マニラのeそよ風

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第64号 2002/11/11


アヴェ・マリア!

■ 質問です

 「光の玄義」のなかの第5は「過ぎ越しの神秘としての御聖体の制定」という玄義だそうですが、その「過ぎ越しの神秘」について詳しく教えてください。


■ お答えします

 「過ぎ越しの神秘」とは、ラテン語の mysterium paschale, フランス語の mystere pascal, 英語の paschal mystery の日本語訳です。Paschale とは、pascha(過ぎ越し)に由来する形容詞です。Paschale が、「復活祭の」という意味の形容詞でもあるのでこれを「復活秘義」と訳すことも出来ますが、この言葉の持つ幅広い意味と語源を考えて、「過ぎ越しの神秘」と訳します。

 以下の文章は、2001年2月2日付で教皇ヨハネ・パウロ2世に提出された、『典礼改革の問題』(Fraternite Sacerdotale Saint Pie X, « Le probleme de la reforme liturgiqu, la messe de Vatican II et de Paul VI, Edude theologique et liturgique », Clovis, 2001)の第2部、第4章からの抜粋の引用(p. 49-61)です。


 第2バチカン公会議後に行われた様々な典礼改革がどこまで影響力を及ぼしているのかを捉えるために、これらの改革を起こさせた統一原理を明らかにする必要があります。この解釈の鍵は、1964年から既に公式に私たちに与えられています。それが、「過ぎ越しの神秘」です。

 1964年9月26日の宣言「Inter oecumenici」は、私たちにこう言っています。

 「第1に、第2バチカン公会議の典礼に関する憲章の目的は、典礼の形式や言葉を換えるだけに止まらず、むしろ信者たちの養成と司牧的実践を呼び起こし、典礼がそれらの頂点であり源であることを目指すものである。何故なら、現在に至るまで典礼において導入された変更、また今後導入されなければならない改変は、この目的のために秩序づけられているからである。ところで、典礼の周囲へと秩序づけられているこの司牧的活動の力は、典礼生活によって「過ぎ越しの神秘」と呼ばれているところにある。」(5, 6番)

 ヨハネ・パウロ2世は、典礼改革において「過ぎ越しの神秘」が閉めている中心的地位のことを第2バチカン公会議の「典礼憲章」の発布25周年の時に言及しています。教皇様は、そこで典礼改革の起源にある指導原理を明らかにしています。

 「第一の原理は、教会の典礼における「過ぎ越しの神秘」の現実化である。」(ヨハネ・パウロ2世、1988年12月4日 « Vicesimus quintus annus », Documentation Catholique 1985, 4 juin 1989, p. 519)

 教皇ヨハネ・パウロ2世が神学者たちに「もしかしたらその革新性のために教会の或る部分におしては理解されていなかったかもしれない教義上の諸点」(ヨハネ・パウロ2世、1988年7月2日 « Ecclesia Dei adflicta », Documentation Catholique 1967, aout 1988, p. 789.)を深めるように求めましたが、「過ぎ越しの神秘」に光を当てることによって教皇様のお望みに答えることが出来ると思います。

 典礼改革の神学的心臓部をこうして明らかにすることが出来ると思います。

 「過ぎ越しの神秘」とは何よりもまず「贖い」ということを新しく解釈し直したものです。ミサ聖祭とは、キリストの贖いの行為であるので、典礼改革はそこに根を下ろそうとするのです。用語を変えると言うことは概念そのものを深く変更することに対応しているので、「過ぎ越しの神秘」と「贖い」とを区別する全てのことは、新しいミサと聖伝のミサとを区別するのです。

 ところで、mysterion(神秘)というギリシア語は同時に「秘蹟」をも意味するので、「過ぎ越しの神秘」と言う概念にはこの「贖い」への秘蹟的な参与と言うことも含まれるのではないでしょうか? ですから、「神秘の神学」と言うことも見てみなければなりません。


主の過ぎ越し

 「『過ぎ越しの神秘』とは、天主のきわめがたい神秘を啓示する頂点にあるキリストである。」(ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』Dives in miseridordia, 8. カトリック中央協議会日本語公式訳によると「復活秘義なるキリストこそ、きわめがたい神の神秘の頂点におられます。」となっている。)

