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第40号 2002/09/03 聖ピオ10世の祝日

聖ピオ十世
聖ピオ十世


アヴェ・マリア!

 9月3日は、聖伝の典礼暦によると聖ピオ10世教皇の祝日です。また、9月3日といえば、福者ピオ9世が、2000年の9月3日に列福されました。9月を迎え、今は秋の読書シーズンです。そこで、今回は、翻訳のできたてほやほやの福者ピオ9世の回勅『クヮンタ・クラ』(1864年12月8日発布)をお読み下さい。


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「クヮンタ・クラ」

-現代の誤謬の排斥-
ピオ9世による回勅
(1864年12月8日発布)

Piux IX

尊敬する兄弟たち、聖座の好意を得、一致を保っている全ての大司教、司教へ

 尊敬する兄弟たちに挨拶と使徒的祝福とをおくります。


1.

 私の先任者であるローマ教皇たちは主キリストご自身から使徒たちの頭、いとも栄えあるペトロに託された、羊と子羊とを飼うという義務ならびに職務を果たすべく、どれほどの注意と司牧的な警戒とを払って、倦むことなく熱心に主の群れ全体を、信仰の言葉と健全な教えで養い、かつ毒を含んだ牧草地から守ったかは皆に、とりわけ、尊敬する兄弟のみなさんに周知のことです。

 そして人々の霊魂の救いを特に気にかけていた、この同じ先任教皇たちは、知恵にあふれた諸々の書簡および教令をとおして、私たちの神的な信仰 およびカトリック教会の教理、道徳の純潔さ、ならびに人々の永遠の救いに対して害悪となり、たびたび激しい動乱を巻き起こし、教会と国家の双方をいたく苦しめ、疲弊させたこれらの異端、誤謬を暴露し排斥することに何にもまして意を注ぎました。

 この同じ目的のために、私の先任者たちは使徒的な勇敢さをもって、悪辣な者たちの害悪に満ちた企みにたゆまず抵抗しました。

 実際、己が内に秘めた混乱をはき出す、猛り狂う大洋の波にも似たこれらの者たちは、欺瞞に満ちた言説と、この上なく有害な著作によってカトリック教ならびに市民社会の基盤を打ち壊し、また人々の間からあらゆる美徳と正義を除き去り、かつ一般大衆なかでも特に人生経験のない若者を腐敗させ、誤謬の罠に陥れ、挙げ句の果てはカトリック教会の懐から奪い去るべく努めてきました。


2.

 しかるに今、尊敬する兄弟たちには周知のとおり、私がこのペトロの座に挙げられる-これは天主の御摂理の隠れた配慮によるのであり、当然のごとく私自身のいかなる功徳によるものではありません-やいなや、かくも多くの悪辣な言説によってかき立てられた真に恐るべき嵐、また、キリスト教を奉じる民を覆う、かくも多くの誤謬によるきわめて重大な災禍-これについては、嘆いても嘆きすぎることはありません-をこの上なく大きな魂の悲嘆をもって目にした私は、自らの使徒的役務の命じるところにしたがって、また先任教皇らの輝かしい模範にならって声を上げました。

 このようなわけで、数多くの刊行された回勅、および枢機卿会議における訓話、ならびにその他の使徒的書簡において、私はこのきわめて不幸な時代の主立った誤謬を排斥し、かつあなた方の司教としの職務にふさわしい警戒(心)を喚起し-あなた方はこれに見事に応えてくれました-、そしてカトリック教会のいとも慕わしい全ての子らに、かくも恐るべき悪疫を忌み嫌い、逃れるべきであると再三にわたり諭し、勧告してきました。

 そして、とりわけ1846年11月9日付であなた方に宛てて書かれた私の最初の回勅、および枢機卿会議において行なった2つの訓話(1854年12月9日と1862年6月9日)の中で、私は特に現代において流行し、きわめて多くの人々の霊魂を失わせ、また市民社会自体にも損害を与えている忌むべき見解の先駆けとなっていたものを排斥しました。

 これらの見解はカトリック教会とその健全な教理および尊ぶべき諸権利に対してのみならず、天主によって万人の心に刻みつけられた永遠の自然法ならびに正しい理性に著しく対立するものであり、ここからおよそその他全ての誤謬は源を発しています。


3.

