分を愛するように、私をお恵みください。あなたから輝き出る愛の掟が命じる通りに、あなたが真実に愛しておられるものを、私もまた愛しうるように」

 「愛は敏速であり、真実であり、敬虔であり、快活であり、歓喜にみちており、強力で忍耐づよく、賢明・寛容で勇ましく、自分の利を求めない。人が自分自身を求めようとしはじめるとき、愛は冷えはじめる。愛は慎重・謙遜・剛毅・率直で、軽薄なはかないことにこだわらず、節制・貞潔で、根気があり、柔和で、五感をつつしむ。愛はまた、従順で、目上に服従し、自分自身は、卑しく軽蔑されるべきものだと考え、天主には信心と感謝をもち、霊的かわきの状態にあるときも、常に天主に信頼し、天主に希望をおく。苦しむことなく愛に生きることは不可能なことである。

 愛するがためにすべてを忍びつつ、その御皆に服する覚悟のない者を、愛のある人とは呼べない。愛する人は、愛する相手のために、つらいことや苦しいことを喜んで受け、どんな不幸が起っても、そのものからはなれようとしない」

(「キリストに倣いて」第3巻第5章より)


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