 「過ぎ越しの神秘」という表現は、教父たちはほとんど使っていませんでした。古い秘蹟儀式書の中には複数形でその用例が見られます。この表現は単数形ではただ一度だけ教皇ジェラシオの秘蹟儀式書の中の聖月曜日の集祷文の中で使われているだけです。(この祈りは、ピオ12世が1956年に出した『聖週間式次第Ordo hebdomadae sanctae』の中の聖金曜日の聖体拝領後の第3番目の祈りになっています。)「過ぎ越しの神秘」という表現は、20世紀まで、神学者の間でいかなる特別な意味も持っていませんでした。

 しかし今日「『過ぎ越しの神秘』は、キリスト教礼拝の基礎でありそれを解釈する鍵となっている。・・・『過ぎ越しの神秘』は典礼の制限を置き換え、どのような水準のものであれ、キリスト教霊性の全ての信者の道徳生活と選択の基礎及びそれを息吹く基準となっている。」(ピエトロ・ソルチの「過ぎ越しの神秘」の項、Nuovo dizionario di liturgia, p. 824)

 では、この「過ぎ越しの神秘」とは全く純粋に新しいものなのでしょうか? 新神学は、そうではない、と答えています。新神学によると、「贖い」という聖伝によるドグマに対する新しいまなざしであるのです。

 「古典的な神学が「贖い」のドグマと呼んできたことを、私たちは「過ぎ越しの神秘」と呼んでいる。「贖い」と「過ぎ越しの神秘」とがどのように、大概において符合するかを見るのは簡単である。」(エモンマリ・ロゲ『「過ぎ越しの神秘」とは何か』 Aimon-Marie Roguet, « Qu’est-ce que le mystere pascal ? », La Maison-Dieu, revue de pastorale liturgique, 67, 3e trimestre 1961, p. 9 Cerf. ロゲは新しいミサを創ったグループであるConsiliumのメンバーでした。)

 「贖い」と言う用語を古くさいと言わせるための第1の動機は、あまりにも否定的な観念であると判断するからです。古典的な神学は、客観的な「贖い」と言う概念を発展させて、天主の正義を宥めること、人間の協力、受難の苦しみ、などをあまりにも強調しすぎたと、新しい神学は言います。今日では「過ぎ越しの神秘」と言う概念のおかげで、天主の愛やその率先、復活の新しい生を強調することによって、全ては正しい一に置き直された、と新しい神学は言います。

 「『贖い』というと、解決しなければならない問題として立ちはだかってきます。・・・不言の冒辱をどうやって贖うことが出来るのでしょうか? たった一人が一体どうして全てのために贖うことが出来るのでしょうか? 罪のない者がどうして罪を犯した者のために支払うことが出来るのでしょうか?現代人の多くの人々にとって、このような関係で『贖い』が表現されていると言うことは不幸なことです。何故なら、彼らの中には自分たちの持つ正義の感覚に躓く人々もあり、このように表現された『贖い』の中に、天主の善性に対する巨大な反論を見いだしているからです。もしも天主が聖父であるなら、いかめしい会計係でもあるのでしょうか? そしてご自分の怒りを愛する聖子に振り向けることが出来るのでしょうか? 『過ぎ越しの神秘』という表現の中にはこれらのような暗礁はありません。実に私たちの救いは、『過ぎ越しの神秘』においては、全ては天主の愛と憐れみから発し、天主のご自由な率先という、生き生きとした無償の行為によってなされたこととして現れるのです。」(エモンマリ・ロゲ『「過ぎ越しの神秘」とは何か』 La Maison-Dieu, revue de pastorale liturgique, 67, 3e trimestre 1961, p. 10-11. Cerf)

 「過ぎ越しの神秘」の神学は、過去の神学を捨てることを暗黙のうちに意味しているのです。何故なら新しい神学は、キリストの御受難を、罪によって冒辱された天主の正義を宥めることとしてはもはや考えないからです。その時、「贖い」の業は、新しい日の元に現れて来るのです。つまり、正義を無視する愛の業として。その時、新しい神学によれば、天主は無限の愛を啓示し、キリストの御人性が、私たちの罪によって生じた御怒りを宥めなくとも、天主は、無限の愛を持って人をそれが罪人であろうとも追い求めるのです。