 [このように] 私はこの種の主立った誤謬を再三禁止し弾劾するのを怠りませんでした。

 しかし、カトリック教会のために、また天主から私に託された数多(あまた)の霊魂の救いのため、さらには人間社会自体の福祉のために、先に述べたところの誤謬の泉からいわば湧き出てくる、その他の悪質な謬説を根絶するべく、私が再びあなた方の司牧的配慮を喚起することが必要となりました。

 それらの悪辣で欺瞞に満ちた見解は、とりわけ次に挙げる理由により、ことさら忌避されるべきものです。

 すなわちこれらの見解は、カトリック教会がその神的創始者(であるキリスト)の制定および命令により、世界の果てまでも-それも私的個人に対してだけでなく国々、諸民族、ならびにそれらの首長に対して-自由に行使すべき、かの有益な影響が妨げられ、かつ取り除かれること、また、教会と国家との間の相互の協力体制ならびに意志の和合 -かかる状態が宗教および国家の利害にとって常に好ましく有益なものであったことは経験の示すところですが-を取り払うことへとつながるものであるからです。

 尊敬する兄弟たちよ、あなた方がよく承知しているように、昨今、いわゆる「自然主義」の不敬虔かつ不条理な原理を市民社会に適用して、「公民社会の最良の構築ならびに世俗社会の発展のためには、宗教を-あたかもそれが存在していないかのごとく- いささかも考慮に入れず、あるいは少なくとも真の宗教と偽りの宗教との間の一切の区別なしに、人間の社会が運営され、統治されることが必要である」との教説を述べてはばからない者たちが少なからずいます。

 彼らは聖書と教会、教父らの教えに反して「市民社会にとって最良の状態とは、カトリック宗教を傷つける者たちを、公共の平和がそれを必要とする場合を除き、法制に基づく刑罰によって抑圧するいかなる義務も、世俗権力に対して認められていないことである」と公言してはばかりません。

 統治に関するこの全く誤った考えから、彼らはカトリック教会および霊魂の救いに及ぼす影響において、至って致命的な見解、先任者グレゴリオ16世が「常軌を逸した考え」と呼んだ見解、すなわち「良心の礼拝の自由は、各人の個人的権利であり、法律のかたちで宣言され、全てのしかるべく構築された社会において、正当なこととして主張されねばならないものである。また、市民には、絶対的自由に対する権利が存し、教会のであれ国家のであれ、いかなる権威によっても、これは抑制されてはならない。かかる自由によって市民は公かつ明け広げに自らの思想を、それがどのようなものであれ、口頭で、あるいは出版物をとおして、またはその他のいかなる手段ででも表明し、宣言することができる」とする見解です。

 しかし、無思慮にも、このような断定を下す彼らは、自分たちが「滅びへと導く自由」 を説いていること、また、「もし人間の議論に、常に自由に議論をなす余地が与えられたならば、真理に抵抗し、人間的知恵に基づくひびきの良い弁説に信を置く者たちに決して欠くことはない」という事実に気づかず、思いもよりません。

 「しかるに、主イエズス・キリストの教えそのものから、キリスト教的信仰と知恵とは、どれほどの注意をもってこの種のきわめて有害な詭言をさけるべきかを、私たちは承知しています」。


4.