新しい神学

A) 罪に関する新しい神学
 現代の多くの神学者たちは、罪を天主の正義の視点から見るべきではないと言います。何故なら、罪を犯したとしても、そのために人は天主に対していかなる正義の負債を追うことがないからだ、と言います。実際、新しい神学は私たちにこう言います。被造物の贈り物が天主にいかなるものも付け加えないように、罪を犯したとしても天主から取り去られるものは何もない、と。

 「疑いもなく、罪には無限の次元があると言うことは偉大な真理です。何故なら、罪は人間において何らかの無限の価値、すなわち、聖寵の命を破壊するからです。また、罪から抜け出る行為は人間の力を超えるものであるからです。しかし罪は天主に対していかなる損害も与えません。創造の業と人間に命を与えることが天主に何ら付け加えることがないように、罪も天主から何も取り去ることがありません。」(イヴ・ド・モンショイ『キリストに関する講義』Yves de Monstcheuil, « Lecon sur le Christ », editions de l’Epi, Paris, 1949, p. 126-129)

 このような発言には、重大な曖昧さを隠し含まれています。つまり、たとえ罪が天主の本性naturaから何も取り去ることがないとしても、罪は天主が被造物によって礼拝され、従われるべきであるという権利iusを侵すのからです。その他多くの著者も、天主の本性と天主の権利の区別を付けず同じ混乱を見せています。

 「罪の概念は、同音異義の言葉である。罪は天主に対してなされる冒辱として現れ、その場合には、そのような冒辱は、確かに償われるのが相応しいであろう。しかし、罪は天主の本性にいかなる損害ももたらすものではない。天主を何ものも傷つけることが出来ないからである。従って、罪は人間の本性に損害を与えるだけである。」(アダルベール・アンマン『贖いと世界史』Adalbert Hamman, « La Redemption et l’Histoire du monde », Alsatia, Paris, 1947, p. 63, 67, 71-72. アンマンは新しいミサを創ったグループであるConsiliumのメンバーでした。)

 ここでも、たとえ天主の本性にいかなる損害を与えることなしに、人が天主の名誉に対して損害を与えることが出来ること(従って、償いをする義務があること)が忘れられています。

 何故なら、古典的な神学によれば、罪はまさしく天主の名誉に対してなされる冒辱であるからです。そして、天主の名誉に対して犯された冒辱は、罪を犯した者によって受けた損害によって計られるというよりも、むしろ犯された方の無限の御稜威の測りで計られるのです。天主は全てをご自分の栄光のために創造されました。天主こそが、人間が自分の全ての行為を秩序づけるべき目的なのです。

 聖パウロもいうように

 「食べるにつけ飲むにつけ、何事をするにもすべて天主の光栄のために行え。」(コリント前10:31)

 天主に与えられるべき名誉を与えないということによって、罪人は天主の敵として自分を立て、天主の正義に対して負債者となるのです。

 しかし、新しい神学によると、その反対に、人は罪を犯して自分或いは社会に損害を与えるけれども、天主に対してなされるのではないといいます。そして新しい神学は、罪は天主の正義を傷つけるのではなく、罪が天主の愛を拒むことであるという意味において、天主の愛を傷つけるのだといいます。そして、これこそが新しい1992年の『カトリック教会のカテキズム』の引き出す教えなのです。

 「罪は、理性、真理、正しい良心に背く過ちです。また、神と隣人への真の愛の欠如で、これはあるものへのよこしまな愛着によります。罪は人間の本性を傷つけ、人間の連帯を損ないます。「永遠の法に背く言葉、行い、または望み」という罪の定義があります。」(#1849) 

 「罪は天主に背くことです。「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」(詩編51:6)。罪はわたしたちへの神の愛にあらがい、わたしたちの心を神の愛から退けます。」(#1850)

 新しい神学は、創造のみ業における天主の寛大さを高揚することを求め、天主がご自分の名誉のねたみ深い守り主であると言うことは、天主の寛大さをおとしめることになると考えます。また、新しい神学は、天主の人間への愛は、たとえ私たちの心が天主の愛に対して閉じることがあっても、決して減少することない、と言います。

 「天主がイスラエルに対して抱く愛は、父の子に対する愛と比較されている(ホゼア、11章、1)。この愛は、母が子を愛する愛よりも強い(イザヤ、49章、14-15参照)。天主は、夫が妻を愛するよりも、ご自分の民を愛する(イザヤ、62章、4-5)。この愛は、最もひどい不忠実さえ乗り越える(エゼキエル、16章;ホゼア、11章参照)。そして、あげくには最も貴重な賜物に至るであろう。すなわち、「天主はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ、3章、16)のである。天主の愛は「永遠」である(イザヤ、54章、8)。「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らない」(イザヤ、54章、10)。「わたしは、とこしての愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」(エレミア、31章、3)。)(『カトリック教会のカテキズム』#219-220)

 天主の愛は罪によっても続き、天主の正義はいかなる償いをも要求しないのですから、私たちが過ちを犯したとしても、天主が私たちを罰するとしたら、それは天主の善性に反することとなります。従って、罪の不幸な結果は天主からではなく、人間から或いは被造物から生じることになります。

 これは、聖パウロの罪に関する教えを忘れた結果と言えるでしょう。聖パウロは、罪は天主の怒りを呼び起こすと教えています。

 「淫行、汚れ、情欲、邪欲、偶像崇拝である肉欲、これらが天主の怒りを呼ぶ。」(コロサイ3:5-6)

 「かつては肉の望みのままに生活し、肉と不義の思いに従い、他の人々同じく本来は怒りの子であった。」(エフェゾ2:3)

 「人の虚しい言葉に騙されるな。不従順なものの上に天主の怒りを呼ぶのはそれらの事柄である。」(エフェゾ5:6)

 天主はその御怒りを私たちがこの地上にいるうちから現します。

 「実に、天主の怒りは、真理を不正のとりことする人々の全ての不敬と不義に対して、天から現される。・・・」(ローマ1:18~)

 「異邦人を救うために宣教する私たちを妨げ、こうして、どこにいても自分たちの罪を満たしている。ここにおいて彼らの上に、天主の怒りは極みに及んだ。」(1テサロニケ2:16)

 天主は、ご自分の怒りを苦しみを送ることによって現します。

 「おまえたちの先祖はそこで私を試み、私を試した、40年の間、私の業を見ていたのに。・・・私は怒りのうちに誓った、『彼らは私の休息に入るまい』と。」(ヘブライ3:9-11)

 天主の怒りは特に最後の審判の時に輝くでしょう。

 「天主の正しい裁きの現れる怒りの日に、自分のために怒りを積み重ねるである。・・・真理に従わず不義に従う反逆者のためには、怒りと憤りを返される。悪を行って生きるものにはすべて、・・・艱難と苦悶がある。」(ローマ2:5-9)

 「天主が私たちに怒りを向けられるのが不正だろうか。決してそうではない。」(ローマ3:5-6)

 「愛するものよ、自分で復讐するな。かえって天主の怒りに譲れ。」(ローマ12:19)

 「迫り来る怒りから私たちを救うイエズスが、天から来られるのを待ち望んでいる」(1テサロニケ1:10)

 しかし1992年の『カトリック教会のカテキズム』には、聖パウロのこの教えが忘れ去られています。もし、『カトリック教会のカテキズム』が地獄について語るとすれば、それは人間が天主の愛の外へ進んで出ていくこと以外の何ものでもありません。『カトリック教会のカテキズム』にとって地獄は頑なな罪人である人間に天主が与える罰としてはもはや言われてはいないのです。(「痛悔もせず、神の慈愛を愛け入れることもせず、大罪を犯したまま死ぬことは、わたしたち自身の自由な選択によって永遠に神から離れることを意味します。まさに自ら、神と至福者たちとの交わりから決定的に離れ去ったこの状態こそ、「地獄」の語が意味するものです。」#1033)

 その時、もはや天主の正義を宥める必要性は、消え失せてしまいます。従って、キリストが人類の身代わりに、人類の代理として天主の正義を宥めたこと、「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死去された。・・・いまキリストの御血によって義とされた私たちは、なおさらに主によって天主の怒りから救われるのである。」(ローマ5:9)と言うことは、躓きになるのです。