 宗教が市民社会から取りのぞかれ、神的啓示による教理、ならびにその権威とが否定され、かつ正義と人間の権利についての正しい概念とがくらまされ、失われ、さらに真の正義と合法的権利が物理的力に取って代わられるところでは、若干の者たちが健全な理性の最も確実な原理を全くなおざりにし、かつ軽視して、次のように公言してはばからないという事実にも納得がゆきます。

 すなわち、「いわゆる世論、もしくは何か他のかたちで表される人民の意志は、いかなる神的または人間的抑制にも束縛されることのない至高の法を形成する。また、政治の領域においては、既成事実が、かかる事実が成立する当の状況自体のゆえに、法としての効力を持つ」と。

 しかるに、人間の社会が宗教ならびに真の正義の束縛を解かれたなら、富を保有かつ蓄積する以外のいかなる目的も持ち得ず、また、かかる社会はその行動において、自らの快楽と利害を追求する以外のいかなる法にも従わない、という事実を理解し、明らかに見てとらない人がどこにいるでしょうか。

 それゆえ、この類(たぐい)の者たちはキリスト教世界、文明ならびに文学にきわめて大きな貢献を成してきた諸修道会を忌み嫌い、後者はその存在を許される正当な理由をもたないと声を大にして叫びます。

 こうして、これらの邪(よこしま)な者たちは、異端者らがなす中傷に拍手喝采をおくるのです。

 しかるに、先任者ピオ6世が賢明にも教えたように「修道会の廃止は、福音の勧告を公に宣する身分を傷つけるものであり、また、使徒継承の教えに適合するものとして教会において称揚されている生活様式に対して有害である。さらに、これ(修道会の廃止)は、私たちが祭壇にて崇敬する当の誉れ高い創立者たち[の名誉]をも傷つける。彼らは、これらの修道会を、ただ天主の霊感にしたがって創立したからである」(1791年3月10日ド・ラ・ロシュフコー枢機卿への手紙)と言えます。

 そして、これら[悪意]の者たちは「キリスト教的愛徳のために、公然と寄付を為す」許可を市民にも、教会にも与えないようにすべきであり、また、「天主の礼拝のために定められた日に肉体労働を禁じる」法律が撤廃されるべきだ、と不敬にも言い立てるのです。

 彼らは、かかる主張を、当の許可ならびに法律は、社会運営の最良の原理に反するという、この上なく欺瞞に満ちた口実の下に成します。

 さらに、宗教を社会から取りのぞくだけではあき足らぬ彼らは、これを個人の家庭からものぞき去ろうとします。

 社会主義と共産主義という、この上なく有害な誤謬を教え、表明する彼らは、「家政的社会ないし家庭は、その存在の根拠をことごとく、唯国家の法の内にのみ有するのであり、したがって子どもに対する親の一切の権利は、国家の法にのみ由来する」のだと断定します。

 かかる不敬な言説および秘密裏に進められる策謀によって、これら欺瞞に長(た)けた者たちが達成しようとする目的は、カトリック教会の健全な教えと影響が青少年の指導ならびに教育からことごとく取りのぞかれ、そうして青少年の多感で柔軟な心が、ありとあらゆる有害この上ない誤謬と悪徳とによって汚染され、ねじ曲げられるようにする、ということです。

 実際、神聖なる事柄、および世俗的事柄のいずれをも混乱に陥れ、社会の正しい秩序を覆し、かつ人間の、そして天主の一切の権利を廃止すべく働いてきた者たちは、先に示唆したように、自分たちの全ての悪辣な企図、術策、努力を警戒心に欠く青少年をあざむき、堕落させることに傾注してきました。

 このために、彼らはありとあらゆる邪悪な手段を用いて、在俗および修道会の聖職者を絶えることなく攻撃するのです。

 当の聖職者階級は、誰もが認める歴史上の記念碑的業績の数々が明らかに示すとおり、数え切れぬほど多くの利益をキリスト教世界、文明、ならびに文芸にもたらしてきたというのに、です。

 また、これに加えて彼らは、「科学と文明の有益な、真の発展に対して、もっぱら敵対的である聖職者は、青少年の指導、教育の責務と役職から外されなければならない」と公言しています。


5.