 「第2の謎は第2の躓きである。それは何かというと、永遠の聖父がご自分の聖子を私たちの代わりに罪の償いをするように選ばれたばかりか、最も無辜の、最も愛された、同情を引き起こすのに最も相応しいいけにえを目前にしつつ、天主聖父はこのいけにえに最も屈辱的で最も苦しい償いを要求されるのです! ・・・なんという厳しさでしょうか! 何と理解に苦しむほどの無神経でしょうか! 皆さん、むしろ天主のお考えを何と酷く理解しているのか!と言ってください。そのような理解を正当化するものは何もありません。」(アンリ・ピナール・ド・ラ・ブレのパリのノートルダム大聖堂での講話『贖い主なるイエズス』 Henry Pinard de la Boullaye, Conferences de Notre-Dame de Paris, « Jesus redempteur », Spes, 1936, p. 119-120.)

 もしも新しい神学において、天主の正義の要求を「満足させる」(satisfaction)という言葉が何度か使われているとしても、それは「天主の愛の要求するものではなく、むしろ私たちのうちにある愛が必要とするものである」(イヴ・ド・モンショイ『キリストに関する講義』 Yves de Monstcheuil, « Lecon sur le Christ », editions de l’Epi, Paris, 1949, p. 133-134)と言うことを強調するためです。

 その時、この天主の正義の要求を「満足させる」(satisfaction)ということは、私たち自身の霊的健康を取り戻すということ、とくに私たちの愛することが出来るという能力を取り戻すことと同じことになってしまいます。

 「罪はさらに罪人自身ばかりでなく、神ならびに隣人との関係をも傷つけ弱める。赦しの秘跡は罪を赦すが、罪が引き起こしたすべての無秩序を修繕するわけではない。罪人は、罪から解放された後も、霊的健康を完全に回復しなければならない。だから、罪の何らかの償いをせねばならないのである。つまり、適当な方法で「弁償する」、言い換えれば「罪滅ぼし」をせねばならないのである。この弁償を「償い」と呼ぶ。」(#1459『カトリック教会のカテキズム』)

 私たちはこのことに気がつきます。天主の正義を満足させることは、もはや天主のなす報復という次元を全く離れて、単なる治療的なものとしてだけ描かれている、ということです。


B) 「贖い」にかんする新しい神学

 第2バチカン公会議以前の教皇様たちは、一度ならずとも、ご自分たちの書く回勅の中で「贖い」に関する古典的な教義を要約して見せました。「贖い」は古典的な教えによれば愛の業ですが、天主の正義を宥める愛の業です。

 「天主の贖いの奥義は、まず、その本性によって愛の奥義です。天のおん父に対するキリストの正義を果たす愛の奥義です。この正義に対して、愛と従順の心をもってお捧げになった十字架の犠牲は、人類の罪のために為されるべきであった溢れるばかりの無限の贖いを提示しています。「キリストは、愛と従順によって苦しみを受け、天主に対して、人類のすべての罪の償いとして要求されていたもの以上を天主にささげる」(神学大全Ⅲ・q・48a・2)。贖いの奥義はさらにすべての人間に対する至聖三位と天主なる贖い主の憐れみ深い愛の奥義です。私たちは罪を贖うために天主の正義を満足させることはできなかったのですが、ご自分のいとも尊き御血を流した結実である、測り知れない功徳の豊かさによって、天主と人との間の友好の契約を回復し、まったく完成することが出来たのです。天主と人間の間の友好の契約は、アダムの嘆かわしい罪によって、地上の楽園で最初に破られ、それに続いて選民の無数の罪によって犯されてきました。天主なる贖い主は私たちに対する燃える愛から、私たちの正当かつ完全な仲介者として、人類の義務および負債と天主の権利とを完全に調停なさいました。キリストは、天主の正義とその慈悲の間の絶妙な和解を成し遂げられた方なのです。ここにこそ、まさしく、私たちの救霊の奥義の絶対的超越性があるのです。」(ピオ12世、1956年5月15日回勅『ハウリエーティス・アクヮス Haurietis aquas』)

 「過ぎ越しの神秘」の観点から言うと、「贖い」とは「天主に何かを返却するのではなく、天主を人間へと返すことを目的とする。」(エミール・メルシュ『神秘体の神学』 Emile Mersch, « Theologie du Corps mystique », Desclee de Brouver, Paris, 1949, t. I, p. 329. Cf. Louis Richard, « Le mystere de la Redemption », Desclee, Tournai, 1959, p. 146, 213, 243 ss.)ので、新しい見方を帯びます。「贖い」はもはやキリストによってなされた天主の正義を満足させることではなく、天主が人類にした永遠の契約の最終的な「啓示」となるのです。そして、この契約は罪によって決して破棄されることはありませんでした。

 「真実神の子とされる尊さへの永遠の選びの道に沿って歴史上キリストの十字架はまさに立っています。そのキリストは神のひとり子、「光よりの光、まことの神よりのまことの神」として神と人類、神と人間、一人ひとりの人と感嘆すべき契りへの最終のあかしをたてに来られたのでした。」(ヨハネ・パウロ2世1980年11月30日回勅『いつくしみ深い神』Dives in miseridordia, 7.)

 「贖い」はその時私たちに「神の愛の深みを知る道を開いたのでした。その愛とは類例を見ない御子のいけにえをいとわず、人々に対する創造主かつ父であるお方の忠実を全うしようとするもので・・。このあがないは、全きものの絶対の充満である神の神性の究極、決定的な啓示であって・・」(ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』Dives in miseridordia, 7.)、このキリストの答えにおいて、人は聖父の変わることのない愛を、人がつくったいかなる障害よりも遙かに強い愛を見いだすのです。

 「もし天主が全ての人々に救いの門をもう一度開くためにその御子をお遣わしになったなら、それは天主が人々に対する態度を変えなかったからである。・・・天主の御ひとり子が人類の歴史の中心に来られたことは、天主は、いろいろな障害があるにもかかわらず、ご自分の計画の業を遂行しようと望まれているということを明らかにしている。」(国際神学委員会, Quaestiones selectae de Deo Redemptore, 1994年12月8日、第4部第40番と42番)こうして「キリストのこのメシア的計画」すなわち「いつくしみの啓示」(ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』Dives in miseridordia, 8.)が達成されたのです。

 キリストの「贖い」の業が、人々の罪に対し天主の正義を満足させることを目的とするのではなく聖父の愛を完全に啓示することであるとすると、「贖い」に関する古典的な神学の次の2つの点において修正を施さなければなりません。まず、「贖い」の業は、人としてのキリストにと言うよりも、むしろ天主聖父に帰されなければならないことです。「贖いについてのキリスト教の信仰は、何よりもまず天主に対する信仰です。イエズス・キリストにおいて、すなわち聖父の固有の唯一の人となった御子において、「人々が天主と呼ぶ方」(つまり聖父)は、全ての人が信頼することの出来る唯一の真の救い主として自らを啓示し、自分を顕わにする」(国際神学委員会, Quaestiones selectae de Deo Redemptore, 1994年12月8日、第4部第14番)

 イエズス・キリストは、固有の意味でもはや贖い主ではなく、むしろ天主聖父がそこにおいて救う場所となります。何故ならキリストにおいて聖父の愛とその名前が私たちに啓示されるからです。

 「イエスとはヘブライ語で「神が救い給う」という意味である。お告げのときに、天使ガブリエルは、本質と使命を同時に表すこの名前を生まれるべきお方の名前として与えた(ルカ、1昭、31参照)。「神おひとりのほかに、一体だれが罪を赦すことができるだろうか」(マルコ、2章、7)であるならば、人となった御ひとり子、つまりイエスにおいて、「自分の民を罪から救うのは」(マテオ、1章、21)神ご自身である。イエスにおいて、神は人類の救いの全歴史をこのように完結されるのである。・・・イエスという名は、神の名そのものが御子の人格に現存することを、つまり全人類を決定的に罪から解放するために人となった方の中にあることを意味する(使徒行録、5章、41;ヨハネの手紙、三、7参照)。イエスとは神的な名前で、人を救う唯一の名であり、(ヨハネ、3章、18;使徒行録、2章、21参照)、今より後すべての人がそれを呼び求めることができる。なぜならば、ご託身によってイエスがすべての人間と結び付き、その結果「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」(使徒行録、4章、12。また使徒行録、9章、14;ヤコボ、2章、7参照)からである。」(『カトリック教会のカテキズム』#430, 432)