 一方、また別の者たちは、革新家たちの悪辣かつ度々排斥されてきた、作り事に過ぎぬ謬説を蒸し返し、厚顔無恥にも、他ならぬ主キリストから与えられた、教会とこの使徒座に属する至高の権威を国家権力の意志に従属させ、かつ外的な事柄 に関する教会と使徒座の一切の権利を否定します。

 実際、彼らは以下のような主張をなして恥じることがありません。

 「教会の法は、これが国家権力によって公布されるのでないかぎり良心を拘束せず、また宗教および教会に関するローマ教皇の法令、勅令は国家権力の許可と承認、あるいは少なくともその同意を必要とする。さらに、秘密結社-かかる秘密結社が宣誓を会員に要求するものであるかどうかの区別は、この際問題ではありません-を排斥し、かつこれに参加ないし賛同する者たちに破門の罰を科す教皇令 は、この種の結社が国家権力によって容認されている所では効力を持たない。また、トレントの公会議および諸教皇が教会の権利と所有物 を攻撃し、簒奪(さんだつ)する者たちに対して下した破門宣告は、霊的および現世的事柄の混同によるものであり、もっぱら世俗的な利益の追求につきるものである。信徒が自らに属する地上的事物を用いるにあたって、教会は彼らの良心をしばる規定を定めることはできない。また教会は、その法を破る者を物質的刑罰 によって抑制する権利を有さない。さらに、教会、修道会およびその他の教会組織の有する財について国家政府が所有権を主張し、これを要求することは神学ならびに市民法の原則に適っている。」

 これに加え、彼らは数知れぬ倒錯した見解、誤謬の源となってきた、異端者らの主義・原則を明け広げに公言して恥じるところがありません。

 実際、彼らは「教会の権力は天主の定めによって 国家権力から区別され、独立した権力などではなく、もし仮にかかる区別ないし独立がなされるならば、それは教会によって国家権力に本質的に属する権利が侵害され、簒奪される、ということに他ならない」と、ことあるごとに言い立てます。

 また、私は、健全な教えを受け容れず、「教会の全般的な善益、ならびにその権利および規律に属する事柄を対象とした使徒座の判断および規定は、これが信仰と道徳上の教義に関連するものでないかぎり、同意、恭順を拒むことは罪にも、カトリック信者としての身分 を失うことにもならない」と主張する者たちの大胆不敵を見過ごすわけにはゆきません。

 かかる言説が、教会全体を養い、統治し、かつ導く十全な権能が天主から主キリストご自身をとおしてローマ教皇に与えられた、とするカトリック教義にいかに甚だしく対立するものであるかは、誰の目にも明らかなことです。


6.

 かくも悪質で倒錯した謬説を前にして、自らの使徒的職務 を念頭に置き、また、私たちのこの上なく神聖な宗教、ならびに健全な教理と天主から託された霊魂らの救いをおもんばかり、さらに人間社会自体の福利を心にかけ、私は再び教皇としての声明を発するべきだと判断しました。

 それゆえ、教皇としての権威により、私はこの教書中、種々のかたちで言及されている全ての悪質な言説ならびに教説を個々に拒絶し、禁止し、排斥し、またそれらがカトリック教会の全ての子らによって拒絶され、禁止され、排斥されたものとして見なされることを望み、かつ命じます。


7.

 尊敬する兄弟たちよ、これらのことに加えて、昨今、真理と正義を忌み嫌い、かつ私たちの宗教に最も激しく敵対する者たちが、悪意のある嘘によって人々を欺き、世界中で発行される有害な書籍、パンフレット、新聞をとおして、ありとあらゆる謬説をまき散らしていることは、あなた方もすでによく承知していることです。

 また、現代、サタンの精神によって動かされ、かつかき立てられて、私たちの支配者にして主なるイエズス・キリストを受け容れず、その神性を頑なに否むまでに不敬をきわめる者たちがいます。

 しかしこの点に関して、かくも大きな不敬虔に対し司教としての声明を怠らずに発した尊敬する兄弟のみなさんを私は、これにふさわしい大きな称賛をもって讃えずにはいられません。


8.

 それゆえ、この書簡をとおして私は、私の憂慮を分かち合い、秀でた信仰心と敬虔、あなた方の心を私に結びつける驚嘆すべき愛、忠誠、孝愛のゆえに、重苦しい苦悩のさ中にあってこの上ない慰安、喜び、慰めであるあなた方に、再度心からの愛情を込めて語りかけるのです。

 実際、こうして私、またこの使徒座に、この上なく恭順で敬愛に満ちた心で結ばれたあなた方は、何にもまして重要な、司教としての聖役を果たすべく熱心に倦むことなく励んでいます。

 ですから私は、あなた方の抜きんでた司牧的熱意に信頼し、あなた方が天主の言葉である霊の剣を取り、また主イエズス・キリストの聖寵によって強められ、さらなる注意をもって、あなた方に託されている信徒が、『御父が植えたものではないため、イエズス・キリストが育てない有害な駄弁』 から遠ざかるよう、日々より一層の配慮を傾けることを期待します。

 また、その同じ信徒らに、真の至福はことごとく私たちの荘厳な宗教ならびにその教えと実践から、とうとうと流れ出ること、そしてその奉じる天主が彼らの主である ところの民は[真に]幸いであることを教えてやまないようにしてください。

 また、「諸国はカトリック信仰にその根拠を置く」 こと、ならびに以下のような態度ほど致命的で没落へと導き、あらゆる危険を招き入れるものはない、ということを教えてください。

 すなわち、「人間は自由意志を持って生まれでる、という事実のみで足りるとして、主からそれ以上何も求めないこと。

 突き詰めて言えば、私たち[人間]の創造主を忘れ、己が自由を誇示するべく、その権能を公然と否認すること 」です。

 さらに、「王としての権力は世を統治するためだけに与えられたのではなく、まず何よりも教会の保護のために与えられた」ということ、また、もう一人のきわめて賢明で勇敢な先任者聖フェリクス教皇がゼノ皇帝に諭したように、「カトリック教会に自らの法を守ることを許し、かつ誰にもその自由を妨げることを許さない」ならば、これほど諸侯ならびに君主らの益かつ栄誉となることはない」という事実を怠ることなく教えてください。

 「なぜなら、以下のように振る舞うことが彼らに益となることは確実だからです。すなわち、天主に関することが問題である場合、彼らが、天主の定めにしたがって、王としての意志をキリストの司祭らに服従させ、後者の意志に対して優先させることのないようにする」 ことです。


9.

 尊敬する兄弟たちよ、しかるに、教会ならびに市民社会を襲う、かくも大きな災悪のただ中、カトリック教会の利益およびこの使徒座に対してのかくも大きな陰謀、さらにこれほど大量の誤謬の渦中にあって、慈悲をかち得、時宜に適った助力としての聖寵をいただくために、恩寵の玉座に信頼をもって近づくことが殊更必要です。

 それゆえ、私は全ての信徒に、私およびあなた方と心を合わせ、いとも慈悲深い、光とあわれみの父に、この上なく熱心で謙虚な祈りをもって懇願し、また、私たちをその御血によって天主に対し贖ってくださった主イエズス・キリストのもとにいつも深い信仰をもって逃れ、さらに、私たちへの燃えるような愛の犠牲であるそのいとも甘美な聖心に、主がその愛の絆(きずな)によって一切のものをご自分へと引き寄せてくださるよう、また、全ての人が主のいとも聖なる愛に燃え立たされて、その聖心にしたがって正しい道を歩み、万事において天主のみ心にかない、種々の善業 において実を結ぶよう、真摯に倦むことなく祈り求めるように激励することをよしとしたのです。

 しかるに、人々の祈りは、それがあらゆる汚れから浄められた心から発するのであるとき、最も天主によみせられるものなので、私は使徒的寛大さをもって、私に託された、教会の天的な宝庫をキリストの信徒らに対して開くことを決意しました。

 それは、当の信徒らが、より真摯な心をもって真の敬虔に燃え立ち、そして告解の秘跡をとおして、おのが罪の汚れから浄められて、さらなる信頼をもって天主に祈りを捧げ、そのあわれみと恩寵とを受けることができるように、です。


10.