 更に、第2の点は、「贖い」の主要な行為はもはやキリストの死ではなくなってしまうと言うことです。そうではなく、キリストの復活であり、御昇天こそが「贖い」のもっと重要な行為となる、ということです。

 「『贖い』について語る人はまず御受難を考え、その次に受難を補うものとして復活を考えます。しかし『過ぎ越し』について語る人はまず復活したキリストのことを考えます。その時、復活は事件の結末(エピローグ)としてではなく、救いの玄義が要約される究極及び目的として現れてきます。」(エモンマリ・ロゲ『「過ぎ越しの神秘」とは何か』 La Maison-Dieu, revue de pastorale liturgique, 67, 3e trimestre 1961, p. 11. Cerf)

 何故復活を優先しなければならないのでしょうか? 何故なら、新しい神学によれば、復活は啓示の充満であって、この啓示のためにキリストは人となったからです。

 「キリストが3日目に復活させられたことは・・・、悪に支配されている世界の中のいつくしみ深い愛の全啓示を全うするしるしとなります。・・・キリストは復活のうちに、御父が御子に向けられる愛と、御子を通して全ての人に向けられる愛を明らかにされたのでした。神は死者の神ではなく、生きているものの神である。復活をもってキリストはいつくしみ深い愛の神を現されました。」(ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』 Dives in miseridordia, 8.)

 新しい神学は私たちに次のように言います。この教えによって「私たちは過ぎ越しの動力dynamisme pascalと呼ぶことの出来るものを発見した」(ジャン・ガイヤール『典礼刷新における「過ぎ越しの神秘」』 Jean Gaillard, « Le mystere pascal dans le nenouveau liturgique », La Maison-Dieu, revue de pastorale liturgique 67, 3e trimestre 1961, p. 36. ガイヤールは新しいミサを創ったグループである Consiliumのメンバーでした。)と。

 過ぎ越しの動力は十字架の神秘としてとどまりますが、「その素晴らしい繁殖力の充満において見られた限りの、すなわちキリストの復活と栄光のうちの昇天をそのうちに含むものとしての」十字架の神秘であり、「今では生かす霊であるプネウマ(pneuma)となったキリストによって、キリストが人に与えたすべての素晴らしい賜物の輝く影響を含むものとしての」(ルイ・ブイェ『典礼生活』 Louis Bouyer, « La vie de la liturgie », collection Lex orandi, Cerf, Paris, 1956, p. 117. Cf. Louis Bouyer, « Mysterion », in Supplement de la Vie spirituelle 23, 15 novembre 1952, p. 402.)十字架の神秘として、です。

 光り輝く啓示として考えられた時、「過ぎ越しの神秘」は「プネウマとなったキリスト Christ-pneuma」と同じことを意味します。「プネウマとなったキリスト」は「キュリオス Kyrios」とも呼ばれています。「キュリオス Kyrios」は、すなわちご自分の『過ぎ越し』以来、「この世の死すべき生から天上界の栄光ある生へと過ぎ越し、・・・時の境界を砕き、・・・これからこの世の時を超越するその救いのみ業は、秘蹟と典礼の神秘において、ある『現存』、ある『現在化』を再び見いだすことが出来る」(ジャン・ガイヤール『典礼刷新における「過ぎ越しの神秘」』 Jean Gaillard, « Le mystere pascal dans le nenouveau liturgique », La Maison-Dieu, revue de pastorale liturgique 67, 3e trimestre 1961, p. 72.)と言うのです。

 新しい神学によれば、契約の啓示の充満は、しみもしわもない教会であるご自分の神秘体を含む栄光を受けたキリストにおいて存在するのです。「神秘とはキリストご自身である。ただしそのうちにご自分の体、すなわち教会をその固有の充満として含むキリストである。そしてそれによって、神秘とは人類を、人類のうちに、天主と共に、その御子の体において一つにまとめることである。」(ルイ・ブイェ『ミュステリオン』 Louis Bouyer, « Mysterion », in Supplement de la Vie spirituelle 23, 15 novembre 1952, p. 402.)

 従って、ここからヨハネ・パウロ2世のこういう言葉が出てくるのです。「『過ぎ越しの神秘』とは、天主のきわめがたい神秘を啓示する頂点にあるキリストである。」(ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』 Dives in miseridordia, 8.)


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)