 この書簡をとおして、私は教皇としての権威により、カトリック教界の全ての信徒一人々々に聖年特別の全免償を来る1865年中、特定の1か月間-これをどの月に指定するかは、司教区ごと、あなた方ならびに他の合法的教区管轄司教の判断に委ねます-、私の教皇職の始めにあなた方司教階級に属する聖職者全てに宛てて教書のかたちで出された教皇勅書『アルカノ・ディヴィネ・プロヴィデンツィエ・コンシリオ』(1846年11月20日)をとおして譲渡したのと全く同じ仕方とかたちで、また、これらの書簡において私が与えたのと全く等しい権能をもって与えます。

 しかるに私は先述の書簡中で規定された事柄が、明確に指定された例外を除き、もれなく遵守されることを望みます。そして私はかかる免償を、その授与に障害をきたすようなこと一切---その中には一つ一つ個別に言及し、授与を手控える動機となるべき事柄をも含まれます---を念頭に置きつつも、あえて与えます。

 しかるに、この件に関して何らの疑い、困難な点もないように、私は先述の諸書簡の写しがみなさんのもとに送られるよう、指示を出しました。


11.

 尊敬する兄弟たちよ、心の底から、全霊を傾けて天主の御あわれみを請い求めましょう。なぜなら、主ご自身『私は我があわれみを彼らから取り去ることがない』と仰せになっておられるからです。

 求めましょう。そうすれば私たちは受けるでしょう。
 もし、私たちが受ける際に、遅れまたはのろさがあるとすれば、それは私たちが主に対して多くの罪を犯したからです。

 叩きましょう。叩く者には戸が開かれるからです。
 すなわち、もし戸が私たちの祈りとうめき、それに涙 -私たちは倦むことなくこれを辛抱強く続けねばなりません- によって叩かれ、そしてかかる祈りが一致したものであるならです。

 各々、唯自分自身のために祈るのではなく、主が私たちにそのように祈るようお教えになったとおり、全ての兄弟のために祈るように。

 しかるに、天主が私自身、あなた方、そして全ての信徒の祈りと願いとを、より快(こころよ)く聞き容れてくださるように、天主の御母にして、原罪の汚れなくいと聖き童貞マリアに、主に取り成してくださるよう全き信頼を込めて願うことにしましょう。

 聖母は、あまねく世界で一切の異端をことごとく打ち散らし、私たちみなの愛深き母として「この上なく甘美で…あわれみに満ち…全ての者に対し、ご自分がよく願いに耳を傾けてくださる、きわめてあわれみ深い方であることを示されます。また(聖母は)、全ての者の必要・困窮にきわめて深い情愛をもって同情されます。」

 さらに聖母はその聖なる独り子、金色に輝く衣をまとい、天使・聖人にかこまれ、私たちの主イエズス・キリストの右に立つ女王として、御子から望む全てを得ることがおできになります。

 また、使徒の首長であるいと祝されしペトロ、および彼と共に働いた使徒パウロ、ならびに天国の全ての聖人の取り次ぎを願うことにしましょう。

 彼らは今や天主の朋友として天の御国に至ったのであり、椰子の葉の冠を戴き、自ら自身の永遠の境遇について思いわずらうことのないため、もっぱら私たちの救霊を気にかけています。

12. 最後に、心からあなた方のため、天主にありとあらゆる天的な賜を願いつつ、私は大きな愛を込めて心の底からの使徒的祝福を私のあなた方への特別の愛情の印として、尊敬する兄弟であるあなた方自身、また全ての聖職者ならびにあなた方の監督・配慮に委ねられた信徒に与えます。


天主の御母なる童貞マリアの原罪の汚れなき御宿りの教義定義から数えて
10年目の1864年12月8日
ローマ、聖ペトロ大聖堂にて
教皇在位第9年に

Japanese translation © Society of Saint Pius X


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 祈りと感謝のうちに。
 